第10話 畑を見に行く者
はじめまして。鉄菊と申します。
本作は「机上の空論」と嗤われ続けた経営学者が、異世界の弱小領地に転生し、誰も知らない”理屈”だけで成り上がっていく物語です。
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広い広間に、老いた領主と、一人の子供だけが残されていた。
アウレリウスは、樫の椅子に浅く腰を戻し、痩せた指を組んだ。その目は、もう、先ほどまでの硬さを失っている。だが、甘さもなかった。
「ロゴス。そなたは、わしの領地が病んでいる、と言った。そして、その証も、この目に突きつけた。――みごとだ」
老人は、静かに続けた。
「だが、病を言い当てるだけの者なら、街の噂好きにもおる。わしが知りたいのは、その先だ。――では、どうすればよい。そなたに、その"薬"があるのか。それとも、ただ、わしの傷口を指さしに来ただけか」
試されている、とロゴスは思った。
(当然だ。批判は誰にでもできる。この人が見たいのは、直せるのか、だ)
ロゴスは、まっすぐに老領主を見返した。震えは、もう止まっていた。
「あります。ですが、その前に――領主さま。一つ、思い出していただきたいのです。ガレアスさまは先ほど、こうおっしゃいました。『帳簿は、一枚残らずこの私が検めておる』と」
「うむ。あれは、嘘ではあるまい。ガレアスは、そういう男だ」
「はい。おそらく、本当に検めておいでです。――そこが、落とし穴なのです」
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「よろしいですか」ロゴスは、指を一本立てた。「一枚の帳簿を、どれだけ念入りに検めても、その帳簿の"数字そのもの"が偽りなら、間違いは決して見つかりません。念入りに検めるほど、『間違いはなかった』と安心してしまう。――検める、とは、同じ紙を睨むことではないのです」
「……では、どうせよと」
「二つ、用意するのです。**利害の違う、二つの記録を**」
ロゴスは、息を継いだ。前世で、いやというほど繰り返した理屈だった。人は、自分に都合の悪い数字は、書かない。ならば――
「たとえば。ギルドが『この村へ結界札を何枚売った』と届け出た記録。これは、財務府にございますね」
「ある。札の商いには、そのつど届出がいる」
「もう一つ。その村から、バイリフが『札の代金として何枚分の銭を集めた』と上げてきた収税の記録。これも、ございます」
「……当然、ある」
「この二つは、本来、ぴたりと合うはずです。売った札の枚数と、集めた代金の枚数。ところが――この二枚を、これまで一度でも、**並べて突き合わせた**ことは、ございますか」
アウレリウスの動きが、止まった。
「札の届出は、ギルドが出す。収税の記録は、バイリフが上げる。どちらも別の手が書いた、別の帳簿。ガレアスさまは、その一枚一枚を、丁寧に検めてこられた。――ですが、"別々に"検めていたなら、二つの数字のあいだにできた隙間は、決して見えません。畑を見に行くとは、そういうことです。鎌を握る当人の報告を、鎌を持たぬ者の記録と、突き合わせる。それだけで、隙間は、ひとりでに姿を現します」
老領主は、しばらく沈黙し、それから、低く命じた。
「――ガレアスを、呼び戻せ」
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財務官ガレアスは、憤然とした足取りで広間へ戻ってきた。だが、領主の前に積まれた二種の帳簿を見て、その顔から、みるみる余裕が消えていった。
「ガレアス」アウレリウスの声は静かだった。「北の三村ぶん。ギルドの札の届出と、そなたが検めた収税の記録。――両の数字を、読み上げよ」
「……は。しかし領主さま、これは別々の帳簿で、突き合わせるようなものでは――」
「読み上げよ」
ガレアスは、こわばった指で頁をめくった。そして、二つの数字を口にした瞬間、彼自身が、言葉を失った。
届け出られた札の枚数。集められたはずの代金。――その二つには、一冬を越せる村がいくつも買えるほどの、隙間があった。
「……そんな、馬鹿な」ガレアスの声が、掠れた。「私は、収税の帳簿は、一枚残らず検めた。数字は、すべて合っていた。合っていたのだ……!」
「合っていたはずです」ロゴスは、静かに言った。「バイリフたちが上げてきた帳簿の"中"では、すべて辻褄が合っていた。彼らは、集めた銭の一部を抜き、抜いたぶんだけ、届出のほうを低く書き換えて、辻褄を合わせていた。だから、収税の帳簿だけを何度検めても、綻びは出ない。――綻びは、"別の手が書いた帳簿"と並べたときにだけ、現れるのです」
