支点——愛の形が、型になる
夜が明けても、空は薄い灰色のままだった。
野営地の端に立つと、地平の向こうがまだ少し欠けて見える。光が戻りきっていない——昨日の戦場に開いた「穴」が、完全には閉じていない証拠だ。
少年は朝の水を汲み、火を起こし、師の身支度を整えた。
それは“いつも通り”の形を作るための儀式だった。いつも通りがある限り、世界はまだ崩れていないと思える。
師は黙って湯を飲んだ。
飲むときの癖も、器を置くときの音も、かすかにいつもの師に似ている。けれど、目の奥が遠い。ここではないどこかを見ている目だ。
「……今日は、結界の稽古をする」
師が言った。声は低い。必要なことだけを切り出す声。
少年は頷く。頷くことで、胸の奥が少しだけ落ち着く。稽古は“型”だ。型は、心を支える。師がそう言った。
野営地から少し離れた、木立の陰。
そこに、簡易の結界陣を作る。地面の上に糸を張り、札を四方に置き、支点となる杭を一本だけ打つ。
師は手元を見つめ、少年の手順に合わせて頷いた。
少年は宿帳に書いた「札を置く順番」を思い出しながら、丁寧に進める。たった一つの順番が崩れただけで、膜は歪み、支点は揺れる。昨日、師が張った結界の軋みが、まだ指先に残っている。
準備が整うと、師は少年の前に立った。
「結界は、壁じゃない」
師はそう言い、指で地面の杭を示した。
「支点だ。支点を固定して、力の流れを作る。流れがあれば膜が張れる。流れが途切れれば——」
師は言葉を切る。
言い切ると、そこに余計なものが混じるのを怖れているみたいに。
少年は代わりに言った。
「崩れます」
師はゆっくり頷いた。
「そうだ。崩れる。……だから、支点が一番大事だ」
師は自分の胸を軽く叩いた。
昨日までの師なら「支点は、術師の中に置く」と、迷いなく言ったはずだ。けれど今の師は、その言葉を言い切らない。叩いた拳が、ほんの少し宙で迷っている。
少年はその迷いを見て、喉が乾いた。
支点が揺らいでいる。師の中の支点が——。
「やってみろ」
師が言った。
少年は頷き、呼吸を整える。手順は覚えた。指の形も、視線の置き場も、身体に染みている。
……でも、昨日から世界が違う。違う世界で同じ型が通用するとは限らない。
少年は指を立て、術式を組む。
言葉を口にすると、声が震えそうだったので、少年は声を出さない。出さなくても、型は動く。師が教えた通りに。
糸が淡く光り、札が風もないのに震える。
透明な膜が、ふわりと浮かび上がった。薄い膜。息を吹きかけたら破れそうな膜。
少年は杭を見る。
杭は地面に刺さっている。刺さっているのに、どこか頼りない。杭の周りの土が、少しだけ湿っているのが気になった。
——支点が固定されていない。
少年は気づき、膝が熱くなる。
昨日の戦場の泥が、ここにも残っている。地面が、まだ落ち着いていない。支点の土台が、昨日の「穴」の影響を受けている。
膜が揺れた。
揺れたのは風のせいじゃない。少年の胸の奥が揺れたからだ。怖れが、流れを乱した。
師が一歩、近づく。
助けようとする動き。いつもの師なら、ここで指を差し入れ、流れを整え、少年に「今のが違う」と言ってくれる。
師の指が、膜に触れかけた。
その瞬間、師の肩が小さく震えた。
触れたくても触れられないみたいに、指が止まる。視線が宙を泳ぐ。
少年の背筋が冷たくなる。
昨日の「君は誰だ」が蘇る。
——師は、支点の置き方を、忘れかけている。
「師匠……!」
少年が叫ぶより早く、膜が歪んだ。
透明な膜が、薄い布みたいに皺を寄せ、皺の中心から裂け目が走る。裂け目は音を立てない。音が戻ってきたはずなのに、裂ける音だけが無い。昨日の戦場の「穴」が、ここに触れている。
膜が破れた。
破れた瞬間、空気が吸い込まれる。
木々の葉が一斉にそちらへ引かれ、草が逆立ち、砂が宙へ舞った。少年の髪が引かれ、身体が前へ倒れそうになる。
少年はとっさに杭に手を伸ばした。
杭を掴み、引き抜いてしまう。引き抜いた瞬間、吸い込みが弱まった。支点が外れたことで、流れそのものが途切れたのだ。
草が元に戻り、砂が落ちる。
少年の膝が地面につく。息が苦しい。喉がひりつく。
師は、何も言わない。
