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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第2章 結界——愛の形が型になる

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縫い跡の向こう——三つの杭

出発は夜明け前だった。


理由は単純だ。

人の気配が薄い時間帯なら、名を呼ばれる危険が少ない。声が減れば、返事という契約も減る。光が弱いなら、裂け目の向こう側の“影”も、こちらを見つけにくい——そう信じたかった。


小隊は七名。

隊長一名、札師二名、斥候二名、荷持ち一名、そして——少年。

師は小隊に加わらなかった。加われないのではない。加われば支点が重くなる。師の代償が、門の要求とぶつかる。


師は出発前、少年の前に立った。

呼び名は使わない。名は言わない。

けれど視線だけは、名より深く刺さった。


「……符号を決める」


師は言い、短い札を七枚、地面に並べた。

札には文字が書かれていない。文字は食われる。だから刻印だ。点と線の記号。

師はそれを一枚ずつ指でなぞり、順番を示した。


この順番が、生存の順番になる。

この順番が、誰が先に名を失うかの順番になる——そんな考えが胸を刺した。


「声を出すな。返事をするな」


師の言葉は、もう作戦ではなく祈りだった。

祈りの形をした命令ほど、重いものはない。


隊長が頷き、手で合図を出す。

小隊は縫い跡へ向かった。


裂け目の縫い跡は、夜明け前の薄闇の中で銀色に光っていた。

焚き火の光ではない。月でもない。

縫い跡そのものが、光を持っている。境界線が“傷”として光っている。


縫い跡の手前で、隊長が手を上げる。

止まれ。

小隊は止まる。息が揃う。揃った息が、怖いほど大きく聞こえる。


隊長が地面を指した。


そこに、杭を立てる跡が三つあった。

三角形。等間隔。

まるで、ずっと前から“立てられるのを待っていた”みたいに、土が僅かに凹んでいる。


——三つの杭。


昨夜の声が残した単語が、現実になる。

少年の指先の線が、ひやりと冷えた。


札師が荷から杭を三本取り出した。

杭は普通の木ではない。表面に薄い銀糸が巻かれ、触れると冷たい。

結界の糸ではない。門の糸。道を開く糸。


隊長が目配せをし、札師が膝をつく。

杭を打つ役。

支点を置く役。

——名を差し出す役。


少年の胸の奥がきしむ。

違う。違う。名を差し出すと決めたわけじゃない。

杭を立てるだけだ。道を作るだけだ。

そう言い聞かせるほど、言い聞かせが“契約の言葉”に近づく気がした。


一本目の杭が、地面へ打ち込まれる。


……音がしない。


木槌で叩けば音は出るはずだ。

だが、叩いた瞬間に音がほどけ、空気に吸われ、無かったことになる。

耳が痛い。痛いのは音が大きいからじゃない。音が“抜ける”からだ。


杭が半分ほど入ったところで、縫い跡が震えた。

銀線が波打つ。

波打った中心から、薄い暗さが滲む。暗さは色ではない。色が欠けている。


隊長が手で合図する。

続けろ。止まるな。


二本目。


杭が入るにつれて、空気が薄くなる。

薄くなるほど、心臓の音が大きくなる。心臓の音が大きいほど、名を呼ばれたときに返事をしたくなる。

返事は契約。

契約は門。

門は名。


少年は唇を噛んだ。血の味で現実を固定する。

支点を胸に置け。杭を胸に打て。


三本目。


杭が地面に食い込む瞬間、縫い跡の向こう側が“こちら側”へ少しだけ開いた。

開くというより、覗く。

覗いた暗さの奥に、何かがいる。目はない。だが見ている。

名を持たない視線が、名を持つ者をなぞる。


そのとき——骨の内側に声が落ちた。


「……——……」


意味のない囁き。

意味がないのに、理解したくなる囁き。

理解が契約になる声。


札師の肩が震えた。

震えは恐怖ではない。喉が動く震えだ。返事をしたい震えだ。

隊長が素早く札師の口元を押さえる。乱暴ではない。必死だ。


声が、形を持ち始める。


「——名を」


名。


少年の指先の線が、じわりと動いた。

線が文字になりかける。文字になりかけた瞬間、喉が勝手に動く。

名を言って、自分が自分だと確かめたい衝動が、胸の奥から湧く。


——違う。


少年は胸の杭を打つ。

