婚約破棄の翌日、「付き添いがいない」と言うはずの私が、三年ぶりに「助けて」と父を呼びました
樫の小枝は、折れるとき、思ったより乾いた音がした。
冬至の夜会のいちばん明るい大広間のまんなかだった。ライナー様の襟には、三年前から小枝が挿してあった。婚約の日に両家の当主が交わした二本のうちの一本だ。青かった葉はとうに褐色に縮れていて、それがぽきりと二つになり、床に落ちた。
楽団が弓を止めた。三百人の貴族がいっせいにこちらを向いた。
「アンネリーゼ。君との婚約を、解消する」
よく通る声だった。震えていないことにわたしは少し感心した。新しい毛皮の外套に、新しい銀の指輪。冬至に間に合わせるのは、仕立て屋も大変だったろう。
「理由を言わせてほしい。君は三年間、ただの一度も、僕に頼らなかった。困ったとも、助けてとも言わなかった。僕は君に、必要とされていなかったんだ」
ざわめきが同情の色になった。ライナー様は傷ついた顔をしていて、その顔が上手だったので、広間の半分が彼の味方になった。
わたしは思った。
そのとおりだ、と。
頼らなかった。三年間、父への手紙には毎月こう書いた。順調です、と。春に父が王都へ出てきてからは、毎週日曜のお茶の席で同じ言葉を口にした。嘘のつもりはなかった。口にする朝には、そう思えるように努めていたから。
「承知いたしました。三年間、お世話になりました」
わたしが頭を下げると、黒い外套の人が帳面を抱えて進み出た。貴族院の記録官、オズヴァルト・ラウテンシュラーガー様。冬至の夜会の席次を記録するため、毎年、広間の端に立っている方だ。
「貴族院記録官として、お確かめいたします」
感情のない、きれいな声だった。
「婚約の解消にあたり、被解消側の家は、付き添いを一人、貴族院の席に立てることができます。明日、正午の鐘が三つ鳴り終わるまでに席に着く方がなければ、解消は、家が娘御を見放したものとして記録されます。その場合、娘御の持参財産は、後見が定まるまで、最後までお世話をした家がお預かりすることになります。付き添いを、お立てになりますか」
持参財産。わたしの持参財産は、母が嫁入りに持ってきた谷だ。メールタール、粉の谷。王都の北、馬車で半日のところにある。水車が三つと、小作の家が十八戸。二十一になったこの秋に、母の遺言どおり谷はわたしの名になったばかりだった。
父は人混みが苦手で、冬至の夜会には出ない。兄は近衛だから、今夜は王宮の外で警護に立っている。祖母は父のそばを離れない。わたしの卓の席札は、今年も三枚、空のままだ。
頼めば、来てくれる人はいる。馬車で二十分のところに。
頼まなければ、来ない。
「要りません」とわたしは言った。「付き添いは、立てません。皆様にご足労をかける話ではございませんので。……預かっていただくだけ、ですよね」
「後見が定まるまで、でございます」
記録官はそれだけ言った。顔を見ていて、言わないことがあるのが分かった。一拍だけわたしの顔に目を留めてから、ペンを動かした。
拍手が起きた。
ヒルデガルト夫人が扇を閉じ、広間のまんなかへ歩いてきたのだ。ライナー様の母君。ハルトゥング伯爵は去年から床に伏していて、この家の采配は夫人が握っている。
「なんて潔いお嬢さんでしょう」
夫人はわたしの両手を取った。
「三年、愚痴のひとつも、お願いごとのひとつもなさらなかった。誰にも頼らず、誰にもご迷惑をかけない。わたくし、あなたのような娘が欲しかったのよ」
褒め言葉は、背中に当てられた手のひらに似ていた。温かくて、優しくて、ちょうど扉のほうへ押していた。
それでも、そのときのわたしは嬉しかった。いちばん恥ずかしいのは、そこだ。
