門——名を差し出す場所
門の場所は、地図にはなかった。
そもそも地図は“内側”のために作られている。境界の外は空白だ。空白は未知ではなく、記録できない領域——名と意味が削られる領域だ。
師は隊長たちを再び集め、最小限の言葉で指示を出した。
「縫い跡を維持しながら、北の縁を三日もたせる」
「外へ出るのは小隊。荷は軽く。声は出すな」
「札は使い捨て。食われる前に切り離す」
「返事をするな。名を言うな。名を書け」
最後の言葉だけが、矛盾していた。
言うな。書け。——どちらも名を扱う行為だ。扱わねば進めない。扱えば刃になる。
隊長たちが散り、焚き火が落ち着くころ、師は少年を呼んだ。呼んだ、というのは正確ではない。呼び名を使わずに、視線だけで合図をした。
少年は頷き、師の帳へ入る。
帳の中は暗い。明かりを強くすると、影が濃くなりすぎる。影が濃くなると、“外”が近づく気がした。
師は封筒を取り出し、鍵に触れ、触れて止めた。
止めた指が、わずかに震えている。
「……おまえの支点は、強い」
師が言った。
褒め言葉の形をしているのに、そこには怖れが混じっている。強い支点ほど、要求される。門が開くなら、支点は代償になる。
少年は言葉を探し、短く答えた。
「師匠が、教えてくれたからです」
師の眉が動いた。
“教えてくれた”という過去形が、また刺さる。師の中の何かが欠けていく速度を、少年は毎日見てしまう。
師は息を吸い、吐き、言った。
「支点を貸すな」
少年は一瞬、耳を疑った。
「……さっき、封印を解くとき——」
「だから言う。貸すな。……門は、支点を食う」
師の声が低い。低いほど、本気だ。
師は少年の指先を見た。少年の指先に浮かんだ“見慣れない線”。文字になりかけた痕。抜け始め。
少年は手を握りしめた。
隠しても無駄だ。師は見ている。見ていて、怖れている。
「もう……始まってる」
師が言う。
それは断言ではない。確信だ。
少年の喉が痛くなる。
始まっているなら止めなければならない。だが止める方法は“門を閉じる”ことだ。門を閉じるには核を断つしかない。核を断つには外へ出るしかない。外へ出るには門が必要だ。門は名を要求する。
堂々巡りの輪が、胸の奥で回る。
輪が回るほど、支点が揺れる。
そのとき——帳の外で、風が止んだ。
止んだ瞬間がわかった。
風は止むものだ。だがこれは違う。止むのではなく、音が“抜ける”。空気の輪郭が薄くなる。焚き火の爆ぜる音が遠のく。
穴が口を開ける気配。
師が顔を上げ、低く言った。
「来た」
少年は唇を噛み、頷いた。
返事は契約。頷きも契約になり得る。だが頷かなければ、師の言葉が自分の中に落ちない。支点が崩れる。
帳の入口の布が、風もないのに揺れた。
外に誰かがいるわけではない。誰かがいるなら足音がする。だが足音はない。
代わりに、骨の内側に声が落ちてくる。
「……——……」
最初は意味のない囁き。
意味がないのに、理解したくなる囁き。理解した瞬間に契約になる声。
師は低く息を吐き、少年の前に立った。
盾になるように。英雄の型で。だが盾は削られる。盾が削られるほど、少年の支点が必要になる。
声が、次第に形を持つ。
「——門を、開け」
門。
師の肩が跳ねる。封筒が胸の内側で重くなる。
少年の指先の線が、ひやりと冷えた。線が濃くなる。まるで、声が線へ触れているみたいに。
師が低く言った。
「誰だ」
問いかけは返事を招く。危ない。
だが師は、問うことで“こちらが主導権を持っている”と示したかったのかもしれない。主導権がなければ、門は勝手に開く。
声が笑った気がした。
笑いは音ではない。意味の揺れだ。
「……——……戦友、だ」
その言い方が、気味悪かった。
戦友を名乗るなら、名を言うはずだ。名を言わない戦友は、名を奪う側だ。
師の目が細くなる。
