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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第1章 名——戦場の拾いもの

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露呈——“名”が武器になる

その声は、結界の外から届いた。

空気を震わせる音ではない。耳に届く前に、骨の内側で鳴る声。昨日の「穴」と同じ質感の声だった。


師は欠けた地平を見つめたまま、動かなかった。

兵たちは気づいていない。気づけないのか、気づかされていないのか。焚き火の匂いと鉄の匂いの中で、師と少年だけが、その呼び名を聞いていた。


少年は喉が乾いて、唾が飲み込めない。

名を呼ばれることが、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。


師は、ゆっくりと息を吐いた。吐き方が、結界を張る前の呼吸だった。

戦場に立つ呼吸。支点を胸に据える呼吸。


「……聞こえたな」


師が言った。少年は頷くしかない。


「返事はするな」


「はい」


少年は短く答え、すぐに後悔した。

“はい”という音すら、この異質な空気の中では目立つ。名ほどではないが、言葉は痕跡になる。


師は見張り台の兵に、淡々と命じた。


「周辺警戒を強めろ。結界の縁を点検しろ。……今日の移動は取りやめだ」


兵は戸惑いながらも頷き、指示を回す。

指揮官としての師は、まだここにいる。まだ“型”が残っている。


少年は師の袖を掴んだ。掴まないと、師が遠くへ行ってしまいそうだった。


「師匠……さっきの声は」


師は一瞬だけ目を閉じた。

閉じたまま、言葉を選ぶ沈黙。


「戦友の声に、似ている」


似ている。

断言ではない。その曖昧さが、少年の背筋を冷たくした。


師は続けた。


「だが、声は“呼び名”を知りすぎている」


少年は息を呑む。

呼び名を知っていること自体が異常だ。師の名は、いま世界から削られているはずなのに。宿帳でも、宛名でも、文字にならなかったのに。


——なのに、外から呼ばれた。


それは、奪う側が知っているということだ。

奪う側は、名の在処を知っている。名を削るだけではなく、名を“使う”ことができる。


師は、胸の内側に封筒がある場所を押さえた。

鍵付きの手紙。開けるための封印。


「露呈した」


師は短く言った。


「私の代償が、敵に知られた」


少年の指先が痺れる。

代償が知られる——それは、弱点が武器になるということだ。


師は、少年の目を見た。


「名前は、盾になる。だが同時に、刃にもなる」


少年は、宿帳の黒い染みを思い出す。

名を書こうとした瞬間、世界が食べた。食べたのは守るためだったのか、奪うためだったのか。どちらにせよ、名は“取引の札”になっている。


師は野営地の端へ歩き出し、少年も追う。

結界の縁。糸の張り。札の位置。支点の杭。師は点検するというより、確かめていた。ここに境界があることを。境界がまだ自分たちの側にあることを。


師が、札の一枚に指を触れた。


その瞬間、札が——ぱちりと、火花のように光った。


少年は反射的に身を引いた。

光は痛いほど冷たい。光の中心に、黒い欠けがあった。


欠けは、札の表面を削るのではない。

札に込められた意味——“結界を張る”という意味だけを、噛み砕いている。


「……来ている」


師が言う。低い声。

“核”がこちらを見ている。声だけじゃない。手が伸びている。


師は、少年の肩を掴んだ。


「今日の稽古だ。支点を置け」


「今、ここで……?」


「ここでだ。結界の縁で、崩れる前に覚えろ」


師の指が強い。強さが、少年の身体を支える。

少年は頷き、地面に膝をつく。胸の奥に杭を立てる。覚悟を立てる。

昨日より、怖い。昨日は稽古だった。今日は、敵の手が触れている。


少年が術式を組む。

糸が微かに光り、膜がふわりと立つ。


——その瞬間、外から、また声が届く。


「……——……」


今度は、師の名ではない。

少年の耳の奥が、ぞわりとする。呼ばれている気配がある。呼び名の輪郭だけが近づいてくる。


少年は呼吸を止めた。

止めても、声は侵入してくる。骨の内側に、言葉になりかけた“呼び名”が触れる。


師が少年の肩を強く掴み、言った。


「聞くな。——聞こえても、受け取るな!」


