妄想日記―1―
今回からは新しいお話です。
少しでも楽しんでいたければうれしいです。
新しいノート。新しいページ。新しい筆記具。
彼女はつい先ほど父親からもらったプレゼントを大事そうに机の上に置いた。材質がマホガニー、茶褐色の艶やかな表面には傷一つない。書き損じのインクの跡も。
毎回、神経質なまでに気を使って書き物をしているから。
ありふれた書物机にすら、彼女の痕跡を残すわけにはいかないから。
引き出しをあけ、丁寧に一度、プレゼントをしまう。軽く押し、間髪入れずにまた引いた。おまじないのようなものだ。無くなっていないかの、意味もない確認。
手に取り上げてしげしげと裏表を見やりつつ、椅子に座った。この本の表紙は普通のそれのように皮や箔押しされた硬い紙が使われていない。広げやすいように、さらに折り畳むことも視野に入れて考えられているのだ。固く圧縮された紙の代わりにやや厚みのある紙質の一枚目をめくる。
そう、この本はノートという形らしい。
定義としては『本よりも薄く、専用糊ではなくコイル状の針金をもって留められており、紙質としては下位のものを使用、切り取りも可』というあたりだろうか。もちろん、今までにない技術を使って作られたものだ、定義すらも今、彼女が設定したものでしかありえない。
昨日が誕生日だったからと照れと愛おしさが十分に混じった笑みで差し出されたこのノートと、こちらもどうやら新製品だという筆記具を使い、では何を書こうかと彼女は今、こうして迷っている。
やはり日記だろうか。行動記録だろうか。
何の気なしに筆記具を振った。高濃度で練られている炭を原料としたインクは、いささか振りだしていく量にコツが必要だったが今回のペンはやや違う設計をされているようだ。振っても出ない。……そう、つまりうっかりインクをまき散らす事故が減るということだ。助かる。
彼女はノートを前にして瞑想もどきを開始する。何を書こうか。
何度か目を閉じ、開いているうちに、ふと気が付いて顔を上げれば窓の外が薄暗くなっていた。考え込んでいて食事を取りのがしてしまったようだ。考え事をしていると集中しすぎる(過集中というらしい)悪癖は、やはり困ったものである。彼女は別に食事を愛しているわけでもないが、こういう生活をしている以上はそこそこの執着を持っている。ご飯というものは温かいほうがいい。
そろそろ思考にけりをつけようと、ノートに目を落とす。
さて、結局のところでこの日記には何を書こうかと、まずは箇条書きで抜き出してみた。
・現実に起こったことに対する彼女の妄想認識。
・仮想の恋人との空想時間を妄想して書き連ねる。
・小人さんとの会話を主とした、架空の相手との交換日記。
……ここらあたりか、と書いてはみたがどれもこれも痛々しい。
しかし。しかしだ。
彼女は憮然と唇を筆記具のお尻でなぞり、考え続ける。
日記というものは基本的に誰かの閲覧を主目的にして書かれている。閲覧が彼女だけであるならばいい。……だがもし、万が一。メイドがうっかり見てしまわないとも限らないではないか。執事にしてもそう。父親、兄にも懸念が残る。現実にあったこと、それに対する感想を日記を書き残してそれを第三者に見つけられた場合、さらには発覚が今ではなく何年後かになってしまった場合の取り返しのつかなさに比べれば…………いや、どちらがましだろうか。
そもそも、くだらない妄想を繰り返していれば現実と間違えたりしないのだろうか。
彼女ははたとその思い付きに至り、とんとんとノートを叩いた。
彼女のうっかりさ加減からするとやらないとは言い難い。家人に妄想を垂れ流す? ああ、実にやりそうだとも。挙句に心持ち胡乱な笑顔で聞き返されるわけだ。ふむ、心配でならない。では止めようか?
もちろんそれも、彼女にとって実に面白くない結論だ。
そう断じると、彼女はため息をついて立ち上がる。とりあえず空腹のままだといい考えも浮かばないだろう。
仕方がないので日記の題材はランダムに上の三つから選ぶことにし、先に夕飯を取ることにした。
『いや、それはどうかと思うよ、ハニー。俺としては三番目、つまり俺との交換日記を押すね。ものすごくね。大プッシュだ』
彼女がその文章に気が付いたのは夕飯を食べてのち、部屋着に着替えてから再び机についてからのことだ。目を疑い、凝視してみたが書かれている字は消えなかった。少々癖の強い、右肩上がりの急いでいない筆跡。
………………ふむ。夕飯を食べて帰ると書いた覚えのない日記が追加されていた場合は、題材の中で例えるなら、さてどこに分類すればいいのだろうか。とりあえず私の正気を疑うべきか。
ことりと首をかしげる。これは自分の筆致ではない。それは確かだ。悲しいかな、こんなに自身に満ち溢れた字体を書けるほど、彼女には積み上げてきたものがない。人よりも多いものといえばせいぜい病歴、誘拐された回数、トラブルに巻き込まれたこと、ぐらいだ。あぁ、だから渦中における身の振り方にもいささかの自負できるところがある。……いや違う、字体のことだった。
…………まぁいい。メイドもしくは執事の内の誰か、父さまか兄さまが悪戯したのだろう。
彼女は実に滑らかに新製品のペンを操り、流暢に返事を書き足していく。何の返事かといえばそれはむろん、この、身に覚えのない独白に対してだ。
ちょっとしたジョーク、ユーモアあふれる交換日記も悪くないと口角を緩めながら一気に書き上げる。
『いいですか、どこかの誰かさん。人の日記に勝手に返事をするのはマナー違反だし、名前を名乗っていないなんてルール違反でもありますよ?
これが交換日記なんだとしたらね』
「これで私も秘密日記の持ち主だな。やれやれ、女の子のセオリーを踏襲できるなんて、私は実に幸せものだ」
くすくすと上機嫌に彼女は笑い、階下へと湯をもらいに行った後は気持ちよくそのまま就寝したわけだが。
『それはすまなかった。
ハニー、と書いたんで、ダーリン、なんて呼んでくれるかと期待してたんだ。ごめんねハニー。
そして、これからは俺のことをダーリンと呼んでくれるとありがたいな。言っとくけど俺は、ハニーの家族でもなければ執事でもメイドでもないよ?
うん。陰で見守るハニーの恋人、とでも認識してくれるとありがたいかな。
もちろんストーカーでもないから。そのあたりのハニーの突っ込みは、見たかった気がするけど。
ああ、言い忘れてたな。おはよう、ハニー』
「……おはよう、と返した方がいいんだろうか、この場合」
淡い色遣いにあふれた部屋の中、当人でさえどこかしこも淡く、儚げに見える美少女は不釣り合いに赤く染まっている唇を動かした。白く、細い指先が黄味がかった紙質のノートを撫でる。
正確には、彼女が書いた覚えのない日記の文章を。
視線が上がり、彼女は窓から外を見上げた。青い空、白い雲、鳥の鳴き声。
それらはすべて、鉄格子で碁盤目状に切りとられている。
『おはよう、ダーリン』
彼女はまた新しいページの最上段に日付と自身の名前、それから挨拶を書き込み、無表情のまま自室を出て行った。




