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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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第47話 割に合わぬ谷

はじめまして!

鉄菊と申します!

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が

異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで

成り上がっていく物語です。

更新は

▪️平日9時・18時

▪️土日祝:18時

よろしければブックマークをお願いします!

夜明け前の隘路に、鉄の匂いが満ちた。


 雇兵団が谷へ入った。幾重の柵を一枚また一枚と押し破り、ロゴスの引いた道をそのまま奥へ流れ込んでくる。数は谷の頭数の三倍を下らない。金で雇われた本物の兵だ。歩幅がそろい、盾の並びが崩れない。獣のように我を忘れて突っ込む相手ではなかった。


 だが、その揃った隊列が、鞍部の細い喉元でぴたりと詰まった。


(――ここだ)


 尾根の岩陰から、ロゴスは戦の始まりを見下ろした。開けた野で当たれば、敵の数は二乗で効いて谷は磨り潰される。それを避けるために、彼はこの一点を選んだ。一度に二人か三人しか肩を並べられぬ、岩と崖に挟まれた喉元。ここでは百の兵も、先頭の数人しか刃を振るえない。後ろの兵は前の背を見て待つしかない。数は掛け算から引き算へ落ちる。


 その先頭に、オルドが立っていた。


---


 オルドの剣が、二人分の間口を丸ごと塞いだ。


 押し寄せる先頭の雇兵を、一人また一人と峠の口へ突き返す。傍らにガイルが盾を構え、狭い岩壁を背に楔を打つ。頭上の岩棚からはリノの炎が、詰まった隊列の腹へ落ちた。逃げ場のない喉元で、火は横へ広がるしかない。前へ進めぬ兵の列を、後ろから炎が炙る。


「退くな! ここは一人が十人分だ!」オルドの声が岩壁に反った。


 雇兵は強かった。だが強さを使う場所がなかった。三倍の数も、喉元では二人分の幅に絞られる。押しても押しても、前の数人が斃れるだけで隊列は一歩も伸びない。斃れた仲間が足元に積もり、後ろの兵の足を鈍らせる。セレナの術が要所で退路の岩を崩し、敵は退くにも手間取った。


 ロゴスは、その一部始終を冷たく数えていた。


(――私の狙いは、皆殺しではない)


 彼は胸の内で、この戦の本当の勝ち筋を確かめていた。三倍の敵を一人残らず討つ力など、谷にはない。討とうとすれば、いずれこちらが先に擦り切れる。だから討つのではない。悟らせるのだ。この谷は、取るに値するより、取る痛みのほうが高い、と。


---


 尾根の陰で、オルドの副えの若者が食い下がった。


「軍師様! 敵は詰まってる、今こそ一気に討ち崩す好機だ! なぜ攻めに出ない、なぜ削るだけで留める!」


「攻めに出れば、この喉元を捨てることになる」ロゴスは静かに返した。「開けた所へ出た瞬間、敵の三倍が二乗で効く。私たちが今立っていられるのは、この一点を手放さないからです」


 若者はなお唇を噛んだ。ロゴスは続けた。


「それに――彼らを追い詰めすぎてはいけない」


「追い詰める? 敵ですよ」


「雇兵は、忠義で戦ってはいない」ロゴスは岩の下の鉄の列を見やった。「金で戦っている。金で動く者は、金では死なない。逃げ道のない鼠は捨て身で牙を剥くが、逃げ道のある兵は、割が合わぬと知れば退く。……私が削るのは、敵の命じゃない。敵の帳面です。この谷を"取れば取るほど高く付く獲物"に仕立てる。一人斃れるごとに、指揮官の胸の算盤が、退くほうへ傾く」


 若者が、ようやく口をつぐんだ。


(――報酬は変わらない。だが払う痛みだけが積み上がる。取り分より損料が高くなった時、金で雇われた者は必ず算盤を弾き直す。その一線を、こちらから越えさせてやればいい)


 ロゴスはノルドに目で合図した。あらかじめ喉元の奥に見せ札を仕込んである。さらに幾重の柵が奥に控え、進めば進むほど道が細り血の値が上がるのだと、敵の目に映るように。攻めの果てに待つのが勝利ではなく、際限のない出血だと。


