妄想日記―3―
『なんだかあの後、悲しい顔をしてたみたいだ。もしかしてそれが僕のせいなんだったら本当にすまない。後学のために、僕のどこが間違っていたのか、是非にでも教えてほしいな。君は僕にとって華奢で、今にも壊れそうで、なのに実に生き生きとした表情を見せている。僕にとって君の笑顔は太陽と同じ物なんだよ。決して月ではなく、君の笑っている口元やきらきら輝いている目の色が僕を温かくさせてくれるんだ。
……自分でもちょっとどうかと思うほど気持ちの悪い文章になったか。これが交換日記のデメリットでもあるんだろうね。まったく、インクというものは消えなくてダメだ。書き損じできないこのスリリングさを、どうか君が面白がってくれればいいんだけれど』
彼女はぼんやりと机の上を見る。このノートは今朝からこうして広げられていただろうか。朝食に出る際に見落としていたせいで自信がない。思い出せない。
昨日はあれから、ついうっかりと気分がすぐれずに早く寝てしまった。しかし最低限の動きはしていたはずだ。昨夜の彼女はきちんとノートを引き出しにしまっていたし、新しい……ペン、か……何か違う呼び方をした方がいいのかもしれない。羽ペンでないのだから、ふむ。愛称をつけるために、このペンの構造が知りたい。
ずれた思考を自覚して、とんとんとこめかみを指で突つく。
違うか。ノート、交換妄想日記のことだ。
推定だが『彼』の書いた文章の上には、情けないような彼女のズルズルした字が躍っている。幼いころからどれだけ練習しても綺麗な字体にならない。努力は無駄だった。このあたりを彼女は本気で悔しいと思っているが、どこまでも彼女に甘い家人たちは『流麗に、儚げで、情に女性らしい字体だ』と褒めてくる。
彼女は実際、彼らの態度から物は言いようだということを学んだ。
角のない、なよなよとした筆跡は彼女の望んだものではない。だがそう言われれば確かに、必要なところには受ける字体でありもするのだろう。きっと。
視線に何の感情も載せずに机の上を見る。昨夜に書かれたものか今朝だか知らないが、ノートは相変わらず書き物机の上で広げられていた。
読みやすく、きちんと整えられた彼の字。
彼女は指でその文章をたどる。
この字が、コンプレックスを抱かせそうで怖い。
いや。
彼が現実の存在であるのならば、そちらの方が恐ろしいかと思い直した。交換日記の相手は神出鬼没に部屋に現れては行動を逐一把握し、書かれている内容からして表情まで読み取られている。一切、影すらも彼女に気取られることなく、だ。
妄想の方がまだマシだ。
彼女は机に座り、薄い寝巻のままでペンを取った。さらさらと空白に文字を連ねていく。
『おはよう、ダーリン。いいえ、気にしないでほしい。私が勝手に落ち込んでいるだけなのだから。むしろダーリンに謝られるといささか心苦しい。
うん。確かに交換日記なんだ、感情の赴くままに書いてもらっても構わないよ。
ただ、そろそろ私の容姿がどうだとか太陽だ月だと書くのは止めてもらいたいかな?
