露呈——“名”が武器になる
その声は、結界の外から届いた。
空気を震わせる音ではない。耳に届く前に、骨の内側で鳴る声。昨日の「穴」と同じ質感の声だった。
師は欠けた地平を見つめたまま、動かなかった。
兵たちは気づいていない。気づけないのか、気づかされていないのか。焚き火の匂いと鉄の匂いの中で、師と少年だけが、その呼び名を聞いていた。
少年は喉が乾いて、唾が飲み込めない。
名を呼ばれることが、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。
師は、ゆっくりと息を吐いた。吐き方が、結界を張る前の呼吸だった。
戦場に立つ呼吸。支点を胸に据える呼吸。
「……聞こえたな」
師が言った。少年は頷くしかない。
「返事はするな」
「はい」
少年は短く答え、すぐに後悔した。
“はい”という音すら、この異質な空気の中では目立つ。名ほどではないが、言葉は痕跡になる。
師は見張り台の兵に、淡々と命じた。
「周辺警戒を強めろ。結界の縁を点検しろ。……今日の移動は取りやめだ」
兵は戸惑いながらも頷き、指示を回す。
指揮官としての師は、まだここにいる。まだ“型”が残っている。
少年は師の袖を掴んだ。掴まないと、師が遠くへ行ってしまいそうだった。
「師匠……さっきの声は」
師は一瞬だけ目を閉じた。
閉じたまま、言葉を選ぶ沈黙。
「戦友の声に、似ている」
似ている。
断言ではない。その曖昧さが、少年の背筋を冷たくした。
師は続けた。
「だが、声は“呼び名”を知りすぎている」
少年は息を呑む。
呼び名を知っていること自体が異常だ。師の名は、いま世界から削られているはずなのに。宿帳でも、宛名でも、文字にならなかったのに。
——なのに、外から呼ばれた。
それは、奪う側が知っているということだ。
奪う側は、名の在処を知っている。名を削るだけではなく、名を“使う”ことができる。
師は、胸の内側に封筒がある場所を押さえた。
鍵付きの手紙。開けるための封印。
「露呈した」
師は短く言った。
「私の代償が、敵に知られた」
少年の指先が痺れる。
代償が知られる——それは、弱点が武器になるということだ。
師は、少年の目を見た。
「名前は、盾になる。だが同時に、刃にもなる」
少年は、宿帳の黒い染みを思い出す。
名を書こうとした瞬間、世界が食べた。食べたのは守るためだったのか、奪うためだったのか。どちらにせよ、名は“取引の札”になっている。
師は野営地の端へ歩き出し、少年も追う。
結界の縁。糸の張り。札の位置。支点の杭。師は点検するというより、確かめていた。ここに境界があることを。境界がまだ自分たちの側にあることを。
師が、札の一枚に指を触れた。
その瞬間、札が——ぱちりと、火花のように光った。
少年は反射的に身を引いた。
光は痛いほど冷たい。光の中心に、黒い欠けがあった。
欠けは、札の表面を削るのではない。
札に込められた意味——“結界を張る”という意味だけを、噛み砕いている。
「……来ている」
師が言う。低い声。
“核”がこちらを見ている。声だけじゃない。手が伸びている。
師は、少年の肩を掴んだ。
「今日の稽古だ。支点を置け」
「今、ここで……?」
「ここでだ。結界の縁で、崩れる前に覚えろ」
師の指が強い。強さが、少年の身体を支える。
少年は頷き、地面に膝をつく。胸の奥に杭を立てる。覚悟を立てる。
昨日より、怖い。昨日は稽古だった。今日は、敵の手が触れている。
少年が術式を組む。
糸が微かに光り、膜がふわりと立つ。
——その瞬間、外から、また声が届く。
「……——……」
今度は、師の名ではない。
少年の耳の奥が、ぞわりとする。呼ばれている気配がある。呼び名の輪郭だけが近づいてくる。
少年は呼吸を止めた。
止めても、声は侵入してくる。骨の内側に、言葉になりかけた“呼び名”が触れる。
師が少年の肩を強く掴み、言った。
「聞くな。——聞こえても、受け取るな!」
少年は胸の奥の杭にしがみつく。
名を受け取るな。名に触れるな。名を呼ぶな。名は今、敵の手に濡れている。