ガレアスは、崩れるように、その場に膝をついた。二十年、自分が誠実に検めてきたと信じていた数字。その足元が、まるごと偽りだったのだ。
「……私は、欺かれていた、と申すのか。あの者たちに」
「はい」ロゴスは、容赦なく、しかし静かに、頷いた。「あなたさまは、私腹を肥やしていたのではない。ただ、部下を信じ、"同じ紙"だけを検め続けていた。――それが、いちばん、たちの悪い隙だったのです」
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沈黙の中、ロゴスは、ふと引っかかりを覚えた。
「ガレアスさま。一つ、伺います。その札の収税を担っていたバイリフたちは――もとから、この領地の者ですか」
ガレアスは、青ざめた顔を上げた。
「……いや。札にまつわる収税は、数年前、王命によって新たに設けられた仕組みだ。担い手は、都から差し向けられた者たち。ギルドは、国の直轄。そこから、人が派遣されてくる。……財務府は、"あの仕組みには手を触れるな"と、上から達しがあった。だから私は、あの帳簿だけは、疑うことすら――」
ロゴスの背筋を、冷たいものが走った。
(王命。数年前。国直轄のギルドから、派遣された者たち。――財務府にすら、触れさせない)
それは、一人の欲深いバイリフが村を絞っている、という話では、なかった。もっと大きな、もっと上の――国そのものの奥から伸びてきた、太い根。あの森の施設と、瓦礫の影で見た顔が、ちらりと脳裏をかすめた。だが、それを繋ぐ糸は、まだ、あまりに遠い。
……森の、あの施設のこと。ロゴスは、まだ、それを領主に告げていなかった。村を出るとき村長ゲオルグから託された上申状には、札のことと並べて、施設と魔物のことも記してある。だが、あの上申状は、庁舎の窓口で、書類の山の底に沈んだままだ。
(――今は、それでいい)
もし、あの施設が、この"王命の仕組み"と同じ根から生えているのなら。それを、国に忠実な領主へ、この壁の内側で軽々しく口にするのは、あまりに危うい。どこで、誰の耳へ流れるか、わからないのだ。握りつぶされた上申状は、皮肉にも、ロゴスのいちばん危険な手札を、人目から隠してくれていた。
ロゴスは、その悪寒を、そっと胸の奥に納めた。今日は、まだ、その糸を手繰るときではない。
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アウレリウスは、膝をついたガレアスを見下ろし、それから、目の前の子供へと、視線を移した。
老いた領主は、ゆっくりと立ち上がると、玉座を降り、ロゴスの前に立った。
「ロゴス。そなたは、わしの二十年の忠臣が見抜けなかったものを、半刻で暴いてみせた。しかも、誰かを罰するためではなく、"仕組み"を直すために、な」
その声には、驚きと、それを上回る、静かな渇望があった。
「わしは、長く、良き領主であろうと努めてきた。だが、良き心だけでは、この目詰まりは、防げなかった。わしに足りなかったのは――そなたのような、"畑を見に行く目"だ」
アウレリウスは、痩せた手を、ロゴスの肩に置いた。
「わしのそばで仕えよ。この老いぼれの目となり、耳となれ。……腐った根を、一緒に掘り起こしてくれ」
ロゴスは、一瞬、言葉に詰まった。剣も魔法も味方もない、たった一人でこの城壁の中へ踏み込んだ子供に、この地方一の領主が、頭を垂れるようにして、席を差し出している。
だが――ロゴスは、まだ、村の子だった。父ダリオが、母エマが、村長ゲオルグが、報せを待っている。上申を届けたら村へ帰る。それが、送り出された者の務めだ。
「……ありがたきお言葉です。ですが、私は、村から遣わされた身。一度、村へ戻り、皆と相談を――」
「戻して、二度と寄越さぬつもりであろう」
アウレリウスは、穏やかに、しかし有無を言わせぬ声で、ロゴスの言葉を遮った。老いた目の奥に、名君の慈愛とは別の、統べる者の光が、ちらりと差す。
「案ずるな。無理に攫おうというのではない。――ルーメン村の村長と、そなたの父母には、わしから書簡を送る。『領主アウレリウスが、そなたの子を、ぜひ手元で育てたい』とな」
ロゴスは、息を呑んだ。それが何を意味するか、すぐに解った。領主直々の"願い"は、辺境の一村にとって、断れる類のものではない。村長も、両親も、領主の望みとあらば、頭を垂れて差し出すしかない。慈愛のかたちを借りた、逃れようのない下命だった。