自分の卓へ戻った。〈ブルンナー子爵家〉の札の前に席札が四枚ある。父、祖母、兄、わたし。空いた三枚を卓の縁とまっすぐになるよう直してから座るのが、三年間の癖だった。
今夜も直した。手は震えていなかった。
広間の端で、記録官がペンを止め、こちらを見ていた。
◇
わたしが借りている部屋は、王宮の北にある洗濯屋の二階だ。窓が二つ、寝台が一つ、小さな机。婚礼の支度のためにハルトゥング家の近くへ、と夫人に勧められた部屋で、家賃はこの三年、自分で払ってきた。
侍女のブリギッテが湯を持って待っていた。谷の水車番の母親で、わたしが生まれる前から谷にいる人だ。
「夜会は、いかがでございました」
「解消されたわ」
ブリギッテは湯桶を置いた。この人は、驚くとものを置く。
「付き添いは」
「要らないと言ったの」
ブリギッテは置いたばかりの湯桶をもう一度持ち上げ、また置いた。
夜半、扉が叩かれた。
ヒルデガルト夫人は、ご自分で階段を上がってこられた。従僕に提灯を持たせ、革の書類挟みを抱えていた。洗濯屋の二階にたった一つの椅子へ腰をおろすと、部屋を見回して「質素で、きちんとした部屋だこと」と言った。褒め言葉だった。たぶん。
「夜分にごめんなさいね。あなたが明日の朝、貴族院の石段で恥ずかしい思いをしないようにと思って。これに署名なされば、鐘を待たずに済みます。預かり同意書。後見はわたくしども、運用もわたくしども。谷は、あなたの代わりに守ってさしあげます。ライナーも反省しておりますのよ」
わたしは紙を受け取って読んだ。読むのは得意だ。谷の帳簿は、十五のときからわたしが付けている。
三枚目の下段に、〈谷の製粉権は、後見の判断にて運用に供することができる〉とあった。
運用に供する。製粉組合の言葉では、それを質に入れる、と読む。
「この運用には、質入れも含まれますか」
夫人は微笑んだ。
「後見の判断でございますよ。谷のために」
含む、ということだ。
署名欄は白く、ペンは机の上にあった。書けば、今夜は眠れる。争わなくて済む。誰にも、何も頼まなくて済む。
その甘さに自分でぎょっとして、わたしは紙をそっと畳んだ。
「朝まで、考えさせてください」
「ええ、どうぞ」夫人は立ち上がった。「でもね、アンネリーゼ。考えても、誰も来ないわ。あなたは、頼らない子ですもの。わたくし、そこが誰よりも気に入っているのよ」
扉が閉まった。階段を降りていく靴音は、ひとつ残らず同じ間隔だった。
そのまま外套を羽織って、わたしは雪の街へ出た。
頼める友人を数えようとして、指が一本も折れないことに気づいた。三年、そういう手間をかけない人間でいたのだ。
付き添いを雇えばいい。頼むのではなく、雇う。それなら、迷惑ではなく仕事だ。
一軒目の代書人は寝巻きのまま扉を開け、「お引き受けしたいのですが」と言いかけて、扉を閉じた。ハルトゥング夫人は、事務所にとっていちばんのお得意だそうだ。
二軒目の弁護士は、お金の問題ではありません、と言った。何も申し上げておりません、とも言った。
三軒目は付き添い屋だった。元役者という人が、寝巻きの上にガウンを引っかけて出てきた。わたしの顔を見ると、帽子もないのに帽子を取る仕草をした。
「お嬢様。二十ヘスペルでお受けしたいところですが、お断りしなければなりません。先週、伯爵家の使いがおいでになりまして。冬至の翌日の分を、王都じゅうの付き添い屋が、前金で押さえられております。うちも。隣も。そのまた隣も」
先週。
わたしは、帽子のない役者の顔を見つめた。
「……先週、ですか」
「はい。余計なことかもしれませんが」彼はガウンの紐を握りしめた。「先に決めてあった、というお顔つきでございましたな。あちらのお使いは」
帰り道の雪の中で、わたしは考えた。