私は見ての通り、みっともないほど痩せていて、ちびで、髪の色さえもまともについてないような出来損ないなんだ。家人は優しいから誰も口にはしないけど。
うらやましいと本音を言うのなら、私としては艶のある兄さまの黒髪が好きなんだ。父上の豪奢な金髪も。母上の、ついうっとり魅入られずにはいられない黒髪も好きだ。
ダーリンは母上の降ろした髪を見たことがあるか? まったく、あれは一見の価値がある。父上が独占したがるのも無理はない。
……やぁ、私もつられてしまったようだ。益体もないことを、ただ垂れ流してしまった。
ダーリン、こんな私でも交換日記は続けてもらえるのだろうか。
友達に、なりたいんだ』
一気に書き上げ、目を閉じる。
彼女は、どうもいろいろな場所の圧力が高すぎるらしかった。集中するともれなく目の周りが重だるくなってしまう。手だって痛む。誰かの役に立たないばかりか、すぐにダメを出しては家人の足を引っ張るこの体。せめて健康であればひっそりと暮らせるものを。
友達に、なりたいんだ。
自分で書いた単語が脳裏で点滅する。はしたないだろうか。男爵令嬢としての面子なんかどうでもいい。
彼女としてはただこれが、普通の女の子として、仮にとはいえ異性にお願いするような性質のものなのか、それが知りたい。
彼らが際限なく甘い家人であることは、とうの昔に彼女は自覚していた。意味もなく不要なまでに溺愛してくる言葉をそのまま受け取り、甘えていては、本当のダメ人間になってしまう、と。
彼女の考え方としては、なんら役に立たない人間などただの穀粒しなのだ。かわいらしくて健康で、結婚に価値を付けられる子であるならばニコニコと笑っているだけで十分にその役目を果たす。低家格とはいえ貴族の子女だ。それだけでいい。彼女としてはむしろそうなりたかった。
だが、彼女はもう知っている。自分は、女としては欠陥品に近い無愛想さだ。ろくに運動もできない貧弱さに加えて色合いも悪く、貧相な体つき。
父と兄がふんだんに日常から見せてくるあの剣幕を見れば、すでに嫁になど行かせてもらえそうにない雰囲気が漂っているというのに。
まぁそうだな。……みっともない小娘に、そんな価値はない、か。
ならばせめて、と彼女は交換日記を引き出しにしまった。ふと思いつき、笑顔で悪戯心の思うまま鍵をかけておく。その鍵は当然、胸元に仕舞うのが礼儀というものだろう。なんのって、悪戯の。ついでに、これ見よがしに紙を細く切り、引き出しにわたって糊で貼り付けてやった。どういう答えが返ってくるだろう。楽しみだ。
今日は散歩の日ではない。
彼女は部屋着から仕事着にドレスを変える。インクをしょっちゅう飛ばす彼女のために、父や兄は執務室をメインに過ごす時間の時は紺や藍色を許してくれるのだ。軽い生地であることに変わりはないが、彼女としては地味な色合いが落ち着く。汚しても問題のないドレスであることも。
一日おきに設けられている散歩の日以外は、朝食を取った後にこうして一休みを終わらせてから父と兄のところに行くことにしていた。
執務室で何をするでもないのだが。長く文章を書けない、癖字でありすぎる彼女は公文書を扱うことはできず、また兄や父も名前を表に出すことを嫌がった。有能さを知らせたくない、とは家人の中でもトップクラスの言い換え方式だと笑い飛ばしてやったのだが。しかし癖字がよろしくないのも確かだろう。
その欠点の代わりに、ちょっとでも数字や収支バランス、彼らの語る長期展望をかなえるための議論を聞くだけの、なんというか、家族に対する恩返し。そう、彼女のしていることは自己満足の恩返しそのもの、なのだろう。
政治の向きなど、彼女のような子供がしゃしゃり出るものでないことは、よくよく理解している。役に立っている自覚はまるでない。
けれども、父も兄も、すごくうれしがってくれるから。
たとえ自己満足、彼らと自分の甘やかしの結果だとしても、やはり彼女としては彼らを手伝いたい。
「さて、今日の数字を見る前にです、兄さま。この筆記具とノートの欠点というか、むしろ売りどころを考えてみたのですが」
「ああ、すごく助かるよアイリーン。私じゃ新しいモノの否定方法しか考え付かないから。売りどころはどこだろうね。誰に売る?」
「ふむ、アイリーン、それもいいが今日こそ領地全体の収支バランスについて父と議論してくれよ? お前の考えは新鮮で、いい刺激になるし、細かい数字を積み上げるのはお前の方が得意なようだから」
ほら、こんなふうに意味もなく私をほめたたえるから、調子に乗るのに。
彼女は、こればかりは叩き込んでくれた家庭教師の先生に感謝している社交辞令用の笑みを浮かべて、執務室にある専用の椅子に座った。