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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第4章 露呈——『私は何?』

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最後の縫い——錨にさせない

縫い跡の前で、空気が薄くなっていた。


薄いのは霧のせいではない。

核が近い。

核が近いほど、世界は名を欲しがる。

名を欲しがるほど、人は喉を動かす。

喉が動けば返事が出る。

返事が出れば糸が通る。


師は縫い跡の手前で止まり、息を吸って吐いた。

胸、喉、指先。

支点を散らす。

散らしても、英雄印本体はひとつ。

ひとつのものは狙われる。

狙われるからこそ、手放さずに終わらせるしかない。


師は弟子——少年を見た。

視線が止まる。

止まるのに、呼び名が出ない。

呼び名が出ないまま、温度だけが残っている。


師は、声を使わずに合図した。

輪を保て。

配置を崩すな。

火を散らすな。

沈黙を守れ。


少年は頷いた。

頷きの中で、欠けた呼ばれ方の空白が痛む。

痛むほど、名を言いたくなる。

言いたくなるほど、言わないことが支えになる。


師は外へ出た。


縫い跡が開く。

開く瞬間、冷たい匂いが吸い込まれ、薄い世界が現れる。

師はそこへ踏み込み、縫い目へ向かって走った。

核の声は、もう遠回りをしない。


「——印」


一本の要求。

一本だから強い。

一本だから引く。

引かれる感覚が、胸の奥から指先へ走る。

英雄印が、核へ向かって動く。


師は息を吐き、英雄印本体を“鍵”として立てた。

鍵穴は、前に見つけた縫い目の中心。

影ではない。

今回は本体を差し込む。

差し込むが、渡さない。

差し込んだまま、扉を閉める。


師が指を縫い目へ当てた瞬間、核がうねった。

うねりは風ではない。

意味の引力だ。

引力が師の胸を引き裂こうとする。

印を抜こうとする。

抜けば核は勝つ。

抜かせない。抜かせなければ扉は閉じる。


師は、回した。


ほんの僅かな回転。

だが縫い目は反応した。

縫い目が締まる。

締まるほど引力が強くなる。

強くなるほど、師の中の何かが裂ける。


裂けたのは、記憶だった。


勝利の歓声が欠けた場所から、さらに裂け目が広がる。

英雄と呼ばれた日々。

守る型を編んだ夜。

弟子の額に触れた朝——その輪郭が薄くなる。


師の膝が落ちそうになる。

落ちれば支点が一点に集まる。

一点に集まれば錨になる。

錨になれば核が印を抜ける。

抜かれる。


その瞬間、内側で——輪が締まった。


内側では、少年が配置支点を“最後の支点”へ変えていた。


輪を保つ。

だが保つだけではない。

輪を“支える”のではなく、輪で“支える”。


少年は火の輪を二重にし、札の輪を三重にした。

水を輪の外へ置き、熱を輪の内へ集める。

熱は引力に抵抗する。

引力は冷たい。冷たいものは熱でほどける。

それが少年の直感だった。


兵たちは沈黙を守った。

沈黙が守られるほど、輪は形として強くなる。

形が強くなるほど、支点は人ではなく配置へ移る。

配置へ移れば、誰も錨にならない。


少年は自分の額に手を当てた。

温度を作る。

温度は繋がりだ。

名で繋がれないなら、温度で繋ぐ。


少年は息を吸って吐き、胸の杭を散らしながら“切る型”ではなく“支える型”を組んだ。

支える型は、引力に対して逆向きの糸を張る。

糸の先を師へ繋ぐのではない。

師の周囲の空気へ繋ぐ。

空気を支えれば、師が一点にならない。

一点にならなければ、錨にならない。


輪が、見えないまま震えた。

震えが外へ伝わる。

外で引かれている師の周囲の空気が、わずかに“踏ん張る”。


外側で、師の膝が止まった。


止まったのは意志だけではない。

周囲の空気が支えている。

支えているのは弟子ではない。配置だ。輪だ。形だ。

弟子は錨にならずに、師を支えている。


師は息を吐き、もう一度回した。

縫い目がさらに締まる。

締まるほど、核の引力が悲鳴になる。

悲鳴は声ではない。

意味の崩れる音だ。


「——印!」


核が最後の要求を突きつける。

引力が最大になる。

師の胸の奥が、引き剥がされる。


師は、最後の選択をした。


——印を渡さない代わりに、印の“外縁”を削る。


本体の中心は渡さない。

だが外縁を削れば、引力が滑る。

滑れば抜けない。

抜けなければ回せる。

回せば閉じる。


外縁を削る代償は、英雄の型の一部だ。

守りの誓いの輪郭が欠ける。

欠ければ、師は英雄としての“完璧な型”を失う。

だが完璧は要らない。

弟子が生きるなら、型が欠けてもいい。


師は息を吐き、外縁を切り落とした。

切り落とした瞬間、胸の奥が冷える。

冷えと同時に、核の引力が一瞬だけ緩む。


その緩みを逃さず、師は回し切った。


縫い目が、締まった。

締まりきった。

裂け目の中心が、きゅっと結ばれる。

結ばれた結び目は、もう広がれない。

広がれないなら、門は開けない。

開けないなら、名を要求できない。


世界が、ほんの少し濃くなる。

灰色が薄まり、空の穴が遠のく。

森の緑が戻る気配がする。


核の声が、途切れた。


途切れた声は怒りにもならず、嘆きにもならず、ただ沈黙になった。

沈黙は、契約の終わりだ。


内側で、輪の震えが止まった。


火が爆ぜる音が、はっきりする。

虫の声が戻る。

人の息が戻る。

濃い世界が戻る。


少年は輪を解かない。

解かずに、ゆっくり散らす。

散らして薄くする。

薄くして、嗅がれにくくする。

終わったあとが一番危ない。

終わったと思った瞬間、喉が動く。

喉が動けば名が出る。

名が出れば、残り火が噛む。


縫い跡が開き、師が戻ってきた。


師は立っている。

立っているのに、目が遠い。

遠いのは疲労ではない。

外縁を削った代償で、記憶の輪郭が欠けている。


師は少年を見て、言った。


「……よく、守った」


“おまえ”ではない。

名でもない。

それでも言葉として届く。

呼び名が欠けても、届く言葉がある。


少年の胸が熱くなる。

熱くなるほど、泣きそうになる。

泣けば楽になる。

だが泣けば、名を呼びたくなる。

名を呼べば、残り火が噛む。


少年は息を吸って吐き、泣かずに頷いた。


師は続けた。


「……私は、少し欠けた」


欠けた、と師は自分で言う。

言えるのは、まだ自覚があるからだ。

自覚がある限り、崩れきらない。


少年は自分の額に手を当てた。

温度だけを返す。

温度が繋がりになる。


師はその動きを見て、わずかに眉を寄せ、そして——ほんの少しだけ笑った。


笑いは昔のままではない。

だが笑いが残っている。

残っているなら、終わりではない。

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