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机上の空論と嗤われた研究者、異世界の寒村に転生する ~理屈だけで、国を獲ります~  作者: 鉄菊
エンポリア編

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第18話 種を貸す者

はじめまして。鉄菊と申します。

本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。

更新は毎日18時です!

なるべく続けていきます。

よろしければブックマークをお願いします!

久しぶりの、まっすぐな朝日だった。


 執務室の卓に、ロゴスは一枚の地図を広げていた。領地の北の端。細い川筋に沿って、身を寄せ合うように三つの村が記されている。半年のあいだ船底から静かに血を流していた、あの北の三村だ。上級バイリフとその手の者は、法に則って裁かれた。穴は塞いだ。


 だが、ロゴスは地図の三つの点をじっと見つめていた。


(――穴を塞いだだけでは、この村は痩せたままだ)


 彼は財務府から取り寄せた十年ぶんの収税の記録を、頭の中で繰っていた。北の三村の作付けは、年を追うごとに細っている。土が瘦せたのではない。順番が逆なのだ。村は貧しいから良い種籾を買えない。良い種を蒔けないから実りが薄い。実りが薄いから、冬にはその種籾さえ食い潰す。翌春、蒔く種がまた減る。


(貧しさが貧しさを呼んでいる。……この輪をどこかで断ち切らねば、いくら穴を塞いでも村はやがて枯れる)


 前世で読んだ、貧しい農村の経済を論じた書物の一節が脳裏をよぎった。悪循環は意志の弱さから生まれるのではない。多くは仕組みから生まれる。ならば断つべきは、村人の怠けではなく輪そのものだ。


 ロゴスは羽根ペンを取り、地図の隅に二つの字を書いた。


 ――種籾。


---


 その昼、ロゴスは財務官ガレアスと、財務の柱ニケ、裁定の柱セウェルスを執務室に呼んだ。


「北の三村に、府の穀倉から種籾を貸す」ロゴスは地図を指した。「良い種籾を、春の作付け前に貸し与える。村はそれを蒔き、秋に実りの中から返す。……これで痩せた輪を断つ」


 ガレアスの眉が深く寄った。


「――ロゴスどの。それはいけません」老財務官は静かに、しかしはっきりと首を振った。「せっかく船底の穴を塞いだばかりだ。そこへ府の穀倉を開けて、貧しい村に種籾を配る。……戻ってきますかな、それが。飢えれば、貸した種籾をその場で食う。凶作になれば返す実りがない。返せぬとなれば、取り立てるか目こぼすか。取り立てれば村は潰れ、目こぼせば府がまた血を流す。……穴を塞いだそばから、ご自身の手で新しい穴を開けるようなものだ」


 もっともらしい理屈だった。ニケもわずかに目を伏せた。


「それに」ガレアスは声を落とした。「あの三村は、つい先日まで横領の温床だった村ですぞ。罰したその舌の根も乾かぬうちに、褒美のように種籾を配れば、正直に納めてきた他の村はどう思いますかな。悪さをした村ほど得をする、と」


 ロゴスは慌てなかった。この反論は来ると解っていた。むしろ来なければ困る。


「ガレアスどの。ひとつ、区別をさせてください」ロゴスは静かに言った。「私が貸すのは"施し"ではない。"貸し"です。施しは返らない。だが貸しは、返る仕組みをこちらが作れる。……問題は、種籾を貸すか否かではない。どう貸せば返る形になるか。そこを設計するかどうかだ」


(――ばら撒くのは莫迦でもできる。難しいのは"返ってくるように"配ることだ)


---


 ロゴスは卓に、真新しい帳面の雛形を置いた。先の見える化で使った、あの帳面と同じ形だ。


「まず、貸す時期を春の作付け前に限る。冬に貸せば食われる。だが、蒔く直前に蒔くぶんだけ渡せば、食う暇はない。畑に埋めるしかない」


 セウェルスの鋭い目が光った。


「次に、返す形。十貸したら、秋に十二を返す。二割の上乗せです。……ですが、良い種籾は痩せた種の倍は実る。村人は十二を返してなお、これまでより手元に多く残る。返すほど村が豊かになる。損して返すのでは、誰も二度目は借りない。得して返せる形にしておく」


「連帯は?」セウェルスが問うた。


「村ごとに束ねる」ロゴスは頷いた。「一人が返せねば、村が少しずつ補う。その代わり村は、互いの畑を見張るようになる。怠けて実らせぬ者を、村自身が許さなくなる。……府が一軒一軒を見張るのではない。村が村を見張る形にする」


 ガレアスは腕を組み、黙って聞いていた。理屈は通っている。だが、その顔にはなお、拭いきれぬ懸念が残っていた。


「……よく練られておる。認めましょう」老財務官は、ようやく口を開いた。「だが、ロゴスどの。いかに練った策も、絵図は絵図だ。実際に村で回してみねば、どこで綻ぶかは誰にも分からぬ。もしこの策に、あなたの見落とした穴が一つでもあれば――北の三村と府の穀倉が、いっぺんに傾きますぞ」


