溺愛と腹黒 2
昼下がりの授業というものは、すべからく悪魔の囁きと化している。
「だからつまり、何が言いたいかっていうと」
「寝るな。寝るなら課題を解いてからにしろボケ」
だらりと長テーブルのこちらで突っ伏して寝ようとしている私に、容赦のない罵詈雑言が届く。あちらの隅には言わずと知れた彼がいて、関数電卓を叩きながらテキストを鬼の敵のように睨んでいる。
「私の分はもう解いた。要所で与えられた数字がそれぞれに違う以上、私の答えも写せんし、先生からは終了の許可も得た。眠る、か、図書館に行く」
細切れだが丁寧に今の状況を述べる。ぎょっとしたように前後の長テーブルの奴までもが私のノートを覗き込み、押された『認可』の赤印に唸った。覗き込まれたせいでやや体が逃げる私のために、いつものように手際よく彼がクラスメイトをどけていく。いやはや難儀なことだ。
男子高もどきに入って理解したが、男嫌いだったとはこれいかに。
「行くなら図書館だ。閉架?」
「ふむ。お前が迎えに来るなら開架にいようか。閉架で声をかけられるのは怖い」
「そうか。なら児童全集のあたりにいろ。お前用の椅子を持ち込んであるだろう?」
彼の言っていることは、微妙に男子を嫌う私のための助言だ。
喋れる、が、逃げたくなる。
なんというか、嫌悪まではいかないものの、年ごろに関わらず男子にたくさん接するとその距離に比例して、家ではぐったりしてしまう。
そんな私がクラスからごく頻繁に逃げ出す先は図書館で、こんなふうに半ば強制的に自習時間ができてしまった場合は大概、日当たりのよくない棚の陰にいることが多い。
ページに当たった太陽の照り返しで目が痛くなるのと、日当たりがいい場所は他の男子生徒も良く来るので避けておくことにしている。
棚と棚の間に、潜んでおくのだ。
すねぇぇぇぇく! の、ように。
…自分で思い浮かべておきながら、いまいち理解できなかった。やはりしていないゲームのキャラクターについてジョークを作ることは出来ようだ。残念。
潜伏先が図書館なので、飲み物も食べ物も持ち込み禁止だ。若いお姉さんだし、司書さんのお部屋にお邪魔してもいいが、どうしてだか彼が嫌がるのでひっそりとコロボックルのように彼を待つことにする。
しかし眠い。どうでもいいがすべてのことを吹き飛ばして眠い。
眠るか。
「…寝てやがる」
必死の思いで答えに辿り着くまでの計算式を何度も、専門科目のノートの三ページほどにわたって書き殴るむなしさは、けっこう精神力を鍛えるためのツールとして有効だ。言っておくが、スタートからゴールまでの間が三ページだ。一問を解くのにそれだけかかる。
俺たちは課題だから、答えがNG…つまり構造体としては不合格だと値が示しても、やり直す必要はないが。実際問題として、現実では許容範囲に値を収めるまでトライアンドエラーを繰り返すことになる。
なるほど、土木構造物の設計とは自力では無理だ、PCのプログラムソフトか簡易式を自力で構築できなければ話にならん。と、学生たちに納得せるための授業だ。
いや違うのは知ってるが。
ともかくも、ココが違うあそこがミスだと指摘され、何回か再提出の後でようやく『認可』をもぎ取ったその足で図書館に来てみれば、宣言通りに寝ていたコイツの姿を確認できた。かなり待たせたし仕方ないか。
しかし。いつも思うが、コイツはガチで頭がいい。いや、要領がいい。
構造力学系になると、どれだけ説明しても問題を前にして頭の周りに可視の『?マーク』が飛び交うような女なのに、あの手の実習系課題はすらすらと解く。機械類の操作、取り扱いも上手だ。