言えないのではなく、言葉を探している顔だった。探して見つからない顔。
少年は立ち上がり、震える指で自分の胸を押さえた。
胸の中に、杭を立てるみたいに意識する。昨日、師がやっていた動き。あの感覚を、思い出す。
「……もう一度、やります」
声が掠れた。
師はゆっくり頷いた。頷くまでに、時間がかかった。頷くという動作だけが、残っている。
少年は地面を整えた。
杭を打ち直す。今度は深く。湿った土を避け、固い層に刺す。手のひらが痛い。痛いのに、それがありがたい。痛みは、現実だ。
札を置き、糸を張り、指を立てる。
呼吸を整える。胸の奥に杭を立てる。——支点を置く。
少年は目を閉じた。
暗闇の中で、師の声を思い出す。
『支点は、術師の覚悟だ。揺らげば膜が揺れる。揺らがなければ、膜は耐える』
少年は覚悟を探した。
昨日の夜、宿帳の文字が消えたときの恐怖。師が弟子の名を失ったときの絶望。
それでも、師の手がまだ温かかったこと。呼吸がまだここにあること。
——守りたい。
守りたいと思う瞬間、胸の奥に小さな熱が生まれた。
その熱が、杭みたいに立つ。揺れそうだった心が、少しだけ固定される。
少年は目を開け、術式を組んだ。
糸が光る。
札が震える。
膜が浮かぶ。昨日より少し厚い。先ほどより確かだ。
少年は自分の胸の熱を、膜へ流す。
流れる感覚がある。血が指先へ流れるみたいに、力が膜へ向かう。
膜が、ぴんと張った。
木々が静かになる。
草が揺れるのをやめる。風が止んだわけではない。膜が外の揺れを受け止めている。
少年は息を吐いた。
吐いた瞬間、支点が少し揺れた。膜がかすかに波打つ。少年は慌てて息を整える。息の仕方ひとつで、膜は揺れる。結界は繊細だ。だが——崩れない。
師が、初めて息を飲む音を立てた。
その音だけが妙に鮮明だった。
「……できたな」
師が言う。
少年は頷いた。頷きながら、涙が出そうになるのを堪えた。喜びよりも、怖れが先に来る。今の成功が、師の“代わり”になってしまうのではないかという怖れだ。
師が近づき、膜の縁に手を伸ばした。
先ほど止まった指が、今度は止まらない。膜に触れる。膜が指を弾かず、受け止める。師は静かに頷いた。
そして師は、少年の胸の辺りを見た。
見るのが怖い。見られるのが怖い。そこにあるのは、弟子の支点だ。師の支点ではない。
「支点を……胸に置いたな」
「はい。師匠が教えてくれた通りに」
少年は言った。
“教えてくれた”という過去形が、胸を刺す。師が今それを覚えていないかもしれないのに、過去形でしか言えない。
師は黙って、膜を見つめる。
そして、小さく笑った。英雄の笑い方ではない。師の笑い方だ。
それだけで、少年の胸が熱くなる。
「……いい」
師は短く言った。短い言葉で十分だった。
少年は泣きそうになるのを堪え、膜を静かに畳む。結界を解く。糸の光が消え、札が静まり、世界が普通に戻る。
普通。
普通が戻ることが、こんなにもありがたいなんて、昨日まで知らなかった。
帰り道、師はほとんど喋らなかった。
喋らないというより、言葉を節約しているようだった。必要なことだけを言う。余計なものが混じるのを避ける。混じった瞬間に、何かが奪われるのを知っている。
野営地の入り口で、師が立ち止まった。
少年も立ち止まる。
師は少年を見た。
目の焦点が、ちゃんと合っている。合っているだけで、少年は救われる。
「……次は」
師が言い、そこで一瞬、喉が動いた。
言葉が詰まる兆し。少年の心臓が痛い。
師は息を吸い直し、言い直した。
「次は、私が消える前提で教える」
その言葉は、冷たくも温かかった。
冷たいのは現実だからだ。温かいのは、師がまだ“教える”ことを捨てていないからだ。
少年は頷いた。
頷くしかなかった。頷かないと、崩れる。支点が揺れる。
「はい、師匠」
少年は言い、名を呼ばなかった。
名を呼べないからではない。名を呼ぶには、まだ早いからだ。名を取り戻すために、今は型を積み重ねる。
——愛の形を、型にする。
少年は宿帳を胸に抱え、野営地へ戻った。
焚き火の匂いがした。兵の笑い声がした。日常の匂いと音がした。
その中で、少年はひとつだけ、確信していた。
支点は、移せる。
それは救いであり、同時に、最悪の予告でもあった。