一週間前にすべて押さえられていた。ならば、ライナー様が小枝を折ったのは、今夜の思いつきではない。冬至の夜会で、わたしが卓に一人でいること。父が来ないこと。わたしが誰にも頼らないこと。全部、見込みの内だったのだ。
選ばれたのだ、と思った。頼らない娘だから。
三年のあいだ、夫人はわたしを何度も褒めた。手がかからないこと。愚痴を言わないこと。何でも自分で済ませること。あれは褒め言葉ではなく、品定めの結果の読み上げだった。
いちばん大事にしてきた美点が、そのまま罠の餌だった。
外套の下で、背中の汗が冷えた。
部屋へ戻ると、ブリギッテが炉に火を入れ直して待っていた。
「お嬢様。旦那様のお宿は、ここから馬車で二十分でございます。大奥様もご一緒です。いまから、わたしが走って」
「いいえ」
「お嬢様」
「他に方法があるはずよ。朝いちばんに貴族院で、条文を読むわ。誰かに頼まなくても、道はあるはずだから」
頼まなくても。
自分の口から出たその言葉の響きに、わたしは気づかないふりをした。
◇
貴族院は、夜明けと同時に開く。
六時の鐘が鳴ってまもなく、わたしは石段を登った。雪が靴の下できゅっと鳴った。円形の間の扉にはまだ鍵がかかっておらず、中には蝋燭が一本だけ灯っている。
記録官のオズヴァルト様が、卓で帳面を整えていた。目の下の影を見れば、一睡もしていないのが分かった。
「お早うございます、ブルンナー嬢」
「お願いがあります」
口に出すと、喉が少し痛んだ。お願い、と言ったのは何年ぶりだろう。
「付き添いに関する条文を、全部、読んでいただけますか」
記録官はペンを置いた。
「条文は、求められれば正確にお読みします。それが職務です」
彼は帳面の下から革綴じの法典を出した。
「第一。付き添いは、解消を告げられた娘御の声によって、席に呼ばれる。血縁であるか否かを問わない。家の者が、娘御の声を待たずに席に着くことはできない」
「待ってください。家の者でも、ですか」
「昔、家の都合で、娘御の意に反して解消を取り下げさせる例が続きました。それ以来、席は当人の声で開くと決まっております」
わたしは法典の背表紙を見つめた。
「第二。席に着いた付き添いは、解消に関わる届出について、貴族院の登記簿の閲覧を求めることができる。第三。呼ぶ声は、正午の鐘が三つ鳴り終わるまで。三つ目は長く、鳴り終わるまでに、およそ数十を数えます」
条文は以上だった。
「私見は申し上げられません」と彼は言った。「ただ、鐘は、正午に必ず鳴ります」
その言い方が、少しだけ人の言葉に聞こえた。
貴族院の入口にある石の長椅子に座って、わたしは読んでもらった条文を繰り返した。
血縁でなくてもいい。誰でもいい。ただ、わたしの声で呼ぶこと。
道は最初から一つしかなかった。頼まない方法はどこにもなかったのだ。
三年前のことを思い出した。
婚約の日の帰りの馬車。父と二人きりだった。
父は六年戦役で右の耳をなくした。砲声で、右だけ聞こえない。だからわたしはいつも、父の左に座る。その日は疲れて、うっかり右に座ってしまった。
婚約の席で、夫人の目がわたしの谷の数字をなぞるのを見てしまったのだ。それだけの、ぼんやりした、けれど確かな怖さだった。窓の外の雪を見ながら、わたしは小さく言った。
――助けて。
一度だけだった。
父は窓の外を見たまま、「ん?」と言った。
聞こえなかったのだ。
分かったとき、わたしは笑ってしまった。笑って、こう言った。
「うまくやれそうです、と言いました」
父は「そうか」と言った。
順調です、は、あの馬車から始まった。
一度言って、届かなかった。もう一度言って、また届かなかったら――そうしたら、わたしは本当に、どこにも行けなくなる。
言わなければ、聞こえなかったことにもならない。
