File106. 女神の口づけ
目の錯覚かとカイリは思った。
クレーターの底――むき出しになった多重独立防護層・第五層の天井の上に、何か不確かなものが見える。
かげろうのように存在感のない何か。
視力の高いレイウルフがつぶやいた。
「人の形をしているようですが、あれは……まさか」
カイリが目を凝らす。
次第に輪郭がはっきりしてくるそれは、たしかに人のように見えるが半透明でよくわからない。
「待て、レイウルフ」
そう叫んで走るリュシアスの前を、すでにレイウルフが駆けていた。
カイリとマティも後を追って、クレーターの斜面を降りていく。
「あの時のビャッコのようだな」
リュシアスの言葉を聞いて、背景が透けて見える状態は似ているとカイリも思った。
ゲンブが作った地下空洞にカイリが降りたとき、両手に抱えていたのが〈品浮〉で半透明になったビャッコである。
ただし〈品浮〉であれば正確にトレースされた輪郭がはっきり見えるはずであり、そもそも人にはかけられないという制約があるはずだった。
「サナ……なのですか?」
そうつぶやくレイウルフの前で、輪郭がぼやけた立体映像のような女の目が開いた。
その頃にはカイリも気づいていた。
金髪をショートボブにしたエルフ族の女――サナトゥリア。
屋外だというのに、まるで狭い室内に反響するような声が聞こえた。
『初代は――ヒューマンの王は死んだんよ。二十一代目、あんたがここに来た目的はわかっとる』
実際にはカイリの鼓膜は震えていない。
その場にいる全員の聴覚神経に直接言葉が伝えられていた。
カイリにはわからなかった。
彼女が味方なのか、敵なのか。
なぜこのような姿で現れたのか。
サナトゥリアの向こう側の空に、飛来する四体の竜が見えた。
ひときわ目立つ大きな蒼い竜はセイリュウだ。
クレーターの斜面に最初に降りた紅い竜が、その姿を少女に変える。
「お姉さんっ。変な村では、助けてくれてありがとう!」
ボリュームのある赤髪をはねさせて駆けてきたスザクが、その途中で「あれ?」とつぶやいた。
そのまま半透明のサナトゥリアに遠慮なく抱きつこうとする。
――が、当然のようにその腕は空を切った。
ぶんぶんと腕を振るスザクが、ようやく気づく。
「あっ、立体映像かっ」
その頃には残りの三人の竜が追いついていた。
「その節はわたくしたちを助けていただき、ありがとうございました」
笑顔を浮かべるゲンブの横で、ビャッコが頭を下げる。
セイリュウは複雑な表情だ。
「そうですか……あのときスザクが死んだように見せた偽装は、やはりあなたが……」
全員を前にしたサナトゥリアは、変わらずカイリを見つめていた。
『あんたが知りたかった情報、うちが手に入れといたん。言うとくけど、自分で調べよ思ても時間の無駄。あんたじゃ、ナノマシンシステム総合責任者の認証、突破できへんから』
その声も話し方も、カイ・リューベンスフィアの屋敷で聞いたサナトゥリアに間違いない。
『たとえダブル役満の〈枢暗光探規〉使うたとしても無理。――ディアブロのウィルスのせいなんよ』
あてにしていた方法を言い当てられ、それを否定されたカイリは驚いた。
(ウィルスっていうのは、コンピュータウィルスのことか? この人はどうしてそんなことを知ってるんだ)
想定外の状況を説明されて戸惑うカイリ。
だがこの時代の人間が知るはずのないことをスラスラと語られると、それだけで信憑性があるように思えてしまう。
「レイウルフ」
サナトゥリアを見つめたまま、カイリは隣に立つエルフ族の仲間に声をかけた。
「サナトゥリアのことを知っているように見えたけど、知り合い?」
「そうですね、族長代行の彼女のことはもちろん知っていますが……彼女は、私が九歳の頃からの幼なじみです」
意外な情報を耳にして、カイリが思わずレイウルフを見る。
幼なじみの半透明な姿を見て、彼も戸惑っているようだった。
「じゃあ、頼む。この人を信頼できるかどうか、レイウルフが判断してくれ。今の話が本当なら、俺は土下座してでもこの人に情報を乞わなければならない」
カイリの真剣な目を見返したレイウルフが、我に返った様子で息を吐いた。
「そういうことでしたら、はっきり言いましょう。彼女の左耳が小刻みに動いているのはイライラしている証拠です。まず、彼女がサナトゥリア本人であることは間違いありません」
半透明なうえに輪郭が少しぼやけていてわかりにくいが、たしかに長くとがった左耳が動いていて、それがぴたりと止まったようにカイリには見えた。
謎の女だったサナトゥリアが、急に人間くさく感じられる。
「サナは掟や伝統を軽んじ、目的のためなら手段を選ばないやつで、エステル様と私が――」
レイウルフが説明を始めると、サナトゥリアの左耳が再び揺れだす。
無意識なんだろうなとカイリは思った。
「……最も厚く信頼する者です」
左耳の小刻みな動きが止まったかと思うと、今度はピンと張った。
その意味をレイウルフに確認するのを自重して、カイリは深く頭を下げた。
「お願いします。どうか俺に教えてください。この世界のどこかにある――テラフォーミング装置の座標を」
『も、もちろん教えるん。後のことはあんたに任せるしかないて、わかっとるんよ』
テラフォーミング装置は、ナノマシンシステムに追加された拡張プラグラムにより、自転が減速した地球に暮らす人類を寒暖差や太陽風から守るためにシステムがたどり着いた答えだ。