守りたいものを思い出す。師の手の温もり。宿帳の革の手触り。師の「やったな」。

その思いが支点になる。揺らぐな。揺らげば裂ける。


三本の杭が、同時に淡く光った。

光は広がらない。内側へ沈む。沈んだ光が、縫い跡の銀線に吸い込まれる。


縫い跡が、ゆっくりと開いた。


開いた向こう側には、道がなかった。

道がないのに、そこに“通れる感覚”だけがある。

踏み出せば落ちる。落ちるのに、落ちる先が決まっている。

それが門だ。


隊長が手で合図を出す。

順番に行け。

声を出すな。

目を逸らすな。

息を乱すな。


一人目が、縫い跡をまたぐ。


またいだ瞬間、身体の輪郭が薄くなった。

薄くなったのに、消えない。

消えない代わりに、“何か”が一枚削られる。


二人目。


三人目。


四人目がまたぐとき、札師が小さく呻いた。

口元は塞がれているのに、声が漏れる。

呻きは返事ではない。返事ではないはずなのに、門はそれを“返事”として受け取ろうとする気配がした。


縫い跡の銀線が、ぴくりと跳ねる。

跳ねた瞬間、札師の札——無文字の札の刻印が、薄く欠けた。点がひとつ消える。

消えた点は“名前”ではない。だが名前に繋がる符号だ。

符号が欠ければ、誰が誰かわからなくなる。


隊長が低く息を吐き、手で合図する。

急げ。

門が要求を始めている。


少年の番が来た。


縫い跡の前に立つと、暗さが“こちら”へ寄ってくるのがわかった。

寄ってきて、少年の胸の杭を舐める。

舐められた瞬間、胸の奥がひやりとする。支点が揺れそうになる。


少年は呼吸を整えた。

吸って、吐く。

吸って、吐く。

その型が、杭を固定する。


少年は一歩を出した。


縫い跡をまたいだ瞬間——世界の音が、一段階遠のいた。

遠のいたのに、静かではない。むしろ騒がしい。

自分の心臓の音、自分の血の流れ、自分の喉の動き。内側の音だけが肥大する。


そして、何かが“抜ける”。


抜けたものが何か、少年にはすぐにはわからなかった。

わからないのに、わからないことが怖い。

怖いことが、門の餌になる。


少年は視線を前に固定した。


門の向こう側は、森に似ていた。

似ているだけで、別物だった。木の形が少しだけ違う。葉の色が少しだけ薄い。地面の砂が黒い。

全てが“少しだけ欠けている”。それが外だ。


隊長が合図を出し、全員が揃う。

揃った瞬間、背後の縫い跡が、すうっと閉じた。

閉じる音はない。閉じたという事実だけが残る。


小隊の誰も声を出さなかった。

出したら、外が返事を求める。返事は契約。契約は門。門は名。


少年は手を見た。

指先の線が、先ほどより濃い。

濃い線は、文字の輪郭に近づいている。

——名が、形になりかけている。形になったら、奪われる。


隊長が手で合図し、進む。

外は歩ける。歩けることが、逆に恐ろしい。

恐ろしいほど、ここは“こちら側に似ている”。似ているから、油断してしまう。油断した瞬間、名を呼んでしまう。


森の奥で、何かが光った。


銀糸の光ではない。

焚き火の光でもない。

もっと冷たい光。目の奥を刺す光。


隊長が止まれの合図を出す。

斥候が膝をつき、地面の砂を指でなぞる。


砂の上に、足跡があった。


人の足跡。

しかも、たった今ついた足跡だ。


……ここに誰かがいる。


隊長が首を振り、合図する。

声を出すな。

追跡の準備。


少年は、足跡の先を見た。

木々の間に、薄い影が立っている。

人の形に見える。見えるだけで、輪郭が不安定だ。

影が、こちらを見ている。


影が口を開いた。


音はない。

だが骨の内側に、言葉が落ちる。


「……来たな」


そして影は、続けた。

“戦友”を名乗った声に、似た声で。


「門を、開いたな。……次は、唯一の名だ」


少年の喉が勝手に動いた。

返事をしたくなる。

名を確かめたくなる。


隊長が合図を出す。

引くな。構えろ。

名を守れ。支点を落とすな。


少年は胸の杭に手を当て、声にならない声を握りしめた。


——奪われる前に、刻む。


刻む場所は、外ではない。

外に刻めば、外に渡る。

刻むなら——内側の支点に。


影が一歩、近づいた。

近づくほど、森の色がさらに薄くなる。

世界が、名を欲しがっている。

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