師は封筒に触れ、触れたまま止めた。
「おまえは——」
師が言いかけて、止まる。
止まる理由は名だ。名を言えば刃になる。名を言えば呼び名が契約になる。
師の喉が詰まり、呼吸が浅くなる。支点が揺れている。
少年は、師の背中に手を当てた。
支点を支えるための手。稽古のときの癖。守るための型。
声が、さらに近づく。
「門の場所を、示す。……代わりに、名を」
名。
言葉が刃になって、胸に刺さる。
師が低く言った。
「取引はしない」
「取引ではない。……当然の支払いだ」
当然。
当然という言葉は恐ろしい。正当化された刃は、最も深く刺さる。
声が続ける。
「門は、縫い跡の向こう。……三つの杭。——“支点の杭”を立てろ」
少年は息を止めた。
三つの杭。支点の杭。
それは封印文の構造と一致する。鍵、型、支点——三重。門は三重の支点で開く。
師が、少年の手首を掴んだ。
掴む力が強い。強さが怖い。師が恐怖で強く掴んでいる。
「聞くな」
師が言った。
「聞いたら、覚える。覚えたら、使いたくなる。使いたくなったら——」
師の言葉が途切れる。
途切れた先の言葉は“契約”だ。
少年は、歯を食いしばり、視線を落とした。
聞くな。理解するな。だが耳に入ってしまった。三つの杭。縫い跡の向こう。門。
単語だけで、道筋が見える。見えた道筋は誘惑になる。
声が、最後の一押しをしてくる。
「弟子の名を、差し出せ。……そうすれば、師の名は守られる」
少年の胸が熱くなった。
怒りだ。
守るために奪うな。救うために誰かを削るな。師がそれを嫌う人だと、少年は知っている。
——師は、誰かを盾にして生き延びる英雄じゃない。
師の指が震えた。
震えは迷いだ。師の名を守れると言われた。師の名は失われている。守れるなら——守りたい。
だが、その代償が弟子の名だ。
師が、絞り出すように言った。
「……黙れ」
声が笑った気がした。
「黙らせられるか。……名を持つ者は、名で縛られる」
次の瞬間、少年の指先の線が——じわりと動いた。
動いたのは皮膚ではない。意味だ。
線が文字になりかける。文字になりかけた瞬間、喉が勝手に動く。
名を言いたい。
言って、自分が自分だと確かめたい。
確かめた瞬間に奪われるのに。
少年は膝をつき、両手で自分の口を塞いだ。
返事は契約。名は刃。
支点を胸に置け。杭を打て。
師が少年の額に指を当てた。
契約の所作ではない。支える所作だ。支点を固定するための所作。
「……息をしろ」
師が言う。
少年は浅く息を吸い、吐く。吸って吐くたびに、喉の衝動が少しだけ弱まる。
呼吸は型だ。型は支える。
声が遠のく。
遠のく前に、最後の言葉を落としていった。
「門は、縫い跡の向こう。三つの杭。……そして“唯一の名”」
唯一の名。
声が消えたあとも、その単語だけが残った。
唯一。代わりがきかない。つまり、誰か一人の名が必要になる。
師の名か。弟子の名か。戦友の名か。
あるいは——名を失ってもなお“名として機能する何か”。
師は深く息を吐き、少年の肩を掴んだ。
「……約束しろ」
師の目は真剣だった。
英雄の目ではない。師の目だ。弟子を守る者の目だ。
「おまえは、支点になるな。——門のために、名を差し出すな」
少年は頷きたかった。
頷けば師は安心する。だが頷いた瞬間、自分が嘘をつくことになる気がした。門が名を要求するなら、誰かが払う。誰かが払わなければ、国が裂ける。
誰か、という言葉の中に、自分がいる。
少年は唇を噛み、血の味で現実を固定し、やっと言った。
「……師匠も、同じです」
師が一瞬、目を閉じた。
それは肯定でも否定でもない。理解した、という合図だけだった。
帳の外で、焚き火が爆ぜる。
音が戻っていることが、救いに思える。
けれど少年の指先の線は、消えなかった。
門は近い。
名の支払いも、近い。