その重要度は他の何よりも高く、想定外の事故やテロへの対策として、ナノマシンシステムから物理的な独立性を保っている。
ナノマシンネットワーク上には存在しないため、たとえディアブロのような天才ハッカーであってもアクセスすることはできない。
テラフォーミング装置の建造にあたっては、場所の選定から詳細設計にいたるまで、そのすべてをナノマシンシステムが実行した。
そこに人類が関与することはなく、装置の座標はもちろん、その外観さえ知る者はいない。
それらの情報はすべて、テラフォーミング装置が完成してその独自ネットワークが切り離された段階で、従来のシステム上から完全に抹消されていた。
つまりナノマシンネットワークのどこを探しても、テラフォーミング装置の座標情報を見つけることなどできはしないのだ。
だが総合責任者権限があれば、システムに属するすべての存在とそのルールを支配できる。
システム上のあらゆる制約を無視した情報収集と解析が可能となり、様々な観測データを元にテラフォーミング装置の座標を正確に推定することは、けして不可能ではない。
それでもサナトゥリアがこの短時間で効率良くテラフォーミング装置の場所を突き止められたのには理由がある。
彼女の体内に残るアメリカ製ナノマシンが有する機能――人間の脳をAIにコピーする機能が、サナトゥリアの脳をナノマシンシステム上にコピーし、情報の取捨選択を驚異的なスピードで終わらせたのだ。
『ディアブロがどんなウィルス残しとるかわからへんしな。このまま重要な情報を伝えるんは危険やから……こっちきて』
カイリは素直にサナトゥリアの正面に立った。
ナノマシンは人体にも存在する。
たとえ聴覚神経に直接語りかけても、それを実現しているのはナノマシンであり、その行為はナノマシンネットワーク上へ情報をさらすことになる。
たとえ短時間であっても、情報漏洩のリスクには違いなかった。
(待てよ。そもそも俺の脳が認識した時点で情報漏洩の可能性があるんじゃないか? 〈問意渡意〉が他人へ思念を伝えられるのは、脳の中にもナノマシンが存在するからだし……)
カイリの心配をよそに、サナトゥリアが手招きした。
『もっと、こっち来て』
「…………」
目と鼻の先に、半透明なサナトゥリアの綺麗な顔があった。
突然、後頭部に回されたしなやかな手の感触。
カイリの知らない滑らかで甘い刺激が、唇の内側をなぞった。
スザクの腕が空を切ったはずの、半透明なサナトゥリアの身体。
それが確かな女の質感をともなってカイリに触れていた。
「あっ、あっ、だ……だめっ! 離れてカイリ――っ!」
叫んだのはスザクだ。
彼女の猛烈なボディアタックが、カイリを荒れた地面に転がした。
スザクと一緒に地面に転がったまま、呆然とするカイリ。
何が起こったのかを理解するにつれ、耳まで赤くなる。
『あんたの脳のほんの一部に、アメリカ製ナノマシンのクラスターを埋め込んだんよ。そこだけ日本製を追い出したから、そのまま保持しとっても情報がもれる心配はない』
自分の唇をひとなめしたサナトゥリアがそう説明した。
カイリ以外にもうひとり、顔を真っ赤にする者がいた――緋袴姿のゲンブだ。
「ま、ま、待ってください、サナトゥリアさん。い、今の、その、それは、必要だったのでしょうか? カイリさんの頭に、触れるだけで良かったのでは?」
『うちはナノマシンシステムと一体化してこの世界の“神”になったんよ。性別もあってないようなもんやし、なんも感じとらへん。ただ世界の命運を託すんやから、やる気出してほしいて思っただけなん。それに――』
納得がいかない様子のゲンブに、やや困り顔を見せるサナトゥリア。
神になってからのほうがサナトゥリアの人間味が増しているようにレイウルフは感じていた。
それは、幼い頃から世界を救うという願いを胸に生きてきたサナトゥリアが、その使命感から解放されたことによる変化なのだが、本人に自覚はないようだった。
『……うちは、もうすぐ消える。その前にもうひとつだけ、二十一代目に最後の贈り物があるんよ』
「えっ」
顔が赤いままのカイリが、思わず身構える。
『世界を救う“勇者”に必要不可欠な要素て、何かわかる?』
「……勇気、ですか?」
思いついたままを口にしたカイリに微笑むサナトゥリア。
『それもあるけど、それは自分でなんとかして。うちがあげられるんは、ほんの少しの“幸運”。システム全体に矛盾せず、秩序を失わん程度のちょっぴりの幸運やけど。それを最後に残しとく』
サナトゥリアの姿が薄れ始めていることにカイリは気づいた。
慌てた様子でレイウルフが叫ぶ。
「サナ、最後にルシアさんに伝えることはありますか?」
『ありがとう、レイ。お母様には手紙書いたから大丈夫。それから……さっきの言葉、嬉しかったん』
サナトゥリアの本当の肉体はすでに失われていた。
ナノマシンシステム上に残された彼女の人格が、システムの隅々に浸透し、溶けていく。
『じーちゃん……うちの人生、自分で思うてたより……幸せやったみたい……』
神になるということ――それは人としての意識を超えて世界に溶け込むことであり、ただ漠然とした意思だけが世界に残された。
世界を救おうとする勇者に手助けを――。
その願いは全世界に存在するナノマシンの数だけ薄められ、すべてのナノマシンへ届けられた。