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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第2章 結界——愛の形が型になる

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門——名を差し出す場所

門の場所は、地図にはなかった。


そもそも地図は“内側”のために作られている。境界の外は空白だ。空白は未知ではなく、記録できない領域——名と意味が削られる領域だ。


師は隊長たちを再び集め、最小限の言葉で指示を出した。


「縫い跡を維持しながら、北の縁を三日もたせる」

「外へ出るのは小隊。荷は軽く。声は出すな」

「札は使い捨て。食われる前に切り離す」

「返事をするな。名を言うな。名を書け」


最後の言葉だけが、矛盾していた。

言うな。書け。——どちらも名を扱う行為だ。扱わねば進めない。扱えば刃になる。


隊長たちが散り、焚き火が落ち着くころ、師は少年を呼んだ。呼んだ、というのは正確ではない。呼び名を使わずに、視線だけで合図をした。


少年は頷き、師の帳へ入る。

帳の中は暗い。明かりを強くすると、影が濃くなりすぎる。影が濃くなると、“外”が近づく気がした。


師は封筒を取り出し、鍵に触れ、触れて止めた。

止めた指が、わずかに震えている。


「……おまえの支点は、強い」


師が言った。

褒め言葉の形をしているのに、そこには怖れが混じっている。強い支点ほど、要求される。門が開くなら、支点は代償になる。


少年は言葉を探し、短く答えた。


「師匠が、教えてくれたからです」


師の眉が動いた。

“教えてくれた”という過去形が、また刺さる。師の中の何かが欠けていく速度を、少年は毎日見てしまう。


師は息を吸い、吐き、言った。


「支点を貸すな」


少年は一瞬、耳を疑った。


「……さっき、封印を解くとき——」


「だから言う。貸すな。……門は、支点を食う」


師の声が低い。低いほど、本気だ。

師は少年の指先を見た。少年の指先に浮かんだ“見慣れない線”。文字になりかけた痕。抜け始め。


少年は手を握りしめた。

隠しても無駄だ。師は見ている。見ていて、怖れている。


「もう……始まってる」


師が言う。

それは断言ではない。確信だ。


少年の喉が痛くなる。

始まっているなら止めなければならない。だが止める方法は“門を閉じる”ことだ。門を閉じるには核を断つしかない。核を断つには外へ出るしかない。外へ出るには門が必要だ。門は名を要求する。


