第57話 鎖の飾り
はじめまして!
鉄菊と申します!
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が
異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで
成り上がっていく物語です。
更新は
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筆の先が帳に触れるまで、広間は物音一つ立てなかった。
ガレアスは一行目を指で辿り、顔を上げずに書いた。白いものの増えた頭が灯の下で鈍く光っている。一年ぶりに見る書きぶりだった。字の傾きまで昔のままである。
「本日、財務官ガレアスが帳を継ぐ」低い声が続いた。「喚問の続きは明朝とする」
グレヴィウスの薄い唇が動いた。
「本日中に片づくものと思っておりました」
「財務府の帳は一日に二つの判じを載せぬ」ガレアスは筆を置いた。「今日はもう一つ載っている。身柄預かりの一件だ」
もっともらしい形だった。誰も否めない。グレヴィウスは目だけを細くして頷いた。
ロゴスは階の上に立ったまま動かなかった。
(――一日、延びた)
ガレアスは最後まで彼を見なかった。書記へ「墨を替えよ」とだけ言い、外套の裾を払って階を降りた。ロゴスの二歩手前を通り過ぎるとき、黒衣の裾に縫い付けられた細い鎖が石の段で一度だけ鳴った。
小さな音だった。広間の誰も振り返らなかった。
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その晩の麦蔵は蒸していた。
「一日くれました」カシウスが言った。「あの方は味方です」
「違います」ニケが帳面を膝に置いたまま首を振った。「明日、名を書くために形を整えただけです。財務府の作法を守った。それだけのことでしょう」
「一年、あの方は城から降りてこられなかった」オーウェンが冊子を抱えて呟いた。「降りてきたのが今日です。……なぜ今日なのか、私にはそれが解らない」
ロゴスは板壁の前に立っていた。炭を持ったまま、まだ一本も線を引いていなかった。
「朝から私たちは、同じことばかり数えています」
三人が顔を上げた。
「あの人がどちらに付くか。味方か、敵か。……この数え方そのものを、一度疑ってみたいのです」
「疑いようがありません」ニケの声は硬かった。「盤は一つです。座は一つ、首も一つ。あの方が私たちの側に立てば、代わりにあの方の名が紙に載る。あなたが助かればあの方が沈み、あの方が守られればあなたが沈む。どう並べ替えても、これは取り合いです」
正しかった。ロゴスは頷いた。
「その通りです。ですが取り合いになるのは、皆が同じ一つのものを欲しがっているときだけです」
彼は板壁に羊の輪郭を下手な線で描いた。
「一頭の羊を、二人が争っているとします。二人とも同じことを言う。この羊が欲しい、と。……ですが片方は乳が欲しく、片方は毛が欲しいのかもしれない。それなら二人とも取れます。羊は一頭のままです」
「都合のよい話です」
「ええ。都合がよすぎる話です。だから確かめねばなりません」ロゴスは炭を置いた。「私たちは今日一日、あの人が何を欲しがっているかを一度も訊いていない。付くか付かないかだけを数えていました」
カシウスが眉を寄せた。
「では、あの灰色の男とも分け合えるとでも」
「分け合えます」
「本気で仰るのか」
「あの人は七日前も昨日も、一度も斬るとは言っていません」ロゴスは言った。「消すのが目的なら、街道の宿の親父と同じ夜に片づけられた。私は十日あまり、鍵のかからない麦蔵で寝ています。……あの人が欲しいのは私の首ではありません。名の入った紙です。王都へ送れる一枚だ」
ニケの指が帳面の縁を強く押さえた。
「では、あなたの首の代わりに何を渡すのです」
「渡さずに済むかもしれません」ロゴスは息を吐いた。「一つ、私は誰にも言っていなかったことがあります。……私は、この街の座を取りに来たのではありません」
三人が黙った。
「セウェルスさんを連れて帰ること。ヨナスさんの行方を知ること。……それだけです。座は仕組みの上に載る椅子です。今のこの街には、椅子を載せる床がない」
ロゴスは自分の言葉に少し驚いていた。
(――盤を取り合いにしていたのは、私の口だったのかもしれない)
言わなければ、相手は当然そう読む。前の代の者が戻れば、望むのは座に決まっていると。
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夜半、庁舎の裏手の廊は誰もいなかった。
