File103. 悪魔
カシムが掲げる光る矢。
その光が突然消え、周囲が闇に閉ざされた。
「ひゃっ」
幼い声を上げたのはサナトゥリアだ。
洞窟の奥へと進み、そろそろ三十分が過ぎようとしていた。
「やはり前に来たときと同じか」
闇の中でローブをつかむサナトゥリアの存在を意識しながら、エステルがつぶやいた。
「エステル様、これはまさか……」
「ああ、ここから先は魔法が使えん」
「エルフ領内にそんな場所があったとはね」
ルチスとカシムが驚くのも無理はない。
魔法が使えない場所は世界中に点在しているが、エルフ族が把握している場所は数か所しかないのだから。
「例の場所までは、あとどれくらいです?」
「残り半分というところだな。どうする? 私は奴の状態を確かめてから神殿に戻るつもりだが」
「もちろん、お供いたしますよ」
カシムが明るい声で即答する。
だがルチスの返事はなかった。
「ルチス……?」
カシムが問いかけると、少しばかり戻った場所で明かりが灯った。
ルチスが、新たに用意した光る矢を手にしている。
「エステル様。非常に残念ですが、私はここでサナトゥリアと待ちます。魔法を封じられた状態では、エステル様の護衛としてカシムのほうが私より少しだけマシですしね」
「そうだな」
「……エステル様、そこはすぐに同意しないでくださいよ」
不満を漏らすカシムを見て笑うエステル。
実際のところ剣技でカシムに勝てる者はエルフ軍にはおらず、弓の腕前においても彼はトップクラスである。
「だが、まあ……全員で行くしかあるまい」
族長の意外な言葉を耳にしてルチスは気づいた。
エステルのローブを握るサナトゥリが、自分を睨んでいることに。
「……嫌われてしまいましたね。自業自得ではありますが」
「ふむ」
エステルがしゃがんでサナトゥリアと目線を合わせた。
「カシムとなら残るか?」
「嫌や。うちは奥に行ってみたいん」
「――だ、そうだ」
どちらかと言えば“エステル様と離れたくない”ということだろうか。
であれば自分も一緒に行って、できるだけ守ってやるしかない。
そう思ったルチスは、諦めたようにため息をついた。
「わかりました、サナトゥリア。でも、途中で帰りたいと言っても〈離位置〉は使えませんからね。暗闇の中をここまでと同じ距離だけ進む覚悟はあるんでしょうね?」
少女がこくりと頷く。
「なに、もう少し進めば明るくなるはずだ」
エステルの言葉どおりだった。
足場の悪い暗闇の中を慎重に進んでいくと、やがて洞窟全体が暗い緑色の光で満たされた場所に出る。
洞窟はまだ続いているが、足元は比較的歩きやすいように見えた。
***
「行き止まり?」
暗緑色に光る岩壁の前でルチスがつぶやいた。
そろそろ目的地のはずだが、巨大な岩が行く手を完全に塞いでいるように見える。
その横で、カシムが矢筒から一本の矢を取り出し、壁に近づけた。
すると、まるで何もないかのように矢の先が岩壁にスッと入る。
「幻影の壁……ですか?」
「気をつけろ。壁の向こう側は湖になっていたはずだ」
魔法無効の未知の場所。
ここまでの道のりを、若かりし頃のエステルは丸二日をかけて攻略した。
安全を確認しながら慎重に進んだのだ。
幻影の壁を前にしたときには、その壁に危険がないことを確認するのにさらに一日をかけていた。
禁断の山とは、歴代の族長さえ足を踏み入れていない禁忌の場所であり、その中で発見したこの魔法無効エリアは、いくら警戒してもし過ぎるということはないように思えたからだ。
光る壁だけならともかく幻影の壁まで存在するということは、ここが古の時代の遺跡である可能性が高い。
同様の壁がエルフ領の神殿にも存在することを知るカシムとルチスはそう思った。
だが、ふたりが知らないこともある。
(魔法が使えない場所に、光る壁や幻影の壁は存在しない――というのがカインの仮説だったな)
エステルがカイン――二十代目カイ・リューベンスフィアと旅をしたのは、八十年ほど前のことだった。
――うーん、もしエステルの言う場所が本当にあるなら、それは古の遺跡じゃないかもな。
そう話すカインの顔を、エステルは今でも鮮明に思い出せる。
この洞窟に来る機会がないまま、カインは旅の途中で死んだ。
この場所の正体について、彼と議論することはもうできない。
久しぶりに目頭が熱くなるのを自覚したエステルが、思考を切り替えようと現実に意識を向けたときだった。
「おい?」
声を出したのはカシムだ。
サナトゥリアが勝手にひとりで進もうとしていた。
その小さな肩をつかもうとしたカシムの手を、少女がするりと避ける。
「……呼んでる。うちを呼んでるんよ」
それだけを口にして、少女が壁の中へ消えた。
驚くカシムとルチスが振り返ると、エステルが幻影の壁を睨んでいた。