扉が開き、ブリギッテが入ってきた。外套のまま、息を切らしている。
「お嬢様。もう一度だけ、申し上げます」
「ブリギッテ」
「旦那様のお膝のことも、人混みがお嫌いなことも、存じております。でも、お嬢様」
彼女はわたしの前に立った。
「耐えるのは、お嬢様だけではございません。先月、伯爵家の代官が谷に来て、水車の数と粉の取り分を帳面に書いていったと、倅から聞きました。お嬢様が黙って耐えれば済む話では、ございません。谷の十八戸は、この冬、誰の粉を食べるのです」
返す言葉がなかった。ブリギッテの言うことは正しい。正しいことは、いちばん言い返せない。
谷の水車は、冬でも凍らない。三つの水車が、それぞれ違う調子で、ごとん、ごとんと回る。母はその音を聞きながら帳簿を付けるのが好きだった。わたしもそうして育った。あの音がよその家の取り分を数える音に変わるところを想像すると、息が浅くなった。
膝の上で両手を組み合わせた。右手の爪が左の手の甲に食い込んでいた。
「……呼ばないわ」
「お嬢様」
「自分で決めたの」
決めた、と言いながら、決めたふりをしているのだと分かっていた。
十一時になった。
円形の間の扉が開き、わたしは自分の卓に着いた。隣に背の高い椅子が一脚ある。付き添いの席。誰も座っていない。
がらんとした、よく磨かれた椅子だった。
◇
貴族院の円形の間は、石の段が擂鉢のように下へ降りていき、底に審問官の席と二つの卓がある。上の段が傍聴席だ。この日は昨夜の噂を嗅ぎつけた貴族が集まり、立ち見まで出ていた。
向かって左の卓にハルトゥング家。夫人とライナー様。右の卓にわたし。わたしの隣に、空の椅子。
三人の審問官が着席した。いちばん年かさの方が木槌を一度鳴らした。
「ハルトゥング夫人。申し立てを」
夫人は扇を閉じて立ち上がった。
「貴族院の皆様。この娘は、立派な娘でございます」
声は場内の隅までやわらかく届いた。
「三年、わたくしどもに、一度の不満も、一度のお願いも口にしなかった。その気高さを、わたくしは母として誇りに思っておりました。ですから、息子の判断を恥じております」
ライナー様がうつむいた。よく似合う角度だった。
「けれど、気高さは、ときに身を滅ぼします。この娘は昨夜、ご自分の口で、付き添いは要らないと申しました。ご家族に頼らず、一人で決めると。預かりは罰ではございません、保護でございます。頼らぬことを選んだ娘の意志を守って差し上げるのが、後見の務め。わたくしどもは、その務めを果たしたいのです」
一言も嘘ではなかった。それが、いちばん恐ろしかった。わたしは確かにそう言った。三年間、そう生きてきた。
ライナー様と一度だけ目が合った。彼は困ったように眉を下げた。申し訳なさそうな顔。三年間見てきた顔と同じ形をしていて、わたしはそのとき初めて、あれは「顔つき」であって「気持ち」ではなかったのだと知った。
塔の鐘が鳴りはじめた。
ひとつ目。低い音が擂鉢の底に溜まった。
「付き添いの申し立ては、ありますか」
記録官の声に、わたしは答えなかった。口の中が乾いて、舌が上顎に貼りついていた。
「申し立てがなければ、二つ目の鐘を待ちます」
二つ目の鐘の前に、上の扉が開いた。
杖をついた背の高い男の人が入ってきた。後ろに小さな老婦人。その後ろに、近衛の制服のまま、徹夜明けの顔をした青年。
父と祖母と兄だった。
三人は傍聴席の最前列に座った。祖母が父を通路側に座らせようとしたが、父は首を振った。わざわざ列の端まで歩いていって腰をおろし、顔をわずかに傾けた。
聞こえる左の耳を、場内の底へ――わたしのほうへ向けて。
あれは、待っている人の座り方だった。
夫人も傍聴席を見上げた。扇の先で口元を隠して、微笑んだのが分かった。
