唯一性——英雄の型では守れない
翌朝、野営地に“使者”が来た。
使者は馬を飛ばしてきたせいで息が上がっていた。顔は土と汗で汚れ、目だけが異様に白い。
兵の隊長が迎えに出る。師も出る。少年も、その背後に立った。
「北の縁が、裂けています」
使者は開口一番そう言った。
裂けている。結界が。境界が。——それは、国が傷口を晒しているのと同じだ。
「今朝方から、札の文字が消え始めた。結界が薄い。……外が、覗ける」
師の肩がわずかに揺れた。
揺れた理由は、疲労ではない。昨日、札が食われるのを見た。声が名を求めるのを聞いた。狙いが支点だと理解した。
それらが、今度は“裂け目”として現れた。
師は短く命じた。
「移動だ。北へ」
兵がざわめく。だが命令は早い。人は“早さ”に従う。
少年は荷をまとめながら、宿帳を胸に抱え直した。名は書かない。呼ばない。だが記録はする。記録だけは手放せない。
北へ向かう道は、湿っていた。
空は相変わらず薄い灰色で、光が平らだ。森の葉の緑がくすんで見える。鳥の声も、どこか遠い。
昨日より“穴”が近い。世界の輪郭が薄くなる速度が早い。
結界の縁に近づくほど、兵の口数が減った。
怖れが伝播している。見えないものに怖れるとき、人は黙る。
その沈黙の中で、師だけが淡々と歩いた。淡々と歩くことで、皆を支えている。
——英雄の型。
少年はそう思い、胸がきしんだ。
英雄の型で守れるのなら、師は代償を払わなくていい。だが現実は逆だ。英雄の型で守れば守るほど、師は削られる。
森が開け、地面の色が変わった。
黒い砂が混じっている。踏むと、乾いた音がしない。砂が音を吸っている。
空気が冷たい。いや、冷たいのではない。温度が“薄い”。体温の輪郭が外へ漏れていく感じがする。
そこに、裂け目があった。
結界は膜だ。膜は見えない。だが、裂け目があると見える。
裂け目の周囲だけ、空気が歪んでいる。光が折れ、色がくすみ、遠近が狂う。
裂け目の向こう側は——“外”だ。国の外。境界の外。
使者が震える声で言った。
「昨夜、声がしました」
師の目が細くなる。
「呼び名か」
使者は頷き、泣きそうに言う。
「はい。……私の、名を」
少年の背筋が凍った。
師だけではない。弟子だけでもない。名を狙う手は、誰にでも伸びる。境界に近い者から順に、名が武器にされていく。
師は裂け目の前に立ち、指を立てた。
——結界を張り直す。英雄の型で。
だが師の指が、途中で止まった。
止まる。迷う。視線が宙を泳ぐ。
少年は息が止まった。支点が揺れた。師が揺れた。
裂け目が、待っていたみたいに広がった。
音のない裂け方。光のない広がり方。
裂け目から“何か”が覗く。触手ではない。触手よりも小さい。糸みたいに細い。細いのに、確かにこちらへ伸びる“意志”がある。
——名を、求めている。
師が歯を食いしばり、言った。
「……下がれ」
兵が後退する。隊長が叫ぶ。
裂け目がさらに広がる。境界が崩れていく。結界札の文字が、目に見えて薄くなる。
少年は、師の背中を見た。
師は今、結界を張るべきだ。張れば守れる。張れば裂け目は塞がる。
だが張れば、師はさらに削られる。昨日、名を忘れた。今日、次は何を失う? 弟子の名か。自分の顔か。呼吸の仕方か。——存在そのものか。
少年の胸の奥が熱くなった。
熱は恐怖から来る。恐怖は支点を揺らす。揺らせば膜が裂ける。
——違う。ここで必要なのは恐怖じゃない。
守りたい。
その思いが、杭になる。
少年は気づいた。自分はもう、支点を置ける。昨日、稽古で置けた。今日、実戦で置かなければならない。
「師匠!」
少年は叫び、すぐに口を押さえた。声は契約だ。呼び名も危ない。