声が、はっきりと形を持ち始めた。
「——……おまえの、名を……」
名。
名を奪うのではない。名を“呼ばせる”。呼ばせた瞬間に、名が契約になる。サインがトリガーになるのと同じだ。言葉が署名になる。
少年の喉が、勝手に動いた。
呼び返したくなる。反射で返事をしたくなる。人は呼ばれたら返す。返すことで存在を確かめる。そこにつけ込む。
師が、少年の口元に手を当てた。
乱暴ではない。必死だ。師の掌が震えている。
「——声に返事をするな。返事は、契約だ」
師は、言い切ってから息を詰まらせた。
その表情に、少年は一瞬凍る。師自身が“契約”という言葉を知っている。知っているから怖れている。過去に何かがあった。戦友の手紙が、その何かに繋がっている。
膜が揺れた。
少年の支点が揺れた。怖れが杭を浮かせた。膜に裂け目が走る。
外の声が、裂け目を見つけたみたいに、鋭くなる。
「……——……言え。名を言え」
名を言え。
それは命令じゃない。誘惑だ。
言えば楽になる、と囁く。言えば“自分が自分だ”と確かめられる、と囁く。実際、少年は一瞬、そう思ってしまった。名を言えば、恐怖が消える気がした。
——違う。
名を言ったら、名が取られる。
取られたら、師と同じになる。いや、もっと悪い。師は代償として名を失っている。少年は奪われる。奪われた名は、敵の刃になる。
少年は、唇を噛んだ。血の味がした。
痛みが現実を引き戻す。
少年は胸の奥の杭を、もう一度打ち込む。
守りたいものを思い出す。師の手の温もり。宿帳の革の手触り。師の「よくやった」。
膜が、ぴんと張った。
裂け目が閉じる。糸が光を取り戻す。
外の声が、苛立ったように歪む。
呼び名が、違う音に変わる。人の声ではない。穴の声になる。
師が低く呟いた。
「……名が、武器になっている」
少年は頷いた。
言葉が出ない。出したら、声が入ってくる気がする。
そのとき、野営地の反対側で、小さなどよめきが起きた。
兵の一人が叫ぶ。
「結界札が……! 文字が消えていく!」
師が振り向き、走った。少年も追う。
札の表面から、術式の文字が“削られて”いく。風でも水でもない。意味だけが剥がれる。黒い欠けが、札を食べている。
師は歯を食いしばり、札を剥がして捨てた。
捨てた札が地面に落ちた瞬間、黒い欠けがふっと薄れる。だが薄れるだけだ。消えない。周囲の札に、同じ欠けが移っていく。
師が言った。
「狙いは……結界そのものじゃない」
少年は息を止める。
師は少年を見た。
視線が、少年の胸の奥を貫くみたいに鋭い。
「狙いは、“支点”だ」
支点。
つまり、術師。
つまり、師。
そして——弟子。
師は低く言った。
「今日から、外では名を使うな。呼ぶな。書くな」
少年は頷いた。
宿帳にすら書けない。名が、世界の外側に漏れた瞬間、刃になる。
師は一歩近づき、少年の額に指を当てた。
稽古のとき、支点を確認するときの癖。優しい癖。だが今は震えている。
「……そして」
師は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
詰まった理由がわかる。次の言葉が、残酷だからだ。
「もし、おまえの名が抜け始めたら——宿帳より先に、私に言え」
少年は、頷くしかなかった。
頷いた瞬間、胸の奥がきしむ。名が抜ける未来が、具体的な形で立ち上がる。
その夜、少年は宿帳を開き、名の欄を空白にした。
空白にしたまま、今日の出来事を書いた。書ける範囲だけを書いた。黒い欠けのこと。札が食われること。声が名を求めること。返事が契約になること。
そして最後に、少年は一行だけ書いた。
——「支点は移せる」。
その文字だけは、消えなかった。
消えないことが、救いのようで、呪いのようだった。
少年は筆を置き、ふと自分の指先を見た。
インクで汚れている。いつも通りの汚れ。
だが、指先の汚れの下に——
薄く、見慣れない線が浮かんでいた。
それは、文字になりかけた“何か”の痕。
まるで、肌に宿帳の黒い染みが移ったみたいに。
少年の背筋が凍る。
——これが、“抜け始め”なのか。




