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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第2章 結界——愛の形が型になる

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外へ——開けるための封印

裂け目の縫い跡は、夜になっても消えなかった。


焚き火の光が揺れるたび、縫い跡は薄い銀線として浮かび上がり、森の闇の中で“そこだけ別の世界”になっていることを主張した。

兵たちは縫い跡を避けるように歩いた。避けながら、見てしまう。見てしまって、黙る。

境界が“縫える”ことを知った夜は、境界が“裂ける”ことを知った夜でもある。


師は野営地の中央で、作戦の話をしていた。

隊長たちを集め、地図を広げ、言葉を最小限に削って指示を出す。

少年はその外側に立ち、宿帳に“名のない記録”を取った。


「北の縁は、仮縫いで保つ」

「薄い札は捨てる。食われる前に切り離す」

「夜間は声に応じない。返事は契約だ」

「呼び名は使わない。書かない。残すなら符号で残す」


符号。

名の代わりの記号。師はそこまで言って、わずかに言葉に詰まった。


——名の代わりに記号を使うということは、名がすでに武器化されたということだ。


隊長の一人が、恐る恐る聞いた。


「外へ出る……とは、どういうことですか」


師は地図の端を指でなぞり、境界線の外側——空白に近い部分で止めた。


「核は外にある。枝を払っても、根は残る。……根を断たなければ、いずれ全部が裂ける」


師の声は落ち着いていた。落ち着いているから、恐ろしい。

落ち着いていられるのは、覚悟を固めた者だけだ。


隊長は唇を噛み、言った。


「結界の外は、記録がありません。地図が——」


「だから、“開ける”」


師が言い、胸の内側に手を当てた。

鍵付きの手紙がそこにある。


隊長たちの視線が集まる。

だが誰も、封筒の宛名を口にしない。皆が、昨夜の“声”を聞いている。名を言えば、名が刃になることを知ってしまったのだ。


師は隊長たちを解散させ、焚き火の端へ歩いた。

少年もついていく。師の歩幅は一定だが、時々ほんのわずかに迷う。迷いは、道ではなく“型”に出る。手の振り方、視線の置き場、呼吸の間。

少年はそれを、心の奥に刻む。宿帳には書かない。書けば食われる。けれど刻む。刻まなければ、消える。


師は焚き火の前に腰を下ろし、封筒を取り出した。

鎖。鍵穴。古い蝋封。

少年は喉が鳴るのを感じた。封筒が、昨夜の声と同じ匂いを持っている気がした。呼び名の匂い。奪う側の湿り気。


「……おまえも、見るか」


師が言った。

少年は一瞬だけ迷い、頷いた。


見ることが怖い。だが見ない方がもっと怖い。

師が一人で背負えば、師はさらに削られる。削られた先に、誰も残らなくなる。


師は鍵を回し、鎖を外し、封筒を開けた。

紙を取り出し、焚き火の光で照らす。


文字の欠けは、昨日より進んでいた。

黒い染みが広がり、“意味”の部分が穴になっている。

それでも、読める行がある。行の隙間に、銀糸の封印文が縫い込まれている。


師は紙に指を置き、低く言った。


「開けるための封印は、三重だ」


少年は息を止めた。

三重。つまり、開けること自体が危険だ。危険だから三重にした。危険なのに、今は開けなければならない。


「一つ目は“鍵”。二つ目は“型”。三つ目は——」


師の言葉が止まった。

止まった理由が、少年にはわかった。三つ目は、代償だ。代償を言葉にした瞬間、代償が現実になる。


少年は代わりに言った。


「……支点、ですか」


師は少年を見て、ゆっくり頷いた。


「そうだ。支点。……誰が支点になるかで、開くものが変わる」


開くものが変わる。

それはつまり、“何を差し出すか”が変わるということだ。

師が支点になれば師が削られる。少年が支点になれば——少年の名が削られる。


少年の指先が冷たくなる。

昨夜、指先に浮かんだ“見慣れない線”。文字になりかけた痕。抜け始め。

