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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第5章 唯一性——英雄の型では守れない

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章末——喉に寄る影

短長短の合図は、三日で“習慣”になった。


朝の水汲みの前。

見張り交代の前。

火を散らす前。

寝る前の三呼吸のあと。


言葉が浮きかけたとき、人は指先で叩く。

短。

長。

短。


それだけで喉が落ち着く。

落ち着くほど、名が浮きにくい。

名が浮きにくいほど、薄い空気が育たない。



師は、合図を最初に覚えた。


覚えたというより、身体が先に反応した。

欠けた部分に、合図が“蓋”のように被さる。

蓋は封じではない。

封じれば中心ができる。中心は門。

合図は蓋ではなく、流し蓋だ。

欠けを一点に溜めないための、薄い流れ。


師の指先は、三角形を描かなくなった。

描きかけても止まる。

止まるたびに短長短。

短長短のたびに、欠けは生活へ落ちていく。


少年は、胸の杭が少し軽くなるのを感じた。

軽くなるのは油断でもある。

だが軽さが戻れば、次の危機が見える。


危機は、必ず“別の場所”に移る。


四日目の夕方、見張りの古参が戻ってきたとき、空気が一瞬だけ薄くなった。


薄さは広がらない。

広がらないのに、そこだけ冷える。

一点の冷えは門の芽だ。

芽は小さい。小さいほど見落とす。

見落とすほど育つ。


少年は気づいた。

古参の喉の動きが、わずかに不自然だ。


古参は返事をしない喉だ。

返事をしないから強かった。

強い喉ほど、狙われる。

歪みは強い場所に寄り添う。

強い場所を折れば、全体が崩れると知っているからだ。


古参が焚き火のそばに座り、水を含む。

含んだ水が、喉を通る音が妙に大きい。

大きい音は支点になる。

支点になれば、そこに薄さが集まる。


師が古参を見る。

視線が鋭い。

師の欠けは落ち着き始めている。

落ち着いた欠けは、外の歪みを嗅ぎ分けられる。


師が小さく息を吐いた。


「……喉だ」


師の声は短い。

短い言葉は危険だ。

だが今の短さは警告の短さだ。

返事を求めない短さ。


古参の喉が動く。

動いて、止まる。

止まった喉が、もう一度動く。

二度目の動きは、言葉になる動きだ。


「……」


音が出かける。

名が出かける。

名が出れば門が芽吹く。


少年は短長短を叩いた。


短。

長。

短。


師も縄を叩く。


短。

長。

短。


古参の指が、遅れて叩く。


短。

長。

短。


遅れ。

遅れは危険だ。

遅れは“間”を作る。

間は薄い。薄い間は歪みの住処。


古参の指が止まり、喉がまた動く。

今度こそ声が出る。


「——……な」


な。

最初の音。

名の最初の音。

その一音だけで、空気が薄く震えた。


野営地の端の草が、さっと白くなる。

白は灰色の前触れ。

灰色が戻りかける。

戻りかける場所は、古参の喉の真上ではない。

見張り台の陰。

荷の積み場の間。

つまり、薄さが“飛んだ”。


飛んだ薄さは、門の芽の移動。

芽が移動するということは、歪みが学んだということだ。

合図で止められる。

なら別の喉へ。

別の間へ。

別の場所へ。


少年は即座に合図を出した。

火を散らせ。

人を散らせ。

札を回せ。

水を分けろ。

密を作るな。

そして——合図を散らせ。


全員が短長短を叩く。

叩く音が重なる。

重なると危険だ。

危険だが、短時間なら“壁”になる。

壁は門ではない。

壁は入口を拒む。


古参の喉の震えが止まる。

止まった瞬間、古参の額に汗がにじむ。

汗は怖さの汗ではない。

喉を止めた疲労の汗だ。

喉を止めるのは筋肉だ。

筋肉は疲れる。

疲れれば次に崩れる。

だから、ここで終わりにしない。


少年は古参の前に水を置き、札を置き、縄を置いた。

日課の三点。

順序を外に置く。

外に置けば、喉の負担が減る。


師が古参へ向けて、声を使わずに短長短を叩いた。

古参が頷く。

頷きだけで通じる。

通じるなら名は要らない。


夜が更けるにつれ、野営地の“あちこち”が薄くなった。


井戸ではない。

窪地でもない。

見張り台の陰。

焚き火の間。

荷の積み場の隙間。

人と人の間。


歪みは、移動を加速している。

場所を特定させないために。

特定できなければ縫えない。

縫えなければ日課で散らすしかない。

散らすだけでは、いつか疲れる。

疲れた喉から名が出る。


師が少年を見た。

呼び名は出ない。

だが視線が言う。

——次は、日課だけでは足りない。


少年は欠けた空白を飲み込み、額へ手を当てた。

温度を作る。

温度を周囲へ広げる。

師を一点にしない。

皆を一点にしない。


そして少年は、静かに決める。


——歪みの移動を止める“根”が必要だ。

——余り糸の源へ戻らなければならない。

——締めた核の結び目、その結び目を“ほどかずに”整える道があるはずだ。


その決意を裏切るように、夜の端で——縫い跡が、ほんの一瞬だけ光った。


短い光。

短い光の向こうから、誰かが呼びかける気配。

呼びかけは声ではない。

それでも確かに“求める”もの。


「——……」


名ではない。

だが名になりかけている。


少年は短長短を叩いた。


短。

長。

短。


返事はない。

返事がないのに、光は消えた。


消え方が、門の消え方ではない。

逃げた消え方だ。

歪みが、学んでいる。


学んだ歪みは、次にもっと賢く戻る。


それが、第6章の始まりになる。

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