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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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42/42

第42話 甘い縄

はじめまして!

鉄菊と申します!

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が

異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで

成り上がっていく物語です。

更新は

▪️平日9時・18時

▪️土日祝:18時

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翌日の昼。コルヴスは、昨日と寸分違わぬ刻に谷の口へ現れた。


 黒衣に、影の供。だが今日は手ぶらではなかった。供が、漆塗りの小箱を捧げ持っている。男は昨日ロゴスの示した席へ、案内も待たず自ら歩み寄り、ゆったりと腰を下ろした。


「さて」コルヴスは薄く笑った。「昨日約束した"よい話"だ。……聞いてくれるかな。谷の主どのだけでなく、谷を担う御方々にも」


 その席には、ロゴスの傍らに、村長ゲオルグと顔役のボルク、ヴィムが並んでいた。ロゴスがそう座らせた。


(甘い話は、私一人に囁かせない。谷の皆の耳の前で、開けさせる。……そうすれば、後ろの棘も、皆の目の前に晒される)


---


「話は、単純だ」コルヴスは指を一本立てた。「あなた方の握る、あの束。あれを我らに返し、外へ訴え出るのを取りやめる。それと引き換えに――谷を、我らの交易と庇護の内に、迎え入れよう」


 彼は、谷の奥へ視線を流した。


「考えてもみられよ。塩は今、幾つの峠を越えて、どれほどの値でこの谷に届く。鉄は。薬は。我らの網に入れば、それらが半値以下で、絶えることなく回る。作った麦も、打った鉄も、我らが買い取り、遠くの町へ運んで売る。金が谷に落ちる」


 ボルクの喉が、ごくりと鳴った。コルヴスはそれを見逃さず、声を柔らかくした。


「それだけではない。獣が出れば、我らの手の者が退ける。盗賊が来れば、我らの名がそれを遠ざける。もう、村の若者が垣根の前で震えて夜を明かすこともない。……貧しく、狙われ続けたこの谷が、豊かで、安全になる。これが、我らの申し出だ」


 場が、ざわめいた。ヴィムでさえ、腕を組んで唸っている。ボルクはもう、半ば身を乗り出していた。


「……ロゴス様」ボルクが低く言った。「これは、悪い話ではないぞ。塩が半値。鉄が絶えぬ。獣も盗賊も、あちらが退ける。わしらが血を流さずに済む。谷が、豊かになる……」


(――旨い。棘を隠すのが、実に旨い)


 ロゴスは、コルヴスの並べた品を一つずつ胸で数えた。塩、鉄、薬、買い取り、庇護。どれも谷が喉から手が出るほど欲しいものだった。だからこそ、警戒の鈴が鳴った。


「よい話です」ロゴスは静かに口を開いた。「あまりに、よい。……コルヴスさん。一つ伺いたい。あなたは、何を得るのですか。塩を安く回し、鉄を絶やさず、兵を出して獣まで退ける。網は、それだけの物入りをして、この痩せた谷から、何を得る」


 コルヴスは、初めて愉快そうに目を細めた。


「安寧だ。国境の辺境が荒れれば、我らの交易も傷む。あなた方が豊かになれば、我らの商いも太る。……互いに、得をする。それだけの話だ」


---


 ロゴスが即答しないでいると、コルヴスの声が、わずかに温度を変えた。柔らかいまま、芯だけが冷えた。


「迷うことは、ない。よく考えてごらん、谷の主どの。……あなた方に、他の道があるのか」


 彼は谷の奥を、今度は憐れむように見渡した。


「貧しい。狙われている。後ろ盾は、一つもない。王も、領主も、この谷を守りはしない。あなた方は、我らの申し出を断ったところで、どこへ行ける。誰に頼れる。……断る力など、そもそも持っておられまい。よい話だから受けるのではない。他に道が無いから、受けるのだ。賢いあなたなら、分かるはずだ」


 場が、しんと静まった。ボルクが目を伏せた。ヴィムの唸りも止んだ。それは、谷の誰もが胸の底で恐れている真実を、そのまま突いていた。貧しく、狙われ、後ろ盾がない。断る力など、無い――。


(――ここだ。あの男の、本当の一手はこれだった。品物ではない。"お前たちに他の道はない"と、思い込ませること)


 ロゴスの頭の奥で、一つの言葉が澄んで立ち上がった。かつて学んだ、交渉の芯。


(交渉の力は、財ではない。弁でもない。……"代わりの手"を持っているかどうかだ。この話が嫌なら別の手がある――そう言える者だけが、折れずに済む。逆に代わりの手が無ければ、どんな悪い条件でも呑むしかない。あの男は、谷に代わりの手が無いと決めつけ、そこを突いてきた)


 だが、と、ロゴスは思った。本当に、無いのか。


---


 ロゴスは、ゆっくりと顔を上げた。


「コルヴスさん。あなたは今、私たちに"代わりの手が無い"と仰った。断る力が無い、と。……その一点にだけ、あなたの話は懸かっている」


「事実を言ったまでだ」


「では、事実で返します」ロゴスは指を一本立てた。「私たちには、あなたが思うより、二つの手がある。第一に――束です」


 コルヴスの眉が、わずかに動いた。


「あなたが今日わざわざ谷まで足を運び、塩を半値で回すとまで言うのは、あの束が欲しいからだ。あの束は、網の悪事の動かぬ証。私たちが握っている限り、網は谷に手荒なことができない。暴けば、己の首が絞まるから。……欲しがっているのは、あなたの方だ。欲しがる者と、握る者。どちらが交渉の手を持っているか」


