名なし——救いと孤独のあいだ
名を呼ばれない夜は、静かだ。
静かで、助かる。
助かるが、冷える。
名は門になる。
だから名を避ける。
避けることで欠けは回りにくくなる。
回りにくくなれば隊は生き延びる。
理屈は正しい。
だが正しさは、人を救いながら、人を削る。
師は焚き火のそばで、水を飲んだ。
飲むのは生活だ。
意味にしない。
意味にすると契約になる。
契約は門になる。
師の手つきは落ち着いている。
落ち着いているが、そこに“誰にも触れられない場所”がある。
名を避けるということは、その場所に触れないということだ。
隊は回った。
札と器と縄が呼びかけを受け止め、名を逸らした。
逸らせた。
逸らせたから、助かった。
それでも、人は人を探す。
困ったときに、物ではなく人へ寄りたくなる。
寄りたい気持ちは共通になる。
共通は糸になる。
糸は門になる。
だから寄らせない。
寄らせないことで門を防ぐ。
だが寄らせないことで、師は“中心になれない人”になる。
中心にならないことは、救いだ。
だが中心にならないことは、孤独だ。
夜明け前、若い兵が水場で手を止めた。
声は出さない。
出せば名へ届くから。
けれど目が、焚き火のほうを見る。
見た先に、師がいる。
師の背中が見える。
背中は呼びかけを誘う。
呼びかけは名を誘う。
少年は息を吸って吐いた。
視線は共通になりうる。
共通は糸になる。
糸は門になる。
少年は視線の着地点をずらした。
焚き火の手前、器を一つ置く。
器は生活だ。
生活は意味になりにくい。
意味になりにくいなら契約になりにくい。
若い兵の視線は師ではなく器へ落ちる。
落ちれば名に届きにくい。
届きにくければ欠けは回りにくい。
正しい。
けれど、その正しさが、師の背中をさらに遠くする。
師は振り向かない。
振り向けば中心になる。
中心は門になる。
師が振り向かないのは、拒絶ではない。
守りだ。
守りだが、拒絶に見える夜もある。
少年は一瞬、誘惑に触れた。
名の代わりがあればいい。
名ではない呼び方。
呼び方があれば、隊は安心する。
安心があれば恐怖が減る。
恐怖が減れば空白が減る。
空白が減れば門が育ちにくい。
——名の代わり。
だが代わりは、名の影だ。
影は名へ繋がる。
繋がれば門になる。
少年はわかっている。
それでも、作りたくなる。
孤独を見てしまったからだ。
少年は無文字の札に、点線で“輪”を描き、そこに小さな欠けを作った。
名ではない印。
名の代わりの印。
これを師の近くに置けば、呼びかけは印へ落ちるかもしれない。
置いた瞬間、空気が一段、薄くなった。
薄さが“止まる”。
止まる薄さは中心だ。
中心になりかけている。
少年の胸が冷える。
印は、名になりうる。
名になりうるものは、門になりうる。
師の欠けが、微かに鳴った。
鳴りは役割でも悔いでもない。
“呼ばれたい”の輪郭だった。
呼ばれたいは共通になりやすい。
共通は糸になる。
糸は門になる。
少年はすぐに札を回収しない。
回収は中心を作る。
中心は門になる。
少年は代わりに、自然減へ流した。
札の紙を指先で一度だけ撫で、灰を舞わせる。
舞えば形が薄まる。
薄まれば中心になりにくい。
薄まれば門になりにくい。
それでも薄さは一瞬、札の上で揺れた。
危ない。
危ないが、学びでもある。
名の代わりは、名の入口になる。
入口は門になる。
少年は息を吸って吐いた。
この道は違う。
名の代わりを作れないなら、何で支える。
少年が辿り着いたのは、“作業の位置”だった。
人は人を呼ぶ。
呼べないなら、人は位置へ寄る。
位置は生活の中に溶かせる。
溶かせれば中心になりにくい。
少年は師を中心に置かない。
代わりに、師の役目を“場所”へ散らす。
焚き火のそばに、最初の器。
水場に、次の器。
結び場に、縄。
通路に、歩。
見張り台の陰に、無風札。
師はそのどこにも“長く”いない。
留まれば中心になる。
中心は門になる。
師は場所の間を、生活の速度で移る。
指示しない。
見せない。
ただ、必要な物が必要な場所にある状態を保つ。
それが師の在り方になる。
隊は師を呼ばない。
呼ばないが、困ったときは“場所”へ寄る。
器へ寄り、縄へ寄り、札へ寄る。
寄ることで落ち着く。
落ち着くことで恐怖が薄まる。
恐怖が薄まれば空白が減る。
空白が減れば門が育ちにくい。
師は人に触れられないまま、人を支える。
名なしで支える。
それは救いだ。
だが救いは孤独を伴う。
夜、師が焚き火のそばで、掌を自分に向けた。
親指を押すのではない。
添える。
触れずに近づけて離す。
所作も分けてある。
共通にしない。
師は少年を見ない。
見ると中心になる。
中心は門になる。
それでも、師の背中が言う。
名を呼ばれないことに慣れるのは、痛い。
痛いが、必要だ。
必要だが、いつか折れる。
少年は額に手を当て、温度を作って自分の中へ収めた。
次は、孤独が折れになる前に、折れを支える型。
名を与えずに、師を支える。
支えることが共通にならない形で。
名ではなく、距離。
言葉ではなく、手順。
中心ではなく、流れ。
その型が作れれば、師は名なしで生きられる。