「ご覧なさい。ご家族が、おいでになっている」
夫人は場内に向かって静かに言った。
「それでも、この娘は呼ばない。これが、この子の意志でございます。皆様、お分かりでしょう。頼らぬことを、誇りとして選んだ娘です」
兄が立ち上がって、何か言いかけた。
「傍聴席は、声を出せません」と審問官が木槌を鳴らし、祖母が兄の上着の裾を引っ張って、兄は座った。
そうだった。家の者は、わたしの声を待つしかない。夫人はそれを知っている。そして、わたしの性分も知っている。
三年かけて仕立てられた罠だった。
二つ目の鐘が鳴った。さっきより長い。
「三つ目で、終わります」
記録官がそれだけ告げた。職務の範囲で言える、いちばん大きな親切だったのだと思う。
膝の上の手を見た。
呼べば、谷は守れる。けれど、三年の「順調です」が嘘だったと、満座に認めることになる。膝が悪く、人混みの嫌いな人を、あの階段から降ろさせることになる。そして――また届かなかったら。
呼ばなければ、誇りは守れる。谷と、十八戸と、ブリギッテの倅の水車と、母の遺した場所を、手放すことになる。それから、傍聴席の端で左の耳を向けている人を。
言わなければ、聞こえなかったことにもならない。
そう思っていたのは、三年前の馬車の中のわたしだ。
いま、あの人は聞こえる側を向けている。
言わなければ、聞こえることもない。
三つ目の鐘が鳴りはじめた。いちばん長い鐘だ。
わたしは立ち上がった。膝が自分のものではないようだった。口を開いたが、何も出なかった。三年分の「順調です」が喉でつかえていた。
――助けて。
やっと出た声は、三年前の馬車と同じ大きさだった。小さな声は擂鉢の底に落ち、誰にも届かないうちに鐘に呑まれた。
父は動かなかった。
また、届かなかった。
違う。あの人は聞こえる側を向けている。待っている。わたしがもう一度言うのを。
息を吸った。肺の底から、母の谷の水車の音まで、全部吸い込むつもりで。
「お父様!」
声が割れた。生まれて初めて、声が割れた。
「助けて。お父様、助けて。わたしの付き添いに、座ってください!」
円形の間が止まった。
父の杖が床を突いた。
父は立った。
祖母と兄も立った。立って、父を見て、同時に座り直した。順番を譲ったのだ。
父は傍聴席の石段を降りはじめた。杖と、悪い膝と、一段ごとの間。降りきって、底の平らな石の上を、わたしのほうへ歩いてくる。
二百の目に見られながら、人混みの嫌いな人が歩いてくる。右の肩がわずかに上がっていた。怖いのだ。分かった。怖いのに、足は止まらなかった。
鐘が尾を引いていた。
長い。こんなに長い鐘は、初めてだと思った。
父の手が付き添いの椅子の背に届いた。
鐘の最後の余韻が石に吸われて消えた。
どちらが先だったか、わたしには分からない。
「席は、成立しました」
記録官はそう言った。ペン先からインクが一滴、帳面に落ちた。
夫人は扇を開き直した。表情は少しも動かなかった。
「付き添いが着いたなら、預かりは取り下げましょう。けれど、解消の責任は、頼らなかった娘にございます。三年、婚約者に心を開かなかった。違約として、谷の製粉権の半分を」
強い。最後まで、強い人だった。
わたしは父の外套の袖をそっと引いた。
「お父様。――閲覧を、と言ってください」
父がわたしを見た。それから審問官を見た。口下手な人が、一度だけ言葉を探した。
「……閲覧を、求める」
記録官が登記簿を開いた。
「ハルトゥング伯爵家の届出、三週間前。条件付き担保。『ブルンナー家の娘の、付き添いなき解消のときに限り、メールタールの製粉権を担保とする。条件が成立しなかったときは、貸付三千ヘスペルを即時に返済する』。署名は、ライナー・ハルトゥング」