財務府へ上がる階は狭く、手すりの木が乾いて割れていた。踏板に埃が積もっている。この一年、ここを上り下りした者がほとんどいないという事実が、そのまま足元に見えていた。
ロゴスは最下段の脇に立って待った。半刻ほどで、上から灯が降りてきた。
「小僧」
四年ぶりの呼び方だった。
「お久しゅうございます」
「無駄口はよせ」ガレアスは灯を柱の窪みに置いた。「明日、わしはお前を裁く。わしの名で書く。それを言いに来ただけだ」
「存じています」
「存じておって、なぜここへ来た」
「裾の鎖が、鳴りましたので」
ガレアスの喉が一度鳴った。笑ったのかもしれなかった。
「……あの方は、十八におなりだ」やがて彼は言った。「城の三の間から一年降りておられぬ。最初の半年は病だった。あとの半年は病ではない。一度だけ階を降りようとなさって、降りられた。……その日から、二度と降りぬ」
「何をご覧になったのですか」
「知らんほうがよい」ガレアスは首を振った。「わしは一年、あの方の名で降りる達しに副署してきた。断れば次の日にあの方が書かされる。書けば、書いた名だけが紙に残る。……小僧。わしはこの一年、名を書くためだけに飼われておった器だ」
ロゴスは階の埃を見ていた。オズヴァルト卿と同じ場所に、この人も立っていた。
「一つだけ、先に申し上げます」彼は顔を上げた。「私はこの街の座を取りに来ていません」
「馬鹿を申せ」ガレアスの声が跳ねた。「では、なぜ儀礼の府の老いぼれを担ぎ出し、広間に百人を並べた。座を望まぬ者のすることではない」
「仕組みが要るからです」
「同じことだ」
「違います。座は一つしかありませんが、仕組みは何人が使っても減りません」ロゴスは言った。「私が欲しいのは二人の人と、収税を数える目です。あなたが守りたいのは城の三の間のあの方と、財務府の帳でしょう。あの灰色の人が欲しいのは名の入った紙です。……三人が、別々のものを欲しがっている」
「屁理屈だ。明日わしが名を書けば、お前は終わる」
「ですから、書いてくださって結構です」
ガレアスの目が細くなった。
「……何と申した」
「明日、私を裁いてください。判じは〈この街から出よ〉で構いません」ロゴスは静かに言った。「あの人はそれで名の入った紙を得ます。王都へ、芽を摘みましたと送れる。あの人の欲しいものは、それで全部です」
「お前は何を得る」
「同じ手で、もう一行だけ書いていただきたいのです」
ロゴスは一歩、灯のほうへ寄った。
「本件に関わる収税を、財務府が検める。……その一行を、あなたの名で」
ガレアスは長いこと黙っていた。
「できぬ」やがて彼は言った。「収税は二枚ある。二枚目は王命の枠だ。財務府には手を触れさせぬ。四年前にお前自身が掘り当てた話だぞ」
「では、そう書いてください」ロゴスは頷いた。「〈二枚目は王命の枠ゆえ、財務府は検められぬ〉と。判じた者の名を添えて」
ガレアスの手が灯の柄を掴んだ。
「……お前は」
「どちらに転んでも紙が残ります。検めれば二枚目の中身が帳に出る。検められぬと書けば、王命の枠がこの街の収税を握っていると帳に残る。……あの人が半年かけて消してきたのは、その両方です」
「性の悪い手を使う」ガレアスは吐き捨てた。「昔からだ」
「一つ、伺わせてください」ロゴスは言った。「あの人は明日、あなたの名の〈判じる力〉だけを借りるつもりでいます。収税に手を出せば止めに来るのでは、とお考えでしょう」
「当たり前だ」
「止められません」
「なぜ」
「名は、分けて持てないからです」
ガレアスの眉が動いた。
「財務官の名には、収税を数える手がくっついています。切り離せば、それはもう財務官の名ではない。……昨日あの人は、階下の百人の前で自分から言いました。名を書ける者を連れて来よう、と。名を借りる者は、名を選べません」
廊の奥で風が鳴った。
「わしが得るものは何もない」ガレアスは低く言った。「わしの名は明日から王都の台帳に載る」
「載ります」ロゴスは否まなかった。「ですが、載らない道はもうありません。あなたは今日、あの階に立ってしまわれた」
ガレアスの指が黒衣の裾へ落ちた。細い鎖が指の下で小さく鳴った。
「あなたが明日失うのは、名の安全です。得るのは一年ぶりに、あなた自身の職分で書く一行だ。……助けてくださいとは申しません。あなたはあなたの帳を取り戻すだけです」
老人は灯を取り上げ、階のほうへ半分体を向けた。
「墨を、用意させておく」
背に向けて、ロゴスは訊いた。
「その鎖は、飾りですか」
ガレアスは足を止めた。
「先の領主さまが財務官の証にと縫わせた」しばらくして声が返った。「飾りだ。……鎖の形をした、飾りだ」