 その瞬間、ロゴスの口の端がわずかに上がった。


「――ええ。だから」ロゴスは、地図の三つの点のうち、いちばん北の、いちばん小さな点を指で押さえた。「三村すべてにはやりません。まず、この一つの村――ドルンだけで試す」


 三人が顔を上げた。


「なぜ、一つだけです」ニケが問うた。「三村いっぺんにやれば、三倍早く豊かになります」


「そして、私の絵図に穴があれば」ロゴスは静かに返した。「三倍早く、三つとも潰れる。……ガレアスどのの言う通りだ。この策は、まだ私の頭の中にしかない。頭の中の絵図は、必ずどこかで現実と食い違う。どこが食い違うかは、机の上では決して分からない。畑に埋めてみて、初めて分かる」


(――だから小さく試す。一つの村で回して、綻びを見つける。綻びが分かれば直せる。直してから残る二村に広げる。……三つとも賭けて三つとも失うより、一つで学んで三つを確かに救う)


「ニケ」ロゴスは、いちばん若い柱に目をやった。「ドルンの村の作付けの広さ、蒔いた種籾の量、秋の実り、返ってきた量――その"途中"を一つ残らず、この帳面に書き取れ。何が絵図の通りに運び、何が食い違ったか。……数字で村を映すんだ」


「――承知しました」ニケの目に、あの、鷹のような光が戻っていた。


---


 春が過ぎ、夏が来て、麦が色づく頃。ロゴスは自ら馬を駆って、北のドルン村へ畑を見に行った。


 かつて老領主のもとで、二つの帳簿を突き合わせ、不正を暴いたときも、彼は机ではなく畑へ足を運んだ。数字は嘘をつく。だが、土は嘘をつかない。


 ドルンの畑は青々と実っていた。村の古老が涙ぐんで、若い領主の手を握った。こんなに穂の重い麦を見たのは何十年ぶりか、と。――だが、ロゴスの目は、村の一角の二つの畑に留まっていた。そこだけ穂がまばらだった。


「――この二軒は」ロゴスは、随行したニケの帳面を覗き込んだ。


「夏の初めの雹にやられた畑です」ニケが指でなぞった。「同じ種を蒔いても、運悪くこの二軒だけ実りが半分に。……このままだと、この二軒は十二を返せば、手元にほとんど残りません。下手をすれば、また返すために来年の種籾まで食う」


 ロゴスの中で、かちりと何かが噛み合った。


(――ここだ。ここが絵図の綻びだ)


 "十貸して、十二返す"。一律の二割。豊作の畑には痛くない。だが、運悪く不作だった畑には、それが首を絞める。三村いっぺんにこの一律で回していたら――雹に当たった畑は、どの村にも必ずいくつかあっただろう。そのすべてが来年の種を食い、翌年また痩せる。悪循環は断てなかった。


(小さく試して良かった。……一つの村だから、綻びが一つで済んだ)


「返す形を変える」ロゴスはその場で告げた。「一律の十二ではない。実った量に応じて返させる。豊作の畑は多く。不作の畑は少なく。……村が背負うのは、蒔いた種籾の"重さ"ではなく、天が与えた実りの"割合"だ。天災まで村人に背負わせはしない」


 その秋、ドルンの村は、貸された種籾をきちんと返した。雹に当たった二軒も割に応じて返し、来年の種を食わずに済んだ。そして村全体では、これまでの二年ぶんに近い麦が、村の蔵に残った。


 小さな、しかし確かな、一勝だった。


---


 勝報を携えて館へ戻ったロゴスを待っていたのは、しかし、祝いの声ばかりではなかった。


 ガレアスが一通の書状を手に、渋面で執務室に入ってきた。


「――ロゴスどの。喜んでばかりもおられませんぞ」老財務官は、書状を卓に置いた。「ドルンの村には、これまで種籾を貸していた者がおりました。ヴェルフ商会。……村人に法外な利で種籾を貸し付け、返せぬ者には畑を取り上げてきた。村が痩せるほど儲かる商いです。あなたが府の名で、安く正しく貸したことで――その商会は、いちばん美味い餌場を失った」


「……その、ヴェルフ商会は」ロゴスは静かに問うた。


「エンポリアのギルド支部に連なっております」


 ロゴスの背を、あの冷たいものが、また、するりと撫でた。


(――結界札の元締め。……村を痩せさせて食う輪の、その先に、いつもの影がいる)


