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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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63/69

第63話 黙って待つ

はじめまして!

鉄菊と申します!

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が

異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで

成り上がっていく物語です。

更新は

▪️平日9時・18時

▪️土日祝:18時

よろしければブックマークをお願いします!

 アウィスの家の使いが宿へ来たのは、荷造りを始めた朝だった。


 若い男が二人ではなかった。年配の女中が一人で、丁寧な物腰で口上を述べた。当主が板書きの男に会いたがっている、と。


「罠です」ニケが即座に言った。「板の脇の物置を見張っていた者と、同じ側でしょう」


「違うと思います」ロゴスは招きの木札を裏返した。「見張っていた人たちは、私たちがまだ気づいていないと思っています。招く必要がありません」


 ヨナスが顎を撫でた。


「アウィスの当主か。……女だぞ」


「ご存じですか」


「顔だけな。三つの家で一番若い。先代が二年前に死んで、娘が継いだ。三十かそこらだ」ヨナスは肩をすくめた。「継いだ年に、家の荷を四割減らした。あれで潰れると皆が言った。潰れなかった」


「減らして残った」ロゴスは呟いた。「……行きます」


 カシウスが門の前まで付いた。中へは一人で入った。


---


 通されたのは、勘定場の奥の狭い部屋だった。


 窓が一つ。机の上に紙が一枚もない。壁際に帳が並んでいるが、どれも閉じている。片づいているのではなかった。見せるものを選んでいる部屋だった。


 アウィス家の当主は椅子を勧めてから、自分も座った。灰色の目をした女だった。


「板書きどのは」


「今日は私が伺いました」


「あなたが数を合わせているの」


「合わせておりません。読んでいるだけです」


 当主は微笑まなかった。それきり黙った。


 窓の外で荷車が軋んだ。誰かが数を読み上げる声が遠くでする。ロゴスは膝の上で指を組んだまま、何も言わなかった。


 沈黙が長くなった。


(――先に埋めた側が、条件を出したことになる)


 これは谷でも街でも同じだった。人は黙っている時間に耐えられない。耐えられない側が、訊かれてもいないことを喋る。訊かずに得た話は、訊いて得た話より正直である。


 半刻近くが過ぎた。当主が先に息をついた。


「せっかちな方だと思っていたわ」


「よく言われます」


「あなたの連れが三日、うちの窓口を数えていたでしょう。箱の数を」


「はい」


「否まないのね」


「否めば、あと二日ぶん数えられるだけです」


 当主の指が机を一度叩いた。


「では単刀直入に言うわ。うちの家から、あの紋の勘定を切り離したいの」


 ロゴスは動かなかった。これも黙って受けた。


 当主は続けた。続けるしかない話し方になっていた。


「四十七枚。あなたの連れが写した枚数と同じよ。……先代が受けた仕事なの。関で集まった分を預かって、番号の勘定へ移す。それだけで手数料が入る。荷を動かさないから、うちは損をしない。よくできた話でしょう」


「よくできています」


「二年前に継いだとき、私はあれを断ろうとした」灰色の目が窓へ向いた。「断りに行ったら、こう言われたわ。〈おやめになるのは構いません。ただ、他の二家がお続けになりますが、よろしいので〉」


「……断れば、家が細ります」


「そう。そして三家のうち一つが降りても、あの流れは止まらない」当主は視線を戻した。「わたしが二年、腹の底で考えていたのはそれだけよ。降りたいのに、降りると損をする。三家が同じ日に降りない限り、誰も降りられない」


 ロゴスはやはり黙っていた。


 当主が眉を寄せた。


「何か言いなさいよ」


「伺っております」


「……そういう手ね」当主は初めて短く笑った。「わたしの父も同じ手を使った。買値を言わずに、相手が二回言うまで待つ」


「今日は手ではありません」ロゴスは言った。「私はまだ、あなたの欲しいものを知らなかったので」


「知った今は」


「一つだけ確かめさせてください。あなたは、あの紋と縁を切りたいのですか。それとも、切ったあとで他の二家に食われたくないのですか」


 当主の目が細くなった。


「後のほうよ」


「ありがとうございます」


 ロゴスは初めて膝の上の手をほどいた。


---


「三家が同じ日に降りる形なら、降りられます」


「作れるものなら二年前に作っているわ」


「二年前になかったものが、いま一つあります」ロゴスは言った。「あなたの家の勘定に、四十七枚ぶんの写しが外にあるという事実です」


 当主の顔が硬くなった。


「脅しに来たの」


「逆です」ロゴスは首を振った。「あの写しが外に出れば、いちばん先に焼かれるのはあなたの家です。切ったのはあなたの窓口ですから。……あの束は、あなたにとって刃です。ですから、刃の向きを変えます」


