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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第1章 名——戦場の拾いもの

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唯一性——英雄の型では守れない

翌朝、野営地に“使者”が来た。


使者は馬を飛ばしてきたせいで息が上がっていた。顔は土と汗で汚れ、目だけが異様に白い。

兵の隊長が迎えに出る。師も出る。少年も、その背後に立った。


「北の縁が、裂けています」


使者は開口一番そう言った。

裂けている。結界が。境界が。——それは、国が傷口を晒しているのと同じだ。


「今朝方から、札の文字が消え始めた。結界が薄い。……外が、覗ける」


師の肩がわずかに揺れた。

揺れた理由は、疲労ではない。昨日、札が食われるのを見た。声が名を求めるのを聞いた。狙いが支点だと理解した。

それらが、今度は“裂け目”として現れた。


師は短く命じた。


「移動だ。北へ」


兵がざわめく。だが命令は早い。人は“早さ”に従う。

少年は荷をまとめながら、宿帳を胸に抱え直した。名は書かない。呼ばない。だが記録はする。記録だけは手放せない。


北へ向かう道は、湿っていた。

空は相変わらず薄い灰色で、光が平らだ。森の葉の緑がくすんで見える。鳥の声も、どこか遠い。

昨日より“穴”が近い。世界の輪郭が薄くなる速度が早い。


結界の縁に近づくほど、兵の口数が減った。

怖れが伝播している。見えないものに怖れるとき、人は黙る。

その沈黙の中で、師だけが淡々と歩いた。淡々と歩くことで、皆を支えている。


——英雄の型。


少年はそう思い、胸がきしんだ。

英雄の型で守れるのなら、師は代償を払わなくていい。だが現実は逆だ。英雄の型で守れば守るほど、師は削られる。


森が開け、地面の色が変わった。

黒い砂が混じっている。踏むと、乾いた音がしない。砂が音を吸っている。

空気が冷たい。いや、冷たいのではない。温度が“薄い”。体温の輪郭が外へ漏れていく感じがする。


そこに、裂け目があった。


結界は膜だ。膜は見えない。だが、裂け目があると見える。

裂け目の周囲だけ、空気が歪んでいる。光が折れ、色がくすみ、遠近が狂う。

裂け目の向こう側は——“外”だ。国の外。境界の外。


使者が震える声で言った。


「昨夜、声がしました」


師の目が細くなる。


「呼び名か」


使者は頷き、泣きそうに言う。


「はい。……私の、名を」


少年の背筋が凍った。

師だけではない。弟子だけでもない。名を狙う手は、誰にでも伸びる。境界に近い者から順に、名が武器にされていく。


師は裂け目の前に立ち、指を立てた。

——結界を張り直す。英雄の型で。


だが師の指が、途中で止まった。

止まる。迷う。視線が宙を泳ぐ。

少年は息が止まった。支点が揺れた。師が揺れた。


裂け目が、待っていたみたいに広がった。

音のない裂け方。光のない広がり方。

裂け目から“何か”が覗く。触手ではない。触手よりも小さい。糸みたいに細い。細いのに、確かにこちらへ伸びる“意志”がある。


——名を、求めている。


師が歯を食いしばり、言った。


「……下がれ」


兵が後退する。隊長が叫ぶ。

裂け目がさらに広がる。境界が崩れていく。結界札の文字が、目に見えて薄くなる。


少年は、師の背中を見た。

師は今、結界を張るべきだ。張れば守れる。張れば裂け目は塞がる。

だが張れば、師はさらに削られる。昨日、名を忘れた。今日、次は何を失う? 弟子の名か。自分の顔か。呼吸の仕方か。——存在そのものか。


少年の胸の奥が熱くなった。

熱は恐怖から来る。恐怖は支点を揺らす。揺らせば膜が裂ける。

——違う。ここで必要なのは恐怖じゃない。


守りたい。


その思いが、杭になる。

少年は気づいた。自分はもう、支点を置ける。昨日、稽古で置けた。今日、実戦で置かなければならない。