場内のざわめきが波のように引いた。
夫人の扇が止まった。三十年、一度も止まったことのない扇だと、誰かがあとで言った。
「母上、あれは、念のための、保険で」
「あなたが先に使うからよ」
夫人は息子を見なかった。低い、冷えた声だった。
新しい外套と、銀の指輪。冬至に間に合わせるために、先に使った金だ。
法の派の人々が、いつのまにか夫人の周りから半歩ずつ離れていた。
年かさの審問官が木槌を鳴らした。
「保護の預かりと言いながら、解消の前に質へ入れた家を、後見には推せない。不誠実な解消と認める。慰謝料の額は、後日、貴族院が定める」
貸付三千ヘスペルは、条件の不成立により、本日をもって返済の期日となった、と記録官が読み上げた。
谷はわたしの名のまま、わたしの手に残った。
◇
貴族院の石段で、父はわたしの前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。杖の先で雪を突いていた。
「夜明けに、同僚から聞いたんだ」と兄が言った。「すぐ走ろうとしたら、父上に襟首をつかまれた」
「三年前」と父は言った。「馬車で、何か言ったな」
「……はい」
「聞こえなかった。お前は、うまくやれそうだと言った。本当は、違ったのだろう」
「はい」
父はうなずいた。うなずくのに、長くかかる人だ。
「母さんが、言い残した。お前は、頼まれる前に助けると、助けられたことを恥じて、もっと遠くへ行く子だ。頼まれるまで待ちなさい。ただし、近くで待ちなさい、と。待つのは、思っていたより、ずっと長かった」
父の左の耳が、まだわたしのほうを向いていた。
「今日は、聞こえた。左で、ちゃんと」
それだけ言って、父は杖に顔を伏せた。肩が少し揺れていた。
祖母がその背中を叩いた。
「順番を譲ったのは、負けたからではありませんよ。呼ばれたのが、ゴットハルトだったからです」
「祖母上、僕は二回、立ち上がりました」と兄が言った。
「二回とも、座りました」
「座らされたんです」
わたしは笑ってしまった。石段の上で、声を出して笑った。笑うと目の端がぬれた。ぬれたまま笑った。
「次からは、もっと早くお言いなさい」と祖母が言った。「わたしは、耳がいいのですから」
「母上は、聞こえすぎます」と父が小さく言って、祖母に杖で足を突かれた。
石段の下で、ブリギッテが自分の帽子を両手で握りつぶしていた。驚くとものを置く人だ。置くものがなかったのだと思う。
「谷の者に、早馬を出します。今夜のうちに」
「ええ」とわたしは言った。「お願い」
ブリギッテは帽子を握ったまま、盛大に泣いた。
その少し先に記録官が立っていた。外套の襟を立て、帳面は持っていなかった。
「記録は、以上です。ここから先は、記録にない話になります」
わたしは彼の顔を見た。三年間、毎年、同じ席次の端に立っていた人の顔だ。
「ひとつ、お願いがあります」
口に出してみても、喉は痛くなかった。
「理由は、ありません。ただ、お願いしたいのです。明日、谷を見に来てくださいますか」
オズヴァルト様はしばらく黙っていた。それからペンを持たない手を胸に当てた。
「三年、毎年、空の席札を直してから座るあなたを、見ておりました。――実は、頼まれる日を、少しだけ期待しておりました。お受けします」
翌年の冬至の夜会で、ブルンナー子爵家の卓には席札が四枚並んだ。
わたしはどれも直さなかった。曲がっていても、座る人がいるのだから。
広間の端で、記録官が欠席の欄の前でペンを止めた。何も書かずに、次の家へ進んだ。
その口の端がほんの少しだけ動いたのを、わたしは見逃さなかった。
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