だが師は振り返った。目が合う。合った瞬間、少年は決めた。
——英雄の型では守れないなら、弟子の型で守る。
少年は前へ出た。
兵が止めようとする。隊長が叫ぶ。だが少年は止まらない。
裂け目の前に立つ。足元の黒い砂が冷たい。冷たいのに、胸の奥は熱い。
少年は胸に杭を打ち込む。
支点を置く。覚悟を置く。
守りたいものを思い出す。師の手。宿帳。結界の糸。兵の命。国の中の、まだ名前を呼ばれて眠っている人々。
指を立て、術式を組む。
声は出さない。声を出せば、裂け目が聞き返す。返事を求める。契約を迫る。
糸が光った。
札が震えた。
膜が、裂け目の上に“縫われる”ように走った。
縫う。
師がいつもやっていた動き。結ぶ、縫う、閉じる。
少年の中で、その型が一本の線になる。線が膜になる。膜が境界になる。
裂け目が抵抗した。
薄い声が、骨の内側で鳴る。
「——名を……言え……」
誘惑。命令。契約。
少年の喉が動く。名を言えば楽になる、と囁く。
——違う。名を言えば奪われる。
少年は唇を噛む。血の味。現実。
胸の杭を、さらに深く打つ。
膜が張り詰めた。
裂け目が、細くなる。覗いていた糸が引っ込む。
黒い砂が震え、止まり、静かになる。
……塞がった。
完全ではない。縫い跡が残る。薄い継ぎ目が、光の角度で見える。
だが“今”の侵入は止めた。
兵のどよめきが遅れて聞こえた。
歓声ではない。恐怖の解除の息だ。
師が、少年の隣に来た。来るのが遅い。遅いのに、来た。来たことが救いだ。
師は少年を見る。
その目が、揺れている。誇りと、怖れと、痛みが同時にある。
「……やったな」
師の声は掠れていた。
少年は頷いた。頷きながら、胸が苦しい。成功の喜びより、“これが現実になった”ことの重さが先に来る。
「師匠、今……」
少年が言いかけると、師は首を振った。
言うな。名を。呼び名すら。
少年は言葉を飲み込み、ただ師の手の震えを見た。
師は裂け目の縫い跡に指を当てた。
指が触れた瞬間、縫い跡の向こう側が、ほんの一瞬だけ透けて見えた。
外。
外は暗い。暗いのではない。光が存在していない。
そこに、巨大な“何か”の輪郭があった。触手の本体。穴の中心。
——核。
師が、息を呑んだ。
少年も、息が止まる。
核は、こちらを見ていた。
目はない。だが見ている。名を持たない視線で、名を持つ者を見ている。
師が低く言った。
「……確定だ」
少年は震える声で聞く。
「何が……」
師は、縫い跡から指を離し、結界の内側を見回した。
兵たちが、まだ息を整えている。皆がまだ“ここ”にいる。
師は、その“ここ”を守るために、言葉を選んだ。
「災厄の核は、結界の外にある」
その言葉は、冷たい刃だった。
いままでの戦いは、枝を払っていただけ。根は外にある。根を断つには——外へ出るしかない。
師は少年を見た。
目の焦点が、確かに合っている。合っているのに、そこに“遠さ”が混じっている。
遠さは、覚悟の遠さだ。死を含んだ覚悟の距離だ。
「……次は、外へ行く」
少年は頷いた。頷くしかない。
頷いた瞬間、胸の杭がきしむ。支点が重くなる。
支点は移せる。移せてしまう。だからこそ、怖い。
師は、少年の頭に手を置いた。
昨日と同じ動作。だが指の置き方が、少しだけ違う。
師の癖が、またひとつ欠けたのかもしれない。
少年はその欠けを見て、宿帳の革の表紙を思い出した。
記録しなければならない。欠けたものの輪郭を。
少年は胸の内で、名を呼んだ。声にはしない。紙にも書かない。
ただ、心の奥の杭の根元に、そっと刻む。
——忘れない。
外の暗さが、縫い跡の向こうで静かに笑っている気がした。