「それだけではありません」ガレアスは声を落とした。「あなたが貧しい村に種籾を配り、村人の心を府へ手繰り寄せている――それを面白く思わぬ者が、古参にもおります。あの手この手で、"領主は平民の歓心を銭で買っている"と囁き始めた。……オズヴァルト卿の周りが、また、ざわつき始めた」


 ロゴスは、窓の外の夕暮れの街を見た。


「ロゴスどの」ガレアスの声が、ふと低くなった。「一つ、忘れてはなりませぬ。あなたが先代さまの跡目に立つ、その養子縁組の上申は――未だ王の裁可を得ておらぬ。今のあなたの座は正しい。だが、王の朱印で封をされてはおらぬのです。……村で勝てば勝つほど、その勝ちを妬む者が、あなたの、まだ封のされておらぬその一点を突いてくる」


 沈黙が部屋に落ちた。


 ロゴスは、卓の上のドルン村の帳面に目を落とした。青々とした麦の確かな一勝が、そこに数字で記されている。だが、その一勝の裏で、村を痩せさせて食っていた者たちの細い糸が、静かに寄り合い始めていた。ギルド支部。古参貴族。そして――まだ王の封のされていない、自分の座。


(――攻めれば、必ず敵ができる。正しいことをするほど、都合の悪い者が出てくる)


 いつか森の外れで、セレナが言った言葉が、遠くこだました。


(……いいだろう。輪を断つ手は緩めない。だが、寄り合う影のほうも――そろそろ、こちらから見てやらねばならないな)


 夕日が、街の屋根を赤く染めていた。ドルンの畑の、あの重い穂と同じ色だった。


(続く)


---


【今回の理論メモ】PDCA――「試す」は、臆病ではなく、いちばん賢い攻め方


 良い策を思いついたとき、人はつい、一気に全部に広げたくなります。ロゴスの北の三村も、三つ同時にやれば三倍早く豊かになるはずでした。ですが、彼はあえて一つの村だけで試しました。これが「PDCA」の考え方です。Plan(計画)=返る仕組みを設計し、Do(実行)=まず小さく回し、Check(検証)=数字で綻びを見つけ、Act(改善)=直してから広げる。この輪を、ぐるぐる回していく手法です。


 肝は、Doを「小さく」やること。どんなに練った絵図も、机の上では完璧に見えて、必ずどこかで現実と食い違います。ロゴスの「一律の返済」も、雹という現実に当たって、初めて綻びが見えました。もし三村いっぺんに賭けていたら、その綻びは三村ぶんの被害になっていた。一つで試したから、綻びも一つで済み、直してから広げられた。「小さく試す」のは、臆病だからではありません。いちばん確実に、大きく勝つための賢い攻め方なのです。


 現実の仕事でも同じです。新しいやり方をいきなり全部署へ展開すれば、失敗も全社に広がります。まず一つのチーム、一つの店舗、一週間だけ――小さく回して、数字で確かめ、直してから広げる。「やってみて、測って、直す」。この地味な輪を回せる人と、絵図のまま突っ走る人の差は、時が経つほど、取り返しのつかない開きになります。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

守りを固めたロゴスが、いよいよ"攻め"に転じる回です。

舞台は、半年の出血の現場となった、痩せた北の三村。ロゴスが選んだ攻め手は、罰でも施しでもなく、「種籾を貸す」ことでした。ここで大事にしたのは、二つの背骨です。一つは「制度設計」――ばら撒くのは莫迦でもできる、難しいのは"返ってくるように"配ることだ、というロゴスの一言に、すべてが詰まっています。貸す時期、返す割合、村ごとの連帯。返すほど村が豊かになる形に、あらかじめ組んでおく。これが施しと貸しを分ける一線です。


もう一つが、今回の主役「PDCA」。三村いっぺんにやれば三倍早い。それでもロゴスは、いちばん痩せたドルン村ひとつで試しました。そして案の定、"一律の返済"という綻びが、雹という現実に当たって露わになる。小さく試したからこそ、綻びも小さく、直してから広げられた。「試す」は臆病ではなく、いちばん確実に大きく勝つ攻め方だ――ロゴスの統治が、机上の絵図から、地に足のついた"回る仕組み"へと育っていく回でした。


そして、青々とした麦の一勝の裏で、新しい影が芽吹きます。村を痩せさせて食っていた種籾の貸し手・ヴェルフ商会。その糸の先には、やはり、あのギルド支部が。加えて、"平民の歓心を銭で買っている"と囁き始める古参と、まだ王の裁可を得ていない養子縁組の上申――。正しいことをするほど、都合の悪い者が出てくる。かつてセレナが遺した言葉が、静かに、こだまし始めました。次回、第19話。ギルド支部と古参貴族――バラバラだった敵意が、一つに寄り合っていきます。ロゴスの栄光に、初めて、明確な影が差す回です。どうぞお付き合いください。感想・ブックマーク・評価が、次を書く大きな力になります!

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