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翌朝の広間は七日前より静かだった。
ガレアスは上座の脇に立ち、帳を開いた。書記の少年が筆を構えた。
「前の代の者ロゴス。城下の秩序を乱した咎につき、証が整わぬ。ゆえに罪は問わぬ」
階下がどよめいた。グレヴィウスは動かない。
「ただし、座なく名なき者が広間の階に立つことは、書式に照らして認められぬ。三日のうちに城下を出よ。……財務官ガレアスの名において判ずる」
筆が走った。グレヴィウスの唇の端に薄い笑みが浮いた。彼が七日前から欲しかったものが、いま紙の上に載ったのだった。
「続けて、財務府の帳に記す」
ガレアスは顔を上げなかった。
「本件に関わる収税につき、財務府がこれを検める。二枚に分かれた収税のいずれも、いつ・誰の手で・どこで集めたかを財務府の帳へ写させる。……同じく、財務官ガレアスの名において」
広間の空気が止まった。
グレヴィウスが初めて長机の脇から一歩出た。
「二枚目は王命の枠です。財務府の管ではない」
「では、そう帳へ書こう」ガレアスは筆の先を灯にかざした。「〈二枚目は王命の枠ゆえ、財務府は検められぬ〉と。判じた者の名を添えてな」
誰も咳一つしなかった。木札の鳴る音だけが階下で細く続いていた。
グレヴィウスは役人の列を見なかった。今度は見ても意味がないことを、この男は解っていた。名を書ける者は今日、階の上にいる。
「……よろしい」
彼は外套の裾を直した。
「ただ、財務官どの。帳は数える人がいなければただの紙です。あなたの下役は今、何人おられますか」
ガレアスの手が止まった。
「王都へ、今日のことを書き送ります」グレヴィウスは穏やかに続けた。「あなたの名も、一緒に」
「好きにせよ」
筆が置かれた。乾いた音が石の壁に返った。
ロゴスは十三段を降りた。三日。セウェルスの身柄は儀礼の府に預かられたままで、その罪もまだ消えていない。街を出るのは自分のほうだった。
階の下でガレアスとすれ違った。
「ロゴスどの」
一年ぶりの呼び方だった。
「三日で、何を置いていく」
「数える人を置いていきます」
ガレアスは何も言わず階を降りた。黒衣の裾の細い鎖が石の段で鳴った。
今度の音は広間の隅まで届いた。
(続く)
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【今回の理論メモ】ゼロサムと非ゼロサム――「どちらが取るか」の前に「何のために欲しいか」
交渉が難しくなる最大の原因は、たいてい相手の強欲ではありません。「相手が得た分だけ自分が損をする」という思い込みです。取り分の合計が決まっている勝負をゼロサムと呼びます。一つの椅子、一つの案件、一つの予算枠。確かに世の中にはゼロサムの場面もあります。ですが実務で本当にゼロサムなものは、私たちが感じているよりずっと少ない。
有名な例に一つのオレンジを取り合う姉妹の話があります。半分ずつに切って両者が不満を残した。だが後で聞くと、一人は果肉でジュースを作りたく、もう一人は皮でお菓子を焼きたかった。欲しいものが最初から違っていたのです。取り合いに見えていたのは、「オレンジが欲しい」という同じ言葉で二人が別々のものを指していたからでした。
だから交渉の第一手は、条件を削り合うことではなく問いを変えることです。「どちらが取るか」ではなく「それを何のために欲しいのか」。相手が本当に守りたいものが、面子なのか、金額なのか、社内での説明のしやすさなのか、納期なのか。争点が二つ以上あると分かった瞬間に、盤は取り合いから交換へ変わります。互いに安いものを渡し、高いものを取る。
もう一つ。交渉相手だけでなく、自分自身も点検してください。自分が何を望んでいるかを相手に一度も言わないまま、相手が最悪の想定で読んでいることは驚くほど多い。「私はあなたの席を狙っていません」の一言が言われていないだけで、その盤はゼロサムのまま固まります。取り合いを作っているのは、しばしば沈黙のほうです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回の背骨は「盤は本当に取り合いか」。裁かれる側が、裁く手にもう一行だけ書かせました。
一年ぶりに階へ降りた後見が、何を選んだのか。裾の鎖の音がその答えです。
次回、街を出るまでの三日間が始まります。
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