 ボルクが、はっと顔を上げた。


「第二に」ロゴスは続けた。「私たちは、あなたの塩と鉄が無くとも、冬を越せる」


 彼は谷の奥を、コルヴスとは違う目で見渡した。


「この一年、私たちが何をしてきたか、あなたの目にも映ったはずだ。水路を引き、荒れ地を拓き、鍛冶を興し、余った実りを蓄えに回す仕組みを作った。塩は少ないが、絶えはしない。鉄は乏しいが、打てる。獣は――四頭、こちらの手で退けた。豊かではない。だが、誰にも頼らず、己の足で立っている。冬を越す備えは、もう、この手の中にあります」


「……粗末な備えだ」コルヴスの声が、初めて硬くなった。「我らの庇護に比べれば」


「粗末でも、私たちのものです」ロゴスは退かなかった。「あなたの言う"代わりの手が無い"は、間違いだ。私たちには、握った切り札があり、頼らずに立つ足がある。……だから、断れる」


---


 脱穀場に、風が抜けた。ボルクは、もう身を乗り出してはいなかった。ヴィムの目に、いつもの鋭さが戻っていた。


 コルヴスは、しばらく黙ってロゴスを見ていた。それから、崩さぬ笑みのまま、小さく息を吐いた。


「……なるほど。噂ほど、幼くはない、か」彼は漆の小箱をそっと供へ返した。「今日は、答えを聞きに来たのではない。よい話を、置きに来ただけだ。急ぐことはない。よくよく、皆で考えられるがいい」


「考えます」ロゴスは頷いた。「ただし、こちらからも一つ。あなたの言う交易の値、庇護の中身――塩は本当に半値のままか、買い取りの値は誰が決めるのか、庇護の代わりに谷は何を差し出すのか。それを、書付にして、次までにお持ちください。話は、それからです」


 コルヴスの目が、ほんの一瞬、細くなった。ロゴスが即断せず、条件を引き、時を稼ぎにきたのを、正しく読んだ目だった。


「……よかろう」彼は立ち上がった。「では、書付を用意しよう。次までに、な」


 黒衣が翻り、影の供を従えて、男は去った。


---


 男の背が消えると、ボルクが太い息を吐いた。


「……危うかった。わしは、半分乗せられておった。塩が半値、と聞いた途端にな」


「乗せられて、当然です」ロゴスは静かに言った。「あの話は、旨かった。旨すぎた」


(――交渉で折れずに済んだのは、谷に"代わりの手"があったからだ。束という切り札と、頼らず立つ足。この一年の積み重ねが、そのまま断る力になった。……もし何もない痩せた谷のままだったら、私は今日、あの縄に首を差し出していた)


 だが、勝った気はしなかった。ロゴスの胸には、退けたはずの申し出が、なお棘のように刺さっていた。


(あの男は、なぜあそこまで甘くした。塩を半値、鉄を絶やさず、兵まで出す。……痩せた谷一つを取り込むのに、割に合わぬほどの餌だ。網は損を嫌う。損を嫌う網が、これだけの物入りを申し出る。……ということは)


「なぜ、これほど甘い」ロゴスは、去った男の消えた谷の口を見据えて、低く呟いた。「この縄は――なぜ、こんなに甘いのか。甘さの分だけ、後ろに何かがある。庇護でも交易でもない、あの男が本当に谷にはめたい、何かが」


 西日が脱穀場を染め、置き去りにされた"よい話"の余韻が、風に混じって谷を撫でていった。ロゴスは、その甘さの正体を、まだ掴めずにいた。


(続く)


---


【今回の理論メモ】BATNA――交渉力は財ではなく「代わりの手」


 BATNAとは「Best Alternative To a Negotiated Agreement」、交渉がまとまらなかった時に取れる最善の代わりの手のことです。交渉の強さは、弁の立つ立たぬでも、財の多寡でもありません。「この話が駄目でも、自分には別の道がある」と言える――その代わりの手を持っているかどうかで決まります。


 なぜか。代わりの手が無ければ、どれほど悪い条件でも呑むしかないからです。コルヴスの一番鋭い一手は、品物ではなく「お前たちに他の道はない」という一言でした。相手のBATNAを「無い」と信じ込ませれば、あとはどんな縄でも首に掛けられる。これは現実の交渉で、最も多用される揺さぶりです。


 だから、交渉に臨む前にやるべきは、値切りの練習ではなく、自分のBATNAを育てておくことです。転職なら他社の内定、取引なら別の仕入れ先、独立なら食いつなぐ蓄え。「最悪、これで立てる」という代わりの手が一つあるだけで、相手の甘い誘いにも、脅しにも、折れずに済みます。ロゴスが折れなかったのは弁が立つからではなく、束という切り札と、頼らず冬を越せる仕組みを、前もって手の中に育てていたからでした。交渉力は、机に着く前に、もう決まっています。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


 コルヴスの"よい話"。塩は半値、鉄は絶えず、兵まで出す――旨い話ほど、断りにくい。

 でも交渉の強さは弁でも財でもなく、「代わりの手」を持っているか。ロゴスが折れずに済んだのは、この一年の積み重ねが、そのまま断る力になったからでした。


退けはした。けれど、なぜこんなに甘いのか。

次回、その甘さの正体――"囲い込み"の縄が、ほどけていきます。

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