鍵付きの手紙——封じた過去が開く
その手紙は、朝の糧秣箱に紛れていた。
木箱の隙間に差し込まれた薄い封筒。紙は固く、角が擦り切れ、いくつもの移動に耐えてきた匂いがした。封の蝋は古い。赤黒く乾き、指で押しても柔らかさがない。
少年は最初、誰かの私信だと思った。戦場には、そういうものがよく届く。
生きているうちに言えなかった言葉が、紙になって遅れてくる。
だが、封筒の表に書かれた宛名を見た瞬間、少年の指が止まった。
——師匠の名。
いや、正確には「名を書こうとした痕」がある。
宛名の部分だけ、インクが滲み、文字になりかけた輪郭が、途中で食われたように消えている。けれど、書き癖の角度と筆圧は、師の字だ。師の字で、師の名を書こうとして——書けなかった痕。
少年の喉が鳴った。
宿帳で起きたことが、ここでも起きている。名は文字にならない。名を狙うものがいる。世界が、名を回収している。
封筒の裏には、細い鎖が巻かれていた。鎖の先に、小さな鍵穴の付いた金具がある。
封を切って読むものではない。鍵で開けるものだ。
少年は師の荷を探し、革袋の奥から鍵束を見つけた。小さな鍵がいくつもぶら下がっている。武具箱の鍵、札の箱の鍵、薬箱の鍵。
その中に、見覚えのない鍵が一本だけあった。薄く黒ずんだ銀。柄の部分に、細い刻印。
少年は鍵を手に取ると、なぜか手のひらが冷えた。
この鍵は、今まで見たことがない。師が隠していたのか、忘れていたのか。あるいは——今朝、突然現れたのか。
少年は師の帳へ向かった。
師は、外の空を見ていた。
視線が遠い。けれど昨日よりは、焦点が合っている。少年はその“昨日より”にすがるように、封筒を差し出した。
「師匠。これが……」
師は封筒を見る。
見るのに時間がかかる。だが、昨日のように完全に迷わない。封筒の蝋封に触れ、鎖に指を滑らせ、鍵穴で止まった。
師の眉間が寄る。
痛みではない。記憶を探すときの顔だ。
「……それは」
師の声が途切れた。
少年の心臓が跳ねる。名が混じる気配がした。師が“それ”を何と呼ぶか。その呼び名の中に、失われるものが含まれている。
少年は先に言った。
「鍵付きの、手紙です。宛名は……」
少年は言いかけて、飲み込んだ。宛名は言えない。言えば、師の名がまた“無かったこと”になる気がした。
師は、少年を見た。
その目が、ほんの少しだけ柔らかい。
「言わなくていい」
師はそう言い、封筒を受け取った。受け取った指が、わずかに震えている。
震えているのは怖れなのか、寒さなのか、あるいは——自分の中で何かが崩れる予感なのか。
師は鍵束を取り、見覚えのない一本を選んだ。迷いが少ない。手が覚えている。
鍵穴に差し込み、回す。
かちり、と小さな音。
鎖がほどけ、金具が外れた。
封筒の口が開く。
中から、折り畳まれた紙が一枚。紙の端には、細い糸が縫い込まれている。糸は銀色で、触れると冷たい。術式の糸だ。
師が紙を開く。
少年は息を止める。
紙の上の文字は、最初の数行だけが“普通”だった。
そこから先が、異様だった。文字の一部が薄く欠け、ところどころに黒い染みがある。染みは、宿帳で見たものと同じ“食べる黒”だ。紙の上で、意味だけを噛み砕いている。
師は、読み始めた。
声に出さない。
出せば失う。出さなくても失う。ならば、せめて自分の中で読む。そう決めている顔だった。
読み進めるほど、師の目が狭くなる。
目の奥で、何かが刺さる。刺さったものを抜くために、師は紙を握り直す。握り直す指が白い。
少年は、読みたい衝動を堪えた。
覗き込めばいい。だが、覗き込むことが“侵入”になる気がした。これは師の過去だ。師が封じてきたものだ。
しばらくして、師が紙を閉じた。
閉じた瞬間、師の肩が落ちる。息を吐く。吐いた息が、重い。
「……誰からですか」