堂々巡りの輪が、胸の奥で回る。

輪が回るほど、支点が揺れる。


そのとき——帳の外で、風が止んだ。


止んだ瞬間がわかった。

風は止むものだ。だがこれは違う。止むのではなく、音が“抜ける”。空気の輪郭が薄くなる。焚き火の爆ぜる音が遠のく。

穴が口を開ける気配。


師が顔を上げ、低く言った。


「来た」


少年は唇を噛み、頷いた。

返事は契約。頷きも契約になり得る。だが頷かなければ、師の言葉が自分の中に落ちない。支点が崩れる。


帳の入口の布が、風もないのに揺れた。

外に誰かがいるわけではない。誰かがいるなら足音がする。だが足音はない。

代わりに、骨の内側に声が落ちてくる。


「……——……」


最初は意味のない囁き。

意味がないのに、理解したくなる囁き。理解した瞬間に契約になる声。


師は低く息を吐き、少年の前に立った。

盾になるように。英雄の型で。だが盾は削られる。盾が削られるほど、少年の支点が必要になる。


声が、次第に形を持つ。


「——門を、開け」


門。

師の肩が跳ねる。封筒が胸の内側で重くなる。

少年の指先の線が、ひやりと冷えた。線が濃くなる。まるで、声が線へ触れているみたいに。


師が低く言った。


「誰だ」


問いかけは返事を招く。危ない。

だが師は、問うことで“こちらが主導権を持っている”と示したかったのかもしれない。主導権がなければ、門は勝手に開く。


声が笑った気がした。

笑いは音ではない。意味の揺れだ。


「……——……戦友、だ」


その言い方が、気味悪かった。

戦友を名乗るなら、名を言うはずだ。名を言わない戦友は、名を奪う側だ。


師の目が細くなる。

師は封筒に触れ、触れたまま止めた。


「おまえは——」


師が言いかけて、止まる。

止まる理由は名だ。名を言えば刃になる。名を言えば呼び名が契約になる。

師の喉が詰まり、呼吸が浅くなる。支点が揺れている。


少年は、師の背中に手を当てた。

支点を支えるための手。稽古のときの癖。守るための型。


声が、さらに近づく。


「門の場所を、示す。……代わりに、名を」


名。

言葉が刃になって、胸に刺さる。


師が低く言った。


「取引はしない」


「取引ではない。……当然の支払いだ」


当然。

当然という言葉は恐ろしい。正当化された刃は、最も深く刺さる。


声が続ける。


「門は、縫い跡の向こう。……三つの杭。——“支点の杭”を立てろ」


少年は息を止めた。

三つの杭。支点の杭。

それは封印文の構造と一致する。鍵、型、支点——三重。門は三重の支点で開く。


師が、少年の手首を掴んだ。

掴む力が強い。強さが怖い。師が恐怖で強く掴んでいる。


「聞くな」


師が言った。


「聞いたら、覚える。覚えたら、使いたくなる。使いたくなったら——」


師の言葉が途切れる。

途切れた先の言葉は“契約”だ。


少年は、歯を食いしばり、視線を落とした。

聞くな。理解するな。だが耳に入ってしまった。三つの杭。縫い跡の向こう。門。

単語だけで、道筋が見える。見えた道筋は誘惑になる。


声が、最後の一押しをしてくる。


「弟子の名を、差し出せ。……そうすれば、師の名は守られる」


少年の胸が熱くなった。

怒りだ。

守るために奪うな。救うために誰かを削るな。師がそれを嫌う人だと、少年は知っている。

——師は、誰かを盾にして生き延びる英雄じゃない。


師の指が震えた。

震えは迷いだ。師の名を守れると言われた。師の名は失われている。守れるなら——守りたい。

だが、その代償が弟子の名だ。


師が、絞り出すように言った。


「……黙れ」


声が笑った気がした。


「黙らせられるか。……名を持つ者は、名で縛られる」


次の瞬間、少年の指先の線が——じわりと動いた。

動いたのは皮膚ではない。意味だ。

線が文字になりかける。文字になりかけた瞬間、喉が勝手に動く。


名を言いたい。

言って、自分が自分だと確かめたい。

確かめた瞬間に奪われるのに。


少年は膝をつき、両手で自分の口を塞いだ。

返事は契約。名は刃。

支点を胸に置け。杭を打て。


師が少年の額に指を当てた。

契約の所作ではない。支える所作だ。支点を固定するための所作。


「……息をしろ」


師が言う。

少年は浅く息を吸い、吐く。吸って吐くたびに、喉の衝動が少しだけ弱まる。

呼吸は型だ。型は支える。


声が遠のく。

遠のく前に、最後の言葉を落としていった。


「門は、縫い跡の向こう。三つの杭。……そして“唯一の名”」


唯一の名。


声が消えたあとも、その単語だけが残った。

唯一。代わりがきかない。つまり、誰か一人の名が必要になる。

師の名か。弟子の名か。戦友の名か。

あるいは——名を失ってもなお“名として機能する何か”。


師は深く息を吐き、少年の肩を掴んだ。


「……約束しろ」


師の目は真剣だった。

英雄の目ではない。師の目だ。弟子を守る者の目だ。


「おまえは、支点になるな。——門のために、名を差し出すな」


少年は頷きたかった。

頷けば師は安心する。だが頷いた瞬間、自分が嘘をつくことになる気がした。門が名を要求するなら、誰かが払う。誰かが払わなければ、国が裂ける。

誰か、という言葉の中に、自分がいる。


少年は唇を噛み、血の味で現実を固定し、やっと言った。


「……師匠も、同じです」


師が一瞬、目を閉じた。

それは肯定でも否定でもない。理解した、という合図だけだった。


帳の外で、焚き火が爆ぜる。

音が戻っていることが、救いに思える。

けれど少年の指先の線は、消えなかった。


門は近い。

名の支払いも、近い。

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