縫い跡の向こう——三つの杭
出発は夜明け前だった。
理由は単純だ。
人の気配が薄い時間帯なら、名を呼ばれる危険が少ない。声が減れば、返事という契約も減る。光が弱いなら、裂け目の向こう側の“影”も、こちらを見つけにくい——そう信じたかった。
小隊は七名。
隊長一名、札師二名、斥候二名、荷持ち一名、そして——少年。
師は小隊に加わらなかった。加われないのではない。加われば支点が重くなる。師の代償が、門の要求とぶつかる。
師は出発前、少年の前に立った。
呼び名は使わない。名は言わない。
けれど視線だけは、名より深く刺さった。
「……符号を決める」
師は言い、短い札を七枚、地面に並べた。
札には文字が書かれていない。文字は食われる。だから刻印だ。点と線の記号。
師はそれを一枚ずつ指でなぞり、順番を示した。
この順番が、生存の順番になる。
この順番が、誰が先に名を失うかの順番になる——そんな考えが胸を刺した。
「声を出すな。返事をするな」
師の言葉は、もう作戦ではなく祈りだった。
祈りの形をした命令ほど、重いものはない。
隊長が頷き、手で合図を出す。
小隊は縫い跡へ向かった。
裂け目の縫い跡は、夜明け前の薄闇の中で銀色に光っていた。
焚き火の光ではない。月でもない。
縫い跡そのものが、光を持っている。境界線が“傷”として光っている。
縫い跡の手前で、隊長が手を上げる。
止まれ。
小隊は止まる。息が揃う。揃った息が、怖いほど大きく聞こえる。
隊長が地面を指した。
そこに、杭を立てる跡が三つあった。
三角形。等間隔。
まるで、ずっと前から“立てられるのを待っていた”みたいに、土が僅かに凹んでいる。
——三つの杭。
昨夜の声が残した単語が、現実になる。
少年の指先の線が、ひやりと冷えた。
札師が荷から杭を三本取り出した。
杭は普通の木ではない。表面に薄い銀糸が巻かれ、触れると冷たい。
結界の糸ではない。門の糸。道を開く糸。
隊長が目配せをし、札師が膝をつく。
杭を打つ役。
支点を置く役。
——名を差し出す役。
少年の胸の奥がきしむ。
違う。違う。名を差し出すと決めたわけじゃない。
杭を立てるだけだ。道を作るだけだ。
そう言い聞かせるほど、言い聞かせが“契約の言葉”に近づく気がした。
一本目の杭が、地面へ打ち込まれる。
……音がしない。
木槌で叩けば音は出るはずだ。
だが、叩いた瞬間に音がほどけ、空気に吸われ、無かったことになる。
耳が痛い。痛いのは音が大きいからじゃない。音が“抜ける”からだ。
杭が半分ほど入ったところで、縫い跡が震えた。
銀線が波打つ。
波打った中心から、薄い暗さが滲む。暗さは色ではない。色が欠けている。
隊長が手で合図する。
続けろ。止まるな。
二本目。
杭が入るにつれて、空気が薄くなる。
薄くなるほど、心臓の音が大きくなる。心臓の音が大きいほど、名を呼ばれたときに返事をしたくなる。
返事は契約。
契約は門。
門は名。
少年は唇を噛んだ。血の味で現実を固定する。
支点を胸に置け。杭を胸に打て。
三本目。
杭が地面に食い込む瞬間、縫い跡の向こう側が“こちら側”へ少しだけ開いた。
開くというより、覗く。
覗いた暗さの奥に、何かがいる。目はない。だが見ている。
名を持たない視線が、名を持つ者をなぞる。
そのとき——骨の内側に声が落ちた。
「……——……」
意味のない囁き。
意味がないのに、理解したくなる囁き。
理解が契約になる声。
札師の肩が震えた。
震えは恐怖ではない。喉が動く震えだ。返事をしたい震えだ。
隊長が素早く札師の口元を押さえる。乱暴ではない。必死だ。
声が、形を持ち始める。
「——名を」
名。
少年の指先の線が、じわりと動いた。
線が文字になりかける。文字になりかけた瞬間、喉が勝手に動く。
名を言って、自分が自分だと確かめたい衝動が、胸の奥から湧く。
——違う。
少年は胸の杭を打つ。
守りたいものを思い出す。師の手の温もり。宿帳の革の手触り。師の「やったな」。
その思いが支点になる。揺らぐな。揺らげば裂ける。