少年は聞いてしまった。
聞いた直後に後悔した。答えの中に、名が混じるかもしれない。混じれば、師は詰まる。詰まった瞬間を、また見てしまう。
師は少しだけ黙り、短く言った。
「古い、戦友だ」
戦友。
その言葉だけで、少年は鳥肌が立った。師の過去の“戦友”が、今になって鍵付きの手紙を寄越す理由。良い理由のはずがない。
師は紙をもう一度開き、今度は指で糸をなぞった。
糸が微かに光る。光り方が、結界の糸とは違う。膜を張る光ではない。隠す光。封じる光。
「これは……封印文だ」
師が言った。言い切った瞬間、喉がわずかに震えた。
封印文。師が得意とする領域。なのに、言葉に棘がある。触れたくない棘だ。
「封印、ですか」
「封じたままにするための文じゃない。……開けるための封印だ」
開けるための封印。
矛盾した言葉が、少年の胸を冷たくした。開けてはいけないものを、開ける必要があるときにだけ開けるための鍵。つまり、いまは“その必要”が来たということだ。
師は、紙の欠けた部分を指で押さえた。
黒い染みが広がっている。染みの中心は、穴みたいに“意味が無い”。意味だけが削られている。名前だけが削られている。
師は苦い顔をした。
「……名を狙っている」
少年の胸が締まる。
師も、気づいている。気づいているからこそ、口数が少ない。気づいているからこそ、教え方を変えた。消える前提で——。
「誰が」
少年が言うと、師は首を振った。
わからないのではない。言えないのだ。言葉にした瞬間、相手が“こちらを見返す”気がする。
師は立ち上がり、帳の外を見た。
野営地の端。木立の向こう。結界の外側に、まだ薄い欠けがある地平。
「災厄の核……」
師がぽつりと呟いた。
核。昨日まで少年は、その言葉を聞いたことがない。触手だの、穴だの、災厄だの——そういう現象の名前は知っていた。だが“核”という言い方は、中心があることを示している。中心があるなら、狙える。狙えるなら、戦いは変わる。
師は、言葉を選ぶように続けた。
「結界の外に……ある」
少年の背筋が冷たくなる。
結界の外。つまり、いま自分たちが守っているこの国の“境界”の外側。そこに核があるなら、いままでの戦いは“触手を払っていただけ”ということになる。中心は、まだ無傷でそこにある。
師は紙を折り直し、封筒に戻した。鎖を巻き直し、鍵で閉じた。
閉じる動作が、妙に丁寧だった。閉じなければ、何かが漏れる。閉じても、もう遅いのかもしれない。だが閉じる。型を守る。型しか、いまは頼れない。
「師匠。これ……どうしますか」
少年が尋ねると、師は封筒を胸の内側へしまった。
そして、少年を見た。
目が、まっすぐだ。
そのまっすぐさが、怖い。師が決断をした目だ。決断が、代償を伴うときの目だ。
「……準備をする」
それだけ言って、師は外へ出た。
少年は慌てて追い、師の歩幅に合わせる。合わせながら、宿帳を胸に抱え直す。記録が必要だ。今から起きることを、残さなければならない。
野営地の外れ、見張り台の近く。
師が足を止めた。風が吹く。旗が揺れる。兵がこちらを見て、敬礼をした。
師は敬礼を返さない。返さないのではなく、返し方を思い出すために一瞬迷った。
迷いを、少年だけが見てしまう。
その瞬間。
——結界の外から、声がした。
風に乗って届く、誰かの声。
耳ではなく、骨の内側に響く声。
「……——……」
最初は言葉にならない。
次の瞬間、はっきりと“呼び名”になる。
それは、師の名だった。
少年の喉が凍る。
呼び名が空気を切る。世界がその名を聞いた瞬間、どこかで黒い染みが広がる気配がした。
師の肩が、わずかに跳ねた。
師はゆっくり振り返る。結界の外——欠けた地平を見つめる。
そして、師は小さく息を吸い、声にならない声で呟いた。
「……まだ、生きていたのか」




