移動——欠けが門を組む
井戸が静かになった翌朝、野営地の空気は少しだけ軽かった。
軽い空気は、油断を呼ぶ。
油断は喉を緩める。
喉が緩めば言葉が浮く。
言葉が浮けば名が浮く。
名が浮けば、門が開く。
少年は油断を避けるために、日課を増やした。
朝の水。
縄を結ぶ。
札を押さえる。
三呼吸。
火の配置。
札の輪。
見張りの散り。
すべてを“声なし”で回す。
日課は面倒だ。
だが面倒さが支点を散らす。
面倒さが名を使う余裕を奪う。
奪われた余裕は、門を作らない。
師は焚き火のそばで、縄を結んでいた。
結ぶ癖は戻っている。
戻っているのに、指先が時々止まる。
止まった瞬間、師の目が井戸ではない場所を見ている。
見ている場所は、野営地の中心でも端でもない。
“間”だ。
物と物の間。
人と人の間。
火の熱と水の冷たさの間。
間は薄い。
薄い場所は歪みが宿る。
歪みが移動するなら、間に移る。
隊長が息を殺して近づき、少年へ符号札を見せた。
昨夜の見張り交代の記録。
名はない。
だが一つだけ、変な印がついている。
点が三つ。
三つの点が、小さな三角形になっている。
門の印だ。
少年の指先が冷えた。
誰が描いた。
札師でも隊長でもない。
なら——師か。
少年は師を見る。
師の指先が、無意識に同じ点を描いていた。
縄を結びながら、地面に三つ点を置く。
置いて、線で結びかけている。
型だ。
門の型だ。
師が無意識に、門を組み始めている。
欠けが、門を求めている。
欠けが、歪みに寄り添われている。
少年は近づきたくなる衝動を飲み込んだ。
近づけば錨になる。
錨になれば師が引かれる。
引かれれば、欠けが門になる。
少年は代わりに、配置を動かした。
火を半歩ずらす。
水を逆側へ。
札の輪を一段薄く。
見張り台の位置を変える。
配置の“間”を変える。
間を変えれば、歪みは掴みにくい。
掴みにくければ、欠けに寄り添えない。
師の指先が一瞬止まり、三つ目の点が打たれない。
止まったのは意志ではない。
場が変わったからだ。
場が変われば型が続かない。
少年は、さらに日課を増やす。
欠けを生活へ散らす。
散らして、門を作る暇を奪う。
少年は隊長へ合図し、師に“役割”を渡した。
水の分配の確認。
縄の点検。
札の回収。
どれも小さな作業だ。
小さいが、順序がある。
順序は外に残せる。
外に残せば、欠けが暴れても戻れる。
師は役割を受け取り、目を細めて札を見る。
見るだけで焦点が揺れる。
揺れは欠けの揺れ。
だが札に点線の順序が描かれている。
順序が、師を引き戻す。
師が水を数え、縄を結び、札を回す。
その間、指先は三角形を描かない。
描かないことが、今日の勝利だ。
昼過ぎ、井戸の底の声は戻らなかった。
戻らない代わりに、別の場所が冷えた。
見張り台の陰。
荷の積み場の“間”。
兵の通る道の“間”。
間が冷える。
冷える間が増える。
増えるのは、歪みが移動している証拠だ。
隊長が低く言った。
「移ってる」
少年は頷く。
井戸を日課に落としたことで、歪みは居場所を失った。
居場所を失った歪みは、次の薄い場所を探す。
薄い場所——欠けの近くへ。
欠けの近くに寄れば、門の型が組める。
門の型が組めれば、核の余り糸が通る。
通れば、新しい裂け目になる。
少年は決める。
逃げるだけではだめだ。
移動する歪みの“根”を探す。
根を見つけて、日課ではなく“縫う”必要がある。
少年は小隊行動を提案した。
小さな小隊。
名を使わない。
符号だけ。
携えるのは札と縄と水。
そして“音を立てない歩き方”。
歪みは音ではなく間に宿るが、雑な音は支点を作る。
支点ができれば歪みが寄る。
隊長が頷き、二人を選ぶ。
札師と見張りの古参。
古参は喉が堅い。返事をしない喉だ。
師は小隊に加わろうとして、一歩出た。
出た瞬間、指先がまた三つ点を打ちかける。
無意識の型。
欠けが門を組みたがっている。
少年は、師に別の役割を渡した。
野営地に残り、日課を回す役割。
“残る”という役割は、外へ出たい衝動を押し戻す。
押し戻せば、欠けが一点にならない。
師は一瞬だけ眉を寄せた。
悔しさか、焦りか。
だが次の瞬間、師は水を含み、縄を結び、札を押さえた。
日課が師を繋ぐ。
名ではなく、順序が師を繋ぐ。
小隊は夕方、野営地の外縁へ向かった。
捨てた灰色の区域の縁をなぞり、冷えた間を辿る。
間が冷える場所は、歪みの通り道だ。
通り道を辿れば、出口か根に当たる。
少年は先頭を歩きながら、自分の欠けを抱えた。
呼ばれ方が薄いまま、歩く。
薄いのに歩けるのは、日課が身体に残っているからだ。
身体の記憶は奪われにくい。
札師が地面に札を置き、点線の順序を描く。
足跡ではない。
“戻る順序”だ。
戻る順序があれば、迷っても名を呼ばない。
名を呼ばなければ、門は開かない。
古参が小さく頷く。
頷きだけで意思が通じる。
言葉は要らない。
言葉を要らなくすることで、歪みと戦う。
そして、灰色の縁のさらに外で——空気が、急に薄くなった。
薄さが一点に集まっている。
一点に集まった薄さは、門の芽だ。
少年は息を吸って吐き、指先の線を整えた。
——見つけた。
——余り糸の出口だ。
出口を見つけたということは、次にやるべきことはひとつ。
縫う。
日課で散らすだけでは足りない。
縫い目を締めるのとは違う縫い。
余り糸の出口を、生活の形へ編み直す縫い。
少年は、胸の杭を打ち直しながら、静かに型を組み始めた。