三本の杭が、同時に淡く光った。
光は広がらない。内側へ沈む。沈んだ光が、縫い跡の銀線に吸い込まれる。
縫い跡が、ゆっくりと開いた。
開いた向こう側には、道がなかった。
道がないのに、そこに“通れる感覚”だけがある。
踏み出せば落ちる。落ちるのに、落ちる先が決まっている。
それが門だ。
隊長が手で合図を出す。
順番に行け。
声を出すな。
目を逸らすな。
息を乱すな。
一人目が、縫い跡をまたぐ。
またいだ瞬間、身体の輪郭が薄くなった。
薄くなったのに、消えない。
消えない代わりに、“何か”が一枚削られる。
二人目。
三人目。
四人目がまたぐとき、札師が小さく呻いた。
口元は塞がれているのに、声が漏れる。
呻きは返事ではない。返事ではないはずなのに、門はそれを“返事”として受け取ろうとする気配がした。
縫い跡の銀線が、ぴくりと跳ねる。
跳ねた瞬間、札師の札——無文字の札の刻印が、薄く欠けた。点がひとつ消える。
消えた点は“名前”ではない。だが名前に繋がる符号だ。
符号が欠ければ、誰が誰かわからなくなる。
隊長が低く息を吐き、手で合図する。
急げ。
門が要求を始めている。
少年の番が来た。
縫い跡の前に立つと、暗さが“こちら”へ寄ってくるのがわかった。
寄ってきて、少年の胸の杭を舐める。
舐められた瞬間、胸の奥がひやりとする。支点が揺れそうになる。
少年は呼吸を整えた。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
その型が、杭を固定する。
少年は一歩を出した。
縫い跡をまたいだ瞬間——世界の音が、一段階遠のいた。
遠のいたのに、静かではない。むしろ騒がしい。
自分の心臓の音、自分の血の流れ、自分の喉の動き。内側の音だけが肥大する。
そして、何かが“抜ける”。
抜けたものが何か、少年にはすぐにはわからなかった。
わからないのに、わからないことが怖い。
怖いことが、門の餌になる。
少年は視線を前に固定した。
門の向こう側は、森に似ていた。
似ているだけで、別物だった。木の形が少しだけ違う。葉の色が少しだけ薄い。地面の砂が黒い。
全てが“少しだけ欠けている”。それが外だ。
隊長が合図を出し、全員が揃う。
揃った瞬間、背後の縫い跡が、すうっと閉じた。
閉じる音はない。閉じたという事実だけが残る。
小隊の誰も声を出さなかった。
出したら、外が返事を求める。返事は契約。契約は門。門は名。
少年は手を見た。
指先の線が、先ほどより濃い。
濃い線は、文字の輪郭に近づいている。
——名が、形になりかけている。形になったら、奪われる。
隊長が手で合図し、進む。
外は歩ける。歩けることが、逆に恐ろしい。
恐ろしいほど、ここは“こちら側に似ている”。似ているから、油断してしまう。油断した瞬間、名を呼んでしまう。
森の奥で、何かが光った。
銀糸の光ではない。
焚き火の光でもない。
もっと冷たい光。目の奥を刺す光。
隊長が止まれの合図を出す。
斥候が膝をつき、地面の砂を指でなぞる。
砂の上に、足跡があった。
人の足跡。
しかも、たった今ついた足跡だ。
……ここに誰かがいる。
隊長が首を振り、合図する。
声を出すな。
追跡の準備。
少年は、足跡の先を見た。
木々の間に、薄い影が立っている。
人の形に見える。見えるだけで、輪郭が不安定だ。
影が、こちらを見ている。
影が口を開いた。
音はない。
だが骨の内側に、言葉が落ちる。
「……来たな」
そして影は、続けた。
“戦友”を名乗った声に、似た声で。
「門を、開いたな。……次は、唯一の名だ」
少年の喉が勝手に動いた。
返事をしたくなる。
名を確かめたくなる。
隊長が合図を出す。
引くな。構えろ。
名を守れ。支点を落とすな。
少年は胸の杭に手を当て、声にならない声を握りしめた。
——奪われる前に、刻む。
刻む場所は、外ではない。
外に刻めば、外に渡る。
刻むなら——内側の支点に。
影が一歩、近づいた。
近づくほど、森の色がさらに薄くなる。
世界が、名を欲しがっている。