少年は胸の奥の杭にしがみつく。

名を受け取るな。名に触れるな。名を呼ぶな。名は今、敵の手に濡れている。


声が、はっきりと形を持ち始めた。


「——……おまえの、名を……」


名。

名を奪うのではない。名を“呼ばせる”。呼ばせた瞬間に、名が契約になる。サインがトリガーになるのと同じだ。言葉が署名になる。


少年の喉が、勝手に動いた。

呼び返したくなる。反射で返事をしたくなる。人は呼ばれたら返す。返すことで存在を確かめる。そこにつけ込む。


師が、少年の口元に手を当てた。

乱暴ではない。必死だ。師の掌が震えている。


「——声に返事をするな。返事は、契約だ」


師は、言い切ってから息を詰まらせた。

その表情に、少年は一瞬凍る。師自身が“契約”という言葉を知っている。知っているから怖れている。過去に何かがあった。戦友の手紙が、その何かに繋がっている。


膜が揺れた。

少年の支点が揺れた。怖れが杭を浮かせた。膜に裂け目が走る。


外の声が、裂け目を見つけたみたいに、鋭くなる。


「……——……言え。名を言え」


名を言え。

それは命令じゃない。誘惑だ。

言えば楽になる、と囁く。言えば“自分が自分だ”と確かめられる、と囁く。実際、少年は一瞬、そう思ってしまった。名を言えば、恐怖が消える気がした。


——違う。


名を言ったら、名が取られる。

取られたら、師と同じになる。いや、もっと悪い。師は代償として名を失っている。少年は奪われる。奪われた名は、敵の刃になる。


少年は、唇を噛んだ。血の味がした。

痛みが現実を引き戻す。


少年は胸の奥の杭を、もう一度打ち込む。

守りたいものを思い出す。師の手の温もり。宿帳の革の手触り。師の「よくやった」。


膜が、ぴんと張った。

裂け目が閉じる。糸が光を取り戻す。


外の声が、苛立ったように歪む。

呼び名が、違う音に変わる。人の声ではない。穴の声になる。


師が低く呟いた。


「……名が、武器になっている」


少年は頷いた。

言葉が出ない。出したら、声が入ってくる気がする。


そのとき、野営地の反対側で、小さなどよめきが起きた。

兵の一人が叫ぶ。


「結界札が……! 文字が消えていく!」


師が振り向き、走った。少年も追う。

札の表面から、術式の文字が“削られて”いく。風でも水でもない。意味だけが剥がれる。黒い欠けが、札を食べている。


師は歯を食いしばり、札を剥がして捨てた。

捨てた札が地面に落ちた瞬間、黒い欠けがふっと薄れる。だが薄れるだけだ。消えない。周囲の札に、同じ欠けが移っていく。


師が言った。


「狙いは……結界そのものじゃない」


少年は息を止める。


師は少年を見た。

視線が、少年の胸の奥を貫くみたいに鋭い。


「狙いは、“支点”だ」


支点。

つまり、術師。

つまり、師。

そして——弟子。


師は低く言った。


「今日から、外では名を使うな。呼ぶな。書くな」


少年は頷いた。

宿帳にすら書けない。名が、世界の外側に漏れた瞬間、刃になる。


師は一歩近づき、少年の額に指を当てた。

稽古のとき、支点を確認するときの癖。優しい癖。だが今は震えている。


「……そして」


師は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

詰まった理由がわかる。次の言葉が、残酷だからだ。


「もし、おまえの名が抜け始めたら——宿帳より先に、私に言え」


少年は、頷くしかなかった。

頷いた瞬間、胸の奥がきしむ。名が抜ける未来が、具体的な形で立ち上がる。


その夜、少年は宿帳を開き、名の欄を空白にした。

空白にしたまま、今日の出来事を書いた。書ける範囲だけを書いた。黒い欠けのこと。札が食われること。声が名を求めること。返事が契約になること。


そして最後に、少年は一行だけ書いた。


——「支点は移せる」。


その文字だけは、消えなかった。

消えないことが、救いのようで、呪いのようだった。


少年は筆を置き、ふと自分の指先を見た。

インクで汚れている。いつも通りの汚れ。


だが、指先の汚れの下に——

薄く、見慣れない線が浮かんでいた。


それは、文字になりかけた“何か”の痕。

まるで、肌に宿帳の黒い染みが移ったみたいに。


少年の背筋が凍る。


——これが、“抜け始め”なのか。

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