言いつけておいた通りに児童全集の棚の間で小さなステップに座り、何もない棚に頭を預けて寝ているこいつを見下ろす。男子校もどきのこの学校の図書館はなぜだか異様に図書が充実している。工学系専門学校らしく専門書は当たり前として、ミステリー、近代文学当たりの充実がすごい。その点は俺もこいつもラッキーだった。ただ、繰り返すが男子校もどきなのだ。男女比が8:2になんなんとする学校で、どこの誰が児童文学に手を出すか。その意味で、この棚はこいつにとって穴場だろう。
他の奴らに見せたくない、俺の思惑とも一致する。
すぴすぴと安らかな無表情に無意味にノリで蹴りを入れたくなるが、我慢だ。ただでさえ男は暴力的で大声を出すと思い込んでいるこいつに(あながち間違いでもないが)、これ以上のマイナス感情は植えたくない。俺が手を出す時に困る。
この学校に来てようやく、俺以外の男を苦手にしてる事実がわかったんだ。
目指すなら現状維持。
欲張っても駄目、焦っても駄目だ。
むにむにと、寝ぼけてるのか柔らかそうな唇が動く。ああ、食べたい。貪って吸い付いて舌を入れてこね回したい。
例えば肉だ。常に腹を空かせ続ける宿命にある高校生にとっての宝石、極上カルビが、ハラミがずらりとテーブルにぎっしりと並べられてさあどうぞと言われたとしても、だ。
そうでなくても、どれだけ美味しそうなごちそうが目の前にあったとしても、今の俺はこいつとのキスを選ぶ。
いや、もしかしたらこの先ずっとかも。
俺の、こいつに対する執着は小学生の時から始まっている。周囲の環境も、男女の自覚も済ませた挙句に、しつこくどうしても離れたくなかった幼馴染だ。
呆れることに十年来の片思いときた。
飢えきってるところへ持ってきて男子高校生の性欲だぞ。
くそ、ああ。
畜生、やりてぇなぁ。
図書館にいささか似合わない感慨が手に負えそうになくなったあたりで歯を食いしばる。彼女の肩に手をかけて、そっと揺すった。くそったれめ、匂いまでいいんだ。甘いのにくどくない。
もっと近くに、この距離をもっとずっと詰めたら酔えるだろうか。
人工的な花、自然なかんきつ類の、控えめな爽やかさに。
「起きろ。飯だ」
「メシ? あ、そんな時間? マジで? 今日のメニューは、なぁにかなー」
情けなくも言葉が詰まる。必死で単語を押し出した俺の苦労も知らず、言葉の最後の方になると歌いだすこいつに苦笑して、こみ上げた欲を飲み下す。
苦い。というか、欲だから形のないはずなのに、喉につかえそうなくらい塊がでかい。
いいだろう。まだ、我慢できる。今さら手放すつもりも、この期に及んでこいつの隣から降りる気もさらさらない。
高校一年生なら、肉欲に爛れる時間だって、まだある。
よそ見なんか、させなければいいだけの話だろう。
他の誰をも見せなければ、男にも女にも誰にも見せることなく過ごしていけば、最終的には俺に堕ちてくるしかなくなる。と、思いたい。……思考がどうも斜め上に行きがちなこいつのことだから、目を離す気にもなれないが。
女の方にも性欲はあるはずだし、若いうちの勢いに任せて体から落としても、と考えたこともあったが想像で萎えた。……いや、妄想ですら萎えるあたり自分でもふがいないが。だってあれは仕方ない。泣かれてしまえば行為を続けられない。多分、痛がっても無理だ。眉をしかめられたら俺が痛い。
まあでも、あいつが泣く前までなら、あくまで想像上でなら、拉致監禁調教で強姦コースまでは簡単なんだが。
図書館には一人前に防犯システムまでついている。『室』ではなく『館』だ。学校の敷地内に独立した建物の、地下から数えれば三階建て。
専門書もあるし閉架図書もきちんと管理されている。
その防犯ゲートをくぐり、ドアを開ける。無意識のうちに染みついている癖で、先にこいつを通し、二個目のドアもまた、同じように先に通させる。
後ろをほてほてとついてくる彼女を横目で見守りつつ。
拉致監禁の妄想を手順ごとに細かくねつ造しながら、俺は今日の昼飯の献立を淡々と。
彼女に説明した。
…彼女、ちょー逃げて。逃げて。