「師匠!」


少年は叫び、すぐに口を押さえた。声は契約だ。呼び名も危ない。

だが師は振り返った。目が合う。合った瞬間、少年は決めた。


——英雄の型では守れないなら、弟子の型で守る。


少年は前へ出た。

兵が止めようとする。隊長が叫ぶ。だが少年は止まらない。

裂け目の前に立つ。足元の黒い砂が冷たい。冷たいのに、胸の奥は熱い。


少年は胸に杭を打ち込む。

支点を置く。覚悟を置く。

守りたいものを思い出す。師の手。宿帳。結界の糸。兵の命。国の中の、まだ名前を呼ばれて眠っている人々。


指を立て、術式を組む。

声は出さない。声を出せば、裂け目が聞き返す。返事を求める。契約を迫る。


糸が光った。

札が震えた。

膜が、裂け目の上に“縫われる”ように走った。


縫う。

師がいつもやっていた動き。結ぶ、縫う、閉じる。

少年の中で、その型が一本の線になる。線が膜になる。膜が境界になる。


裂け目が抵抗した。

薄い声が、骨の内側で鳴る。


「——名を……言え……」


誘惑。命令。契約。

少年の喉が動く。名を言えば楽になる、と囁く。

——違う。名を言えば奪われる。


少年は唇を噛む。血の味。現実。

胸の杭を、さらに深く打つ。


膜が張り詰めた。

裂け目が、細くなる。覗いていた糸が引っ込む。

黒い砂が震え、止まり、静かになる。


……塞がった。


完全ではない。縫い跡が残る。薄い継ぎ目が、光の角度で見える。

だが“今”の侵入は止めた。


兵のどよめきが遅れて聞こえた。

歓声ではない。恐怖の解除の息だ。

師が、少年の隣に来た。来るのが遅い。遅いのに、来た。来たことが救いだ。


師は少年を見る。

その目が、揺れている。誇りと、怖れと、痛みが同時にある。


「……やったな」


師の声は掠れていた。

少年は頷いた。頷きながら、胸が苦しい。成功の喜びより、“これが現実になった”ことの重さが先に来る。


「師匠、今……」


少年が言いかけると、師は首を振った。

言うな。名を。呼び名すら。

少年は言葉を飲み込み、ただ師の手の震えを見た。


師は裂け目の縫い跡に指を当てた。

指が触れた瞬間、縫い跡の向こう側が、ほんの一瞬だけ透けて見えた。


外。


外は暗い。暗いのではない。光が存在していない。

そこに、巨大な“何か”の輪郭があった。触手の本体。穴の中心。

——核。


師が、息を呑んだ。

少年も、息が止まる。


核は、こちらを見ていた。

目はない。だが見ている。名を持たない視線で、名を持つ者を見ている。


師が低く言った。


「……確定だ」


少年は震える声で聞く。


「何が……」


師は、縫い跡から指を離し、結界の内側を見回した。

兵たちが、まだ息を整えている。皆がまだ“ここ”にいる。

師は、その“ここ”を守るために、言葉を選んだ。


「災厄の核は、結界の外にある」


その言葉は、冷たい刃だった。

いままでの戦いは、枝を払っていただけ。根は外にある。根を断つには——外へ出るしかない。


師は少年を見た。

目の焦点が、確かに合っている。合っているのに、そこに“遠さ”が混じっている。

遠さは、覚悟の遠さだ。死を含んだ覚悟の距離だ。


「……次は、外へ行く」


少年は頷いた。頷くしかない。

頷いた瞬間、胸の杭がきしむ。支点が重くなる。

支点は移せる。移せてしまう。だからこそ、怖い。


師は、少年の頭に手を置いた。

昨日と同じ動作。だが指の置き方が、少しだけ違う。

師の癖が、またひとつ欠けたのかもしれない。


少年はその欠けを見て、宿帳の革の表紙を思い出した。

記録しなければならない。欠けたものの輪郭を。


少年は胸の内で、名を呼んだ。声にはしない。紙にも書かない。

ただ、心の奥の杭の根元に、そっと刻む。


——忘れない。


外の暗さが、縫い跡の向こうで静かに笑っている気がした。

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