「どうやって」


「板に載せます」


 当主が目を見開いた。


「三家それぞれが、番号の勘定へ移した額を、月ごとに値の板の隅へ書く」ロゴスは言った。「品の値と同じ場所に、同じ字で。……罪として告げるのではありません。この街の商いの数として、ただ載せる」


「そんなものを載せれば、うちが真っ先に責められる」


「三家が同じ月から載せれば、責める先が三つになります」ロゴスは言った。「一つが降りれば裏切りですが、三つが同じ日に同じことをすれば、それは決まりになります。……あなたが二年欲しかったのは、断る勇気ではなく、三家が同時に動く口実です」


 部屋が静かになった。


 当主は長いこと机を見ていた。それから顔を上げた。


「レンタとコルバは、わたしの言うことを聞かない」


「あなたが言えば聞きません」ロゴスは頷いた。「言うのは、板を書いている人です。あの人は三家のどこにも属していません。誰の得にもならない場所にいる者の言葉だけが、三人の前で同じ重さになります」


「あの板書き、いくらで雇えるの」


「雇えません」ロゴスは言った。「あの人は、名の載らない仕事を一度断った人です」


 当主が初めて椅子の背に体を預けた。


「……あなた、何者」


「北から来た者です」


「北の何」


 ロゴスは答えなかった。今度の沈黙は、こちらのものだった。


 当主は待ち、それから諦めたように息を吐いた。


「三日ちょうだい。二家に会うわ」


---


 外へ出ると日が高かった。


 カシウスが門の陰から離れて並んだ。


「長かったですな。何を話したのです」


「半分は黙っていました」


「黙って何が進むのです」


「向こうが二年考えていたことを、全部話してくれました」ロゴスは眩しそうに空を見た。「こちらから訊けば、あの人は用心して半分だけ答えたでしょう。……人は、問われたことには身構えます。ですが黙って待たれると、自分の困りごとから話しはじめる」


 カシウスが唸った。


「わしには一生できませんな」


「私も、谷では喋りすぎます」


 広場を横切るとき、ロゴスは値の板を見上げた。


 板の隅にはまだ余白がある。品の値の下、「口」の値の下に、白いままの一列が残っていた。


(――ここに、月ごとの額が載る日が来る)


 そうなればこの街は、王都へ吸い上げられた分を毎月みずから書き出すことになる。誰も告発しない。ただ、数が並ぶだけである。


「宿へ戻りましょう」


 だが宿の前に、ノルドが立っていた。顔つきが違った。


「北から早馬だ。二本、同じ日に着いた」


 ロゴスの足が止まった。


「一本は谷から。もう一本はエンポリアからだ」


(続く)


---


【今回の理論メモ】沈黙の交渉術――先に沈黙を埋めた側が、条件を出したことになる


 交渉が下手な人ほど、よく喋ります。間が空くのが怖いからです。ですが交渉の場では、沈黙は空白ではなく圧力です。人は静けさに耐えられず、訊かれてもいないことを話しはじめます。そして訊かずに出てきた情報は、訊いて出てきた情報よりずっと正直です。質問されると、人は身構えて答えを作るからです。


 使い方は難しくありません。相手が条件を言った直後に、すぐ返さない。二呼吸置く。それだけで、相手は自分から補足や譲歩を足してきます。「もちろん、そこは相談できます」という一言は、たいてい沈黙が引き出したものです。逆に自分が値を出した後にこちらが焦って理由を並べれば、その理由が値切りの取っ掛かりになります。


 もう一つ。相手が本当に困っていることは、こちらが言い当てるものではなく、相手が自分の口で言うものです。だから序盤で用意した質問を全部ぶつけないほうがいい。聞き役に回ると、相手は「何のために欲しいのか」を勝手に説明してくれます。交渉が取り合いから交換に変わるのは、たいていその瞬間です。


 ただし沈黙は、相手を追い詰める道具ではありません。相手が自分の困りごとを口に出せる時間を作る道具です。使った後に「では、そこを一緒に片づけましょう」と言えないなら、それはただの意地悪になります。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


 今回の背骨は「黙って待つ」。半刻の沈黙が、二年ぶんの本音を引き出しました。


 降りたいのに降りると損をする――三つの家が二年動けなかった理由と、その解き方が今回の山です。


 そして北から届いた二本の早馬。次回、ロゴスは二つの火に挟まれます。


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