溺愛と腹黒 6
掛けられた鍵、その金具をなんとなく見上げたまま、私はほぅと息を吐いた。瞼と頬のてっぺん、鼻の頭が痛いし熱い。これは、ものすごくみっともないことになってると踏んだ。鏡なんてもちろん、恐ろしくて確認できない。
「好き、とか。……うぅ」
やばい。肋骨が痛い。心臓が痛いのは経験したけど肋骨まで痛くなるもんなのか。ついでに鳩尾でもなんかこう、バタバタしてるものがある。あ、これがアレか? 翻訳物で出てくるところの蝶が鳩尾で跳ねるって表現か? ……いや、もう少し重みがないか、これ。スズメというか白魚の踊り食いというか…………やめよう、違う痛みになってきた。
ただ、好きって単語が私にとってかなりインパクトのある響きだってことは理解した。ひとり言で漏らしただけなのに心臓止めてくるとかないわー。ガチでないわぁ。
勢い余って自分の頬を押さえるつもりがぎゅっと握ってしまった。赤くなってるところは擦ってしまえばもっとひどくなる。潮負け、とでもいえばいいのか、アレだ。私はちょっとだけその手の痒みが強いのをアイツは知ってるのでそんなに待たされないはずだが。……ほら。
かちりと錠の部分が回る。部屋に入りかけた彼がぎょっとした顔になり、一番先に冷たいタオルを差し出してきたのでありがたく受け取った。一緒に熱いタオルを持ってくるあたり気が利いている。気持ちいい。
冷やして、熱さも堪能して、また冷やして。並べられた盆の上からおやつを取ろうと思ったがどうにも食べる気がしない。麦茶を飲むと、ほっと息がこぼれた。
「茶葉は選んだか?」
「グレープフルーツの緑茶」
淡々と聞かれたからなんとか落ち着けた。単語だけで答えると彼はティーバッグをマグに入れると湯を注いでマグのふたを閉めた。自分の分にも似たようなことをする。……ミントティーか。
…………私は、これからまた泣くか、取り乱すんだろうか。
「砂糖は入れるつもりか?」
「たっぷりと」
確認のように言質を取った。押し出されるようなぶつ切りの会話は居心地が悪くない。長い時間をかけて築き上げてきたものだから。
小さな器に淹れたミントティーに死ぬほどの砂糖を入れるのは砂漠の習慣だと聞く。水分とカロリーを摂取しなれば体力の持たない彼らとは違い、私にとってのそれは純粋なる嗜好品だ。なんというか、液体の飴を飲んでいるような心持ちにさせられる。ほっと息をつきたくなるほどのお気に入りだ。
気分が、ぐちゃぐちゃになってしまった時の。
彼は細かいところまで私を把握している。ミントティーが熱いうちに、そう、冷めないうちにそこまで揺すぶられるようなことをされるわけだ。
「…私は、お前から離れたいよ」
へこみまで見越してのフォロー。何もかもを知られてる。そんな被害妄想じみた現実は、もうたくさんだ。浅ましくてみっともない恋心にうんざりされないうちに逃げたい。
ぼそりと結論だけを告げると、彼はぐっと息を詰まらせた。
「……俺は、離れられん」
だらりと体の脇に下げていた両腕を取られた。母親が子供を引き寄せるようにして彼の膝の間に座らされる。
「なぁ、嘘じゃないしごまかさない。聞け」
心臓に、私の頭ごと耳を押し当てられた。子猫の速さで鼓動が聞こえる。彼の手も熱い。
「お前が好きだ。頼む。それは疑うな」
そんな状態で言葉が落ちてくる。
静かに、ただそっと、耳を打つ。
胸の奥の方がざわめく。ええと、たとえば買ってきたヒヨコって箱の中で騒ぐだろう? で、ふたを開けて目元を暗くしてあげると黙る。それから驚かせないように手を離すと、こっちをじっと見上げるじゃないか。アンタ、誰? って。
私にとってコイツの言葉は今、そんな感じだった。鳩尾より上のあたりでざわざわしてた箱の中身がゆっくりと落ち着いてくる。
耳の中に落とされるような声は熱いのに、柔らかくて。安心しろって言われてるわけでもないのに、抱き寄せられた体温と匂いとで肩の力が抜ける。
大人しくなった私の頭を撫でながら、気持ちのいい声で続けられる。
「お前の、どこがどう、ってもんじゃないから信じられないだろう。だから提案する」
「…ていあん?」
ああ、と躊躇うようなニュアンスでため息をつかれた。戸惑っているのは彼も同じだ、とそれを聞いて初めて沁み込んでくる。
もしかして、こんなふうに誰かを口説くのは初めなのかもしれない。コイツも。
「まず、ちょっとくらいの抵抗にあっても、お前の処女をもらう。同意できるようになったら、子供も産んでもらう。その上で、お前の取りたい進路に進めばいい。全力で将来設計を応援させてもらう」
……う、ん?