それが、ここに繋がっているのかもしれない。


師は紙を指でなぞり、封印文の糸を拾った。

糸は焚き火の光を反射して、淡く光る。

光り方が、結界の糸とは違う。膜を張る光ではない。道を開く光だ。


「読むな」


師が言った。


少年は顔を上げる。

師の目が、少年の目を貫く。真剣だ。命令だ。お願いでもある。


「文字を声にするな。頭の中で読むな。……“理解”が契約になる」


理解が契約。

返事が契約。署名がトリガー。

この世界は、名と意味を媒介にして契約を結ばせる。ならば、理解した瞬間、相手と繋がる。


少年は頷き、視線を紙から外した。

見えるのは糸だけ。糸の光だけ。意味は見ない。意味に触れない。


師は、息を整えた。

整える息の間が、昨日より長い。支点を据えるために時間が必要になっている。

師が削られている。


「……型を組む」


師は言い、指を立てた。

結界の型とは違う。より細い指の形。糸を編むような動き。

少年は息を止め、見守る。見守りながら、胸の奥の杭に触れる。いつでも支点になれるように。支点になってしまう恐怖を抱えながら。


糸が、わずかに震えた。

紙の上の銀糸が、焚き火の光とは別の光を帯びる。

黒い染みが、ざわりと動いた。動いたのは風ではない。意味が動いたのだ。


師の喉が、小さく鳴る。


「——来る」


師が言った瞬間、焚き火の音が遠のいた。

音がほどける。光が薄くなる。空気が欠ける。

昨日の戦場の“穴”が、ここに口を開けた。


少年の耳の奥に、声が届いた。


「……——……」


今度は呼び名ではない。

意味のない囁き。意味がないのに、理解したくなる囁き。

それが一番危険だ。理解した瞬間、契約が結ばれる。


少年は唇を噛み、血の味で現実を繋ぎ止めた。

師もまた、歯を食いしばっている。


師は、紙に指を押し付けた。

押し付けた指が、震える。震えは恐怖ではない。支点が揺れている震えだ。


「……おまえ」


師が少年を見た。

その目が、はっきりと言っている。


——支点を、貸せ。


少年の胸の奥が熱くなる。

熱は怖れと、覚悟と、怒りが混ざった熱だ。

師が削られるのを見たくない。だが自分が削られるのも怖い。

それでも——守りたい。


少年は、ゆっくり頷いた。


頷いた瞬間、指先の“見慣れない線”が、ひやりと冷えた。

線が、少しだけ濃くなる。

まるで、紙の黒い染みが、こちらへ移ってくるみたいに。


師が、少年の額に指を当てた。

それは稽古のときの確認の癖——のはずだった。

けれど今は、癖ではない。契約の所作だ。


「……声に返事をするな」


師が言う。

少年は頷く。頷きも契約になり得る。だが今は、頷かない方が壊れる。支点が崩れる。


師は少年の支点に、糸を繋いだ。

繋いだ瞬間、紙の銀糸が強く光り、黒い染みが一瞬だけ引いた。


封印が、ひとつ解ける。


そして——紙の上に、読める行が増えた。


増えた行の中で、少年の目に飛び込んだのは、ひとつの単語だった。


核。


災厄の核に触れる方法。

核へ至る“門”。

門を開く鍵は——名。


少年は息が止まり、すぐに視線を逸らした。

見てはいけない。理解してはいけない。

だが見てしまった。単語だけでも、意味が突き刺さる。


師が紙を折り畳み、封筒に戻した。

鎖を巻き、鍵で閉じた。


閉じた瞬間、世界の音が戻った。

焚き火が爆ぜる。虫が鳴く。兵の足音がする。

普通が戻る。


師は息を吐き、少年を見た。


「……外へ出る道は、ある」


少年は頷いた。

喉が痛い。胸の杭が重い。指先の線が冷たい。

それでも、道があるなら進むしかない。


師は、声を落として言った。


「だが、その道は……名を要求する」


少年は、宿帳の空白を思い出した。

名を書けない空白。

空白は、守りでもあり、裂け目でもある。


少年は胸の奥で、声にならない声を握りしめた。


——奪われる前に、刻む。


刻む場所は、紙じゃない。

声でもない。

支点だ。

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