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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第10章 名の外側——師が“師”でい続ける孤独

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自己——名ではなく感覚で留める

名を避ける日々は、輪郭を削る。


呼ばれない。

指されない。

説明されない。

期待されない。


中心にならないことは救いだ。

だが中心にならないことは、鏡を失うことでもある。

鏡がなければ自分の輪郭が曖昧になる。

曖昧になれば、内側に空白ができる。

空白は門になる。


危機は静かだった。


師が焚き火のそばで水を飲む。

いつもと同じ動作。

同じ動作なのに、手が一拍遅れる。

遅れは迷いだ。

迷いは空白を作る。

空白が濃くなると、欠けが回る。


師の目が、ふと宙を探した。

誰かを探すのではない。

自分を探している目だった。


——私は、何だ?


言葉にならない問いが、胸の奥で形を持つ。

形を持てば杭になる。

杭は支点になる。

支点は鍵を回す。


少年は息を吸って吐いた。


名を与えられない。

役割で固めるのも危険だ。

役割は共通になる。

共通は糸になる。

糸は門になる。


なら、自己を“共通にならないもので留める”。

誰とも共有しない。

共有されないから糸にならない。

糸にならなければ門にならない。


感覚だ。


手の温度。

歩幅。

呼吸。

筋肉の張り。

靴の中の砂。


感覚は個別だ。

言葉にしない限り共通にならない。

だから感覚で自己を固定する。


少年は「自己札」を作った。


無文字の札。

点線で三つの印。


・温(小さな渦)

・歩(短い線が二つ)

・息(細い波)


札は一枚だけ。

一枚は危険だ。中心になりうる。

だから一枚は“持ち歩く札”にする。

置かない。

置けば場所が中心になる。

持ち歩けば中心ができにくい。

中心ができにくければ門になりにくい。


だが持ち歩きも習慣になれば拍になる。

拍は糸になる。

だから使用の条件を固定しない。

微差で呼び出す。


火花が跳ねたら。

無風になったら。

水面が鏡になったら。

縄が一度だけ鳴ったら。

微差が「今だ」を選ぶ。


手順は短い。


一、温——掌を自分に向け、親指ではなく“掌の中心”に注意を置く。

押さない。

触れない。

ただ、温度を数える。

熱い/冷たいではない。

昨日より一息分温い、という差だけ。

差は個別だ。

個別は糸になりにくい。


二、歩——三歩だけ、歩幅を変える。

一歩目は短く。

二歩目は普段。

三歩目は少し長く。

声は出さない。

視線も集めない。

歩幅は見えにくい。

見えにくいなら共通になりにくい。


三、息——短く一回、外へ流す。

深呼吸はしない。

深呼吸は拍になる。

拍は糸になる。

短く一回。揃えない。


この三つは、自己を言葉ではなく“触り”で留める。

留めれば空白が濃くなりにくい。

濃くなりにくければ欠けが回りにくい。


試験は、焚き火の前で来た。


薪が爆ぜ、火花が跳ねる。

光が師の目を叩く。

いつもの悔いではない。

罪でもない。

輪郭でもない。


空白だ。


私は何だ、という空白。

問いが形になり、杭になりかける。

杭は支点になる。

支点になれば鍵が回る。


師の指が、無意識に“名の場所”を探す。

呼ばれなかった時間が、逆に名を求める。

名を求めれば門が近づく。


少年は距離を取ったまま、自己札を床へ滑らせない。

滑らせれば中心になる。

中心は門になる。

代わりに、師の袖口にそっと挟むように置いた。

置いたというより、触れた布が札に触れるだけ。

他人の目に入らない。

入らなければ共通になりにくい。


師の掌が、自分に向く。

親指ではない。

掌の中心。

温度を数える。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


言葉にはしない。

しないから共有にならない。

共有にならないから糸にならない。


師は三歩だけ歩幅を変える。

短く。普段。少し長く。

誰も気づかない。

気づかれないから共通にならない。


そして短い息を一回。

外へ流す。

揃えない。

拍にしない。


鍵が回ろうとして——止まる。

止まるが、問いは消えない。

消えないが杭になりきらない。

杭になりきらないから支点にならない。

支点にならないから門にならない。


師の目が、少しだけ今へ戻る。

今へ戻るとは、世界へ戻ることだ。

世界へ戻れば空白が薄まる。


少年は胸の中で息を吐いた。

自己を名で留めなかった。

役割でも留めなかった。

感覚で留めた。


夜更け、師は水場で手を洗った。


洗うのは清めではない。

意味にしない。

意味にすると契約になる。

契約は門になる。


洗うのは生活だ。

生活は強い。

強い生活は中心を作りにくい。


師は自分の袖から、自己札をそっと抜いた。

見ない。

見れば意味になる。

意味は契約になる。


ただ、布越しに触れて、薄くなった紙の縁を感じる。

薄くなっている。

消費されている。

消費される札は中心になりにくい。

中心になりにくいなら門になりにくい。


師の肩が、ほんの少しだけ下がった。

孤独が消えたわけではない。

だが孤独が“問い”になる前に、手触りで留められた。


少年は額に手を当て、温度を作って自分の中へ収めた。


自己の型は作れた。

だが次は、隊の側だ。

隊が「師の自己」を支えようとすると、それが共通になって糸になる。

善意は共通になりやすい。

共通は糸になる。

糸は門になる。


支えたいを、支えない形にする。

助けたいを、物へ落とす。

名なしの師を守るために、隊の善意を散らす型が必要だ。

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