「俺は、いつだってお前を監禁したい。視線ごと思いを寄越せって、どれだけ土下座したかったことか知らんだろう」
抵抗されても? 処女? 監禁? あげくに、子供を産ませる?
静かに、淡々と言われたわりにはすさまじい意味じゃないか? なんだ今の。ほんとにコイツが発言したのか? 提案の名目で落とされた言葉のギャップがぐるぐると視界を回る。一歩どころか半歩も間違えなくても、それは犯罪と言うか。最近の女性事情と真っ向反対だろうに。
「わかってる。お前がガチで嫌がれば、きっと俺には出来ない。だからこそ同意が欲しい。俺に、つながれてくれ」
びっくりしすぎて彼の腕の中で硬直していると、やっぱり頭を撫でられた。苦しいような声に嘆願されて、私の脳裏に土下座の単語が繰り返される。
繋がれる。それは繋ぐことと同義だ。
彼に、属するものになる。
……止めていた息をしろと頭から手のひらが背中にすべらされた。はぁふぅ、と必死で息を吸って吐く。もしかしたら、繋がれろなんて、普通の女の人ならドン引くかもしれない。
自分に縛り付けると、もしも同義にとられれば裸足で逃げ出されるだろうが。
私には違うように聞こえた。
幼馴染の口から出てきた言葉は、対等すぎて眩暈しかしない。単語だけ見れば正反対なのに、依頼される現象の全てに私に拒否権がある以上、懇願にしかなっていない。
彼には生活能力があり、私にも一人で生きられる将来設計が成り立っている。だからこそ、今の言葉が『お願い』であることが証明できる。
回りくどいがそういうことだ。
「…私は、お前に、欲しがられてる?」
「お前がまだ、社会的には何ら結果を出してない状態で。ここまで欲しい」
肉欲とか、その手の衝動でもなく?
飲み込んだ言葉はきっとお互い様だろう。賭けてもいいがコイツもその手の可能性は疑っている。私がここでまず布団の中に潜り込む選択をしたところでおくびにも出さないだろうが、どこかで疑い続けられる。
………ああそうか。そういうことか。
疑われるかもしれない立場になってようやく、彼の言葉を信じる気になった。
好きも嫌いも。愛してるだとか一緒にいたいだとか。
疑念も疑惑も信用さえも同レベルなのか。疑うことは狭量につながるけれど、表に出さなければ度量につながる。疑問なんかは持ち続けてもいいもの、むしろいつまでも湧いて出るモノなのかもしれない。明日を疑い今日に安堵し、二人で眠って落ち着かせる。
似た者同士である私たちはたぶん、そこまでもお互い様だろう。
すり、と額を彼の胸板に擦り付けた。どこかミントとグレープフルーツの匂いがする。手を嗅ぐとその匂いはいっそうに強くなった。つい味もするんじゃないかと舐めてみる。
てめぇ、と掠れた声がして私の髪に彼の唇が落ちてきた。顔を持ち上げられ、こめかみと、迷った末に頬にキスをされる。唇にも来るかと思ったが、それ以上の接触はなかった。残念なようなほっとしたような。
「念のため確認するぞ。お前と、俺は、いわゆる男女交際を始める。いいな?」
「ああ。小林圭吾は間所ほのかが好きで、間所ほのかは小林圭吾が好きだ。…違和感はないな?」
ぎゅっとひときわ強く抱きしめられた後で体が離される。向かい合うかと思っていた顔をくるりと反対側にかえされた。馬鹿野郎、殺す気か。呟いた彼がまだ温かいミントティーを差し出してくる。
馬鹿みたいに甘いそれを飲んで、あほみたいに熱い頬の熱なんて、下がるわけもなかった。
はい。次回最終回。長かったです。
大丈夫でしょうか。話が理解しにくいところはなかったでしょうか。
ミステリーや伏線回収モノならともかく、この手のは通じてるかひどく迷いますね。