(――そうか。この人は、欲しいものは、必ず手に入れる人だ)
温厚なだけの領主ではない。善良で、賢く、そして、望んだものは静かに囲い込む。ロゴスは、この老人の底の見えなさに、うっすらと寒気を覚えた。だが同時に、奇妙な高揚もあった。ここには、学ぶべきものが、山ほどある。
「――謹んで、お受けいたします」
半ば強いられ、半ば望んで、ロゴスは膝を折った。こうして辺境の村の子は、領主アウレリウスの近侍――そのいちばん近くで仕える者となった。
アウレリウスは、初めて、老人らしい柔らかな笑みを見せた。だが、その笑みの奥に、ロゴスは、ふと、別の色を見た気がした。渇望でも、喜びでもない。どこか、時間に追われている者の――焦りにも似た、何か。
(この人は、何かを、急いでいる)
その正体を、ロゴスがまだ知らぬまま、商都エンポリアでの、新しい日々が始まろうとしていた。
(続く)
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【今回の理論メモ】独立した検証と、情報経路の複線化
前回は「代理人が都合の悪い情報を握りつぶす」という目詰まりを見ました。今回は、その"直し方"です。ポイントは一つ。利益を得る当人からの報告を、単独で信じないこと。
一枚の帳簿をどれだけ丁寧に検めても、その数字自体が作られたものなら、間違いは絶対に出てきません。むしろ「念入りに見たから大丈夫」と、かえって安心してしまう。ガレアスの失敗は、まさにこれでした。誠実に、しかし"同じ紙だけ"を検め続けていたのです。
有効なのは、利害の異なる、二つ以上の独立した記録を突き合わせること。売った側の記録と、集めた側の記録。現場の数字と、机上の数字。書いた手が違い、得をする相手が違えば、不正のつじつまは、その"隙間"に必ず現れます。これは監査や内部統制の基本であると同時に、仕事のあらゆる場面に効きます。一つの報告ルート、一人の担当者、一枚のレポートに依存しないこと。「畑を見に行く目」――利害のない第二の目を、仕組みとして持っておくことが、組織を欺瞞から守ります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます! 舌戦の後半、いよいよ決着の回です。
前回、領主アウレリウスを「病の診断」で唸らせたロゴス。ですが賢明な領主は、それだけでは動きません。「批判は誰でもできる。直せるのか?」と、さらに一段、ロゴスを試します。そこでロゴスが示した"薬"――利害の違う二つの帳簿を突き合わせる――が、その場で思わぬ真実を暴きます。私腹を肥やす黒幕に見えた財務官ガレアスが、実は末端のバイリフたちに欺かれていた側だった、という反転です。「悪人が一人いる」のではなく、「仕組みそのものが人を盲目にする」。この作品の背骨を、ここで一番くっきり出したかった回です。
そして、その札の収税が「数年前、王命で新設され、国直轄のギルドから派遣された者たちが握り、財務府にすら触れさせない特別な仕組み」だった、という一点。ロゴスの背筋を撫でたこの冷たさの正体は――まだ、伏せておきます。糸の先に何がいるのかは、彼が本当に高い場所へ昇ったとき、明かされます。
なお、ロゴスはこの場で二つ返事の家来になったわけではありません。村へ帰ろうとするロゴスを領主は逃さず、村長と両親へ「子を手元で育てたい」と書簡を送る――辺境の村が断れるはずもない"願い"の形で、半ば強引に囲い込みます。善良なだけの名君ではない、というアウレリウスのもう一つの顔を、ここで覗かせました。
そしてもう一つ。ロゴスが村から携えてきた上申状には、実は結界札だけでなく、あの"森の施設と魔物"のことも記されていました。ですがそれは庁舎の窓口で握りつぶされたまま。今回、王命がらみの縦軸に触れたロゴスは、あえてその件を領主に告げません。施設が同じ根から生えているのなら、国に忠実な領主の耳へ軽々しく入れるのは危険すぎる――握りつぶされた上申状が、皮肉にも彼のいちばん危険な手札を隠してくれた、という形で回収しました。施設の真相は、縦軸(王命の最高責任者は誰か)とともに、ロゴスが本当に高い場所へ昇るときに繋がります。
こうしてロゴスは、領主アウレリウスの近侍となりました。次回からは、いよいよ英才教育編。剣も魔法もからきしの少年が、どう化けていくのか。どうぞお付き合いください。感想・ブックマーク・評価が、何よりの励みになります!