---


 三度目の突撃が砕けたとき、敵の隊列に初めて淀みが生まれた。


 先頭の兵が、後ろを振り返り始めた。前へ押す足より、退き際を探る目のほうが増えた。斃れた仲間の数が、奪えるはずの谷の値打ちを、とうに超えていた。金で来た者たちの顔から、戦う理由が抜け落ちていく。


 後方の丘で、それを見ていた指揮官が、ついに退き鉦を鳴らした。


 雇兵団は退いた。潮が引くように喉元から抜け、幾重の柵を逆にくぐって谷の外へ。追い討ちはしなかった。逃げ道を残したからこそ、彼らは退く道を選べた。ロゴスの盤は、敵を殺す前に、敵の算盤を折った。


 だが、その退く群れの流れに、一人だけ逆らう影があった。


 黒衣。ロゴスの伏せておいたノルドとオルドの一隊が、退路の細道でその影を囲んでいた。糸を引いていた者――コルヴスだった。雇兵の退き足に紛れて谷を抜けようとしたが、ロゴスは初めからその一手を読み、退路の一本を残しつつ、そこにだけ網を張っていた。


「逃がすものか」オルドの剣先が、洗練された黒衣の喉元を捉えた。


 コルヴスの物腰は、なお崩れていなかった。囲まれてなお、口の端に薄い笑みがあった。だがその手からは、もう指図を書き送る蝋も筆も奪われていた。糸を引く者が、糸を断たれた。


 ロゴスは尾根を下り、縛につかれた黒衣の前に立った。


「あなたは、割に合わぬものを取りに来た」ロゴスは静かに言った。「取る値打ちより、取る痛みが高い。理を解する者なら、退く。……あなたの雇った兵は退いた。あなただけが、退けなかった」


 コルヴスは、しばし黙してロゴスを見た。それから、笑みを消さぬまま低く言った。


「……面白い。だが憶えておけ。次に来るのは、金で退く者ではない。金で退かぬ高さから来る」


 その言葉の底に、ロゴスは霧の向こうの気配を嗅いだ。この勝ちは、大きな網のほんの一手を跳ね返したに過ぎない。捕えた黒衣は、その一手の指先でしかなかった。


(――この男の口の先に、次の闇がある)


 東の空が白んだ。谷は、また一つ勝った。だが勝ちの手応えより、ロゴスの胸には、コルヴスの吐いた"高さ"という一語が、冷たく残っていた。


(続く)


---


【今回の理論メモ】抑止と損害交換比――「割に合わぬ」と悟らせて退かせる


 強い相手を退けるのに、必ずしも殲滅は要りません。鍵は「損害交換比」――相手が奪える値打ちより、奪うために払う痛みを高くすることです。今回の雇兵は、忠義でなく金で戦う者でした。金で動く者は、金では死にません。取り分より損料が高くなった瞬間、算盤を弾き直して退きます。ロゴスは谷を「取れば取るほど高く付く獲物」に仕立て、指揮官自身に撤退を選ばせました。


 これはチキンゲームの均衡ずらしでもあります。正面衝突で先に折れたほうが負ける勝負を、こちらは「攻めるほど損が積む地形」を先に用意して、相手が折れざるを得ない側へ盤を傾けた。逃げ道を残したのも要です。逃げ場を断てば相手は捨て身になり、かえって高くつく。退く道があるからこそ、理性ある相手は退きます。


 現実でも同じです。競合や交渉で相手を押し返したいとき、「相手を潰す」より「参入や攻勢を割に合わなくする」ほうが、しばしば安く、確実です。あなたを狙う痛みが得より高いと相手が計算した瞬間、戦わずして退いてくれます。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


 決戦、決着です。皆殺しではなく「割に合わぬと悟らせて退かせる」――が今回の肝でした。

 喉元で数を殺し、敵の命ではなく敵の算盤を折る。オルド、ガイル、リノ、セレナの見せ場でした。


 糸を引いていたコルヴスも、ついに捕縛。ですが彼の残した"高さ"という一語が、次の闇を告げます。

 次回、戦後の尋問から、より上の影が見えてきます。


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