「進むぞ」
エステルには、百七十年前にここへ来たときも今回も、誰かに呼ばれるような感覚はなかった。
彼女がサナトゥリアを特別に気にかけるようになったのは、この時からだ。
幻影の壁を抜けると、そこには地下の広い空間があり足元が崖になっていた。
崖の端でサナトゥリアが立ち止まっている。
崖の下方には水面が見え、それが徐々に上昇していた。
今まさに湖ができようとしているのだとルチスは思った。
突然、その広い空間に男の声が響いた。
「待っていたぞ、サナトゥリア」
崖の向かい側には人工的な壁があり、そこに灯る青い光が小さく見える。
人の姿はない。
地下空間はその青い光に照らされており、光が強まると明るくなり、弱まると暗くなる。
エステルが考え込みながら、その青い光に話しかけた。
「久しぶりだな、悪魔」
「……一七〇年前のエルフ族――エステルと名乗った女か」
男の声に合わせて青い光の明るさが不規則に変化する。
「私を覚えていたか。少々確認したいことがあって寄らせてもらった」
「他に男が一人に女が一人……か。くそ、面倒だな。だが仕方がねぇ。決まりにのっとって迎えてやるよ」
「一七〇年前――私のときと同じようにか?」
「ああ、そうだ」
訪れる沈黙の時間。
眼下の水面が上昇を続けている。
エステルは迷っていた。
この悪魔――ディアブロの様子は以前と同じように見える。
そして以前と同じであれば、その力によりおそらくカシムとルチスは汎数4の魔法を使えるようになる。
かつてのエステルがそうだったように。
(まあ、魔法詠唱が苦手なカシムは怪しいが、ルチスは優秀な魔術師だ。ディアブロの許可さえあれば完璧に〈消散言〉を使いこなすだろう)
だが以前と違うところもある。
サナトゥリアの存在だ。
――待っていたぞ、サナトゥリア。
確かに悪魔はそう言った。
サナトゥリアは悪魔憑きだ。
だから汎数4の魔法どころか、汎数2の魔法さえ使えないはずである。
その彼女を待っていた――と。
まるで他の三人のことなど、どうでもいいかのように。
悪魔と悪魔憑き。
そこにどういう意味があるのか、あるいは意味などないのか。
――俺はディアブロ。つまり、悪魔だ。
かつて青い光の声の主は、十八歳のエステルにそう名乗った。
エステルは迷っていた。
とんでもない危険に部下をさらしているのではないか?
その考えを払拭できない。
カシムとルチスは落ち着かない様子だ。
サナトゥリアは黙ったままおとなしくしている。
水面はやがて崖上とほぼ同じ高さになり、そこで上昇が止まった。
目の前に大きな湖が広がり、その表面に青い光が映り込んでいる。
(同じだ。ここまでは同じ――)
そう思うエステルの呼吸が、次のディアブロのセリフで止まった。
「ここは“認証の間”――人を試す場所だ。おまえらはすでにここへ踏み込んだ。生きて帰れるのは――認められた者だけだ」
カシムとルチスの顔に緊張が走る。
エステルが叫んだ。
「待て、ディアブロ。話が違うぞ」
男の声が短く笑った。
「くく……いや、同じだ。おまえの時とやる事は同じ。まあ、おまえの時は別の説明をしたかもしれんが? だって仕方がねぇだろう? あの時のおまえは入口からここまで来るのに三日もかけやがったんだぞ? そんな用心深い奴に今のセリフを言ってみろ。警戒されるに決まっているだろうが」
一気にまくしたてるディアブロ。
「だから、おまえが警戒するようなことは言わなかった。別にいいだろ? おまえにはついでに大佐の階級をくれてやったんだ。俺を信用させるためにな」
かつてディアブロがエステルに与えたもの。
それは軍の階級だった。
だがその意味がわかる者はここにはいない。
当時のエステルもわかってはいなかった。
エステルにわかるのは、それが彼女に汎数4の魔法を解放するものだったということ。
(あの時、私が素直にディアブロの言葉に従ったのは信用したからではない。怖かったのだ。得意な魔法を封じられた場所で、若かった私は未知の存在にただ恐怖していた。あの頃の私にとって、失うことを恐れたのは唯一、自分の生命だけだったから。だが今は――)
「帰るぞ。認証を受ける必要などない」
踵を返して幻影の壁に向かうエステル。
一刻も早くカシム、ルチス、サナトゥリアの三人を連れ、魔法無効エリアから出る必要があった。
そこまで行けば〈離位置〉を使える。
(ディアブロが我々の行動を物理的に妨害できるとは思えん。そうであれば、言葉巧みに私を騙す必要などなかったはずだ)
エステルは二人の部下と少女を連れてきたことを後悔していた。
そして思い出す。
幻影の壁を通る直前――(いや、もっと前からか?)――サナトゥリアの様子が変だったことに。
エステルの背後で、バシャバシャと水しぶきが上がる音がした。