締まる縫い目——嘘の匂い
内側の灰色は、夜明け前に一度だけ“息を止めた”。
吸って広がり、吐いて止まる——その呼吸みたいな増え方が、ぴたりと止まる。
止まった瞬間、野営地の空気が少しだけ濃くなった。
虫の声が戻り、焚き火の爆ぜる音がはっきりし、土の匂いが近づく。
濃さが戻るほど、皆の喉が楽になる。
少年は配置の支点を崩さないまま、見張りを交代させた。
符号札を回す。
火の輪を維持する。
水を分ける。
荷を結び直す。
形で守る。名で守らない。
それでも、胸の奥の穴は埋まらない。
確かさを削った代償。
いま何をしたか、瞬間的にわからなくなる怖さ。
その怖さが、次の名を呼びたくさせる。
名で自分を確かめたくなる。
確かめた瞬間に奪われるのに。
少年は息を吸って吐き、欠けを“生活の作業”に埋めた。
札を見る。位置を確認する。順番を外に残す。
外に残せば、内側から抜かれにくい。
内側に刻むな。刻めば門になる。
灰色が止まったのは救いだ。
だが救いは、必ず代償の形で残る。
少年はそれを知っている。
知っているから、救いを信じすぎない。
外側では、核が静かに脈打っていた。
封筒は核の縁に置かれたまま、薄い影をまとっている。
影は英雄印の本体ではない。
だが核は“本体の器”だと信じ込んだ。
信じ込んだ以上、今すぐには奪わない。奪えば契約が割れると恐れる。
嘘が効いている。
効いている間に、縫う。
師は核の縫い目へ指を当てた。
声は出さない。
型だけで、結び目の中心を探る。
縫い目の中心は、冷たい。冷たいのに熱い。
凍った火みたいな感触が、指先の骨を震わせる。
師は支点を散らす。
胸、喉、指先。
散らしながら、指先に集中しすぎない。集中は支点を太くする。太くすれば核に嗅がれる。
核は匂いで契約を読む。匂いが太れば、嘘がばれる。
師は“影”の糸を、縫い目へ通した。
英雄印の本体ではない。
本体の影。
影は薄い。薄いほど、縫い目の隙間に入る。
縫い目が、わずかに締まった。
締まる音はしない。
だが世界が少しだけ“戻る”感覚がある。
色の輪郭が一段濃くなり、空の穴の色が薄まる。
薄まるほど、核の飢えが一瞬だけ弱くなる。
師は息を吐き、さらに縫う。
縫い目を一本締める。
締めれば裂け目が縮む。
縮めば内側の圧力が減る。
弟子が払う代償が減る。
師は、弟子の額の温度を思い浮かべる。
名ではない。温度。
温度が浮かぶだけで、胸が痛む。
痛むのは、封筒に影を移した代償が効いているからだ。
師の中の“弟子の輪郭”が、薄くなりかけている。
薄くなる前に、終わらせる。
師は縫い目の中心へ、最後の糸を通した。
通した瞬間、核が大きく脈打った。
脈打ちは怒りかもしれない。満足かもしれない。
どちらでもいい。縫い目が締まるなら。
裂け目が、確かに縮んだ。
縮んだ瞬間、遠くのどこかで——“濃さ”が戻る気配がした。
内側だ。
弟子の配置支点が、楽になる。
師は一瞬だけ目を閉じた。
閉じた目の奥で、勝利の歓声が思い出せない空白が疼く。
英雄印の角を切り落とした欠け。
封筒へ影を移した欠け。
欠けは積み重なる。
積み重なった欠けが、師を師でなくしていく。
だが今は、縫い目が締まった。
それが成果だ。
内側では、灰色がわずかに“引いた”。
引く、というより、縁が後退した。
捨てた区域は戻らない。戻らないが、野営地を飲み込む勢いは鈍った。
兵たちの肩が少し落ちる。
落ちた肩が、やっと眠りに近づく。
少年は見張り台の下で、札を数え直した。
数える途中で、一瞬だけ数字が飛ぶ。
飛んだ数字を、札の位置で補う。
外に残せ。内側に刻むな。
そうやって、自分の欠けと付き合う。
隊長が少年へ近づき、短く頭を下げた。
言葉はない。
だが感謝の形はある。
形が残るなら、名がなくても生きられる。
少年は胸の杭に手を当てる。
欠けた確かさは戻らない。
けれど“守れた”という事実は、配置の形として残っている。
形が残る限り、終わりにはしない。
外側で、核が再び脈打った。
今度の脈打ちは、少し違う。
飢えの脈打ちではなく、嗅ぎ分けの脈打ちだ。
核は満足していない。
核は“味の違い”に気づき始めている。
封筒の影。
英雄印の影。
本体ではない匂い。
影——戦友の顔をした案内人が、封筒を見て、ゆっくり笑った。
「……嘘の匂いがする」
師の背筋が凍る。
凍ったのに、返事はしない。
返事をした瞬間、嘘が固定され、割れる。
影は続けた。
「だが縫い目は締まった」
締まった。成果は出た。
だからこそ次が来る。
核は“次の支払い”を要求する。
嘘がばれれば、本体か弟子かの二択が戻る。
師は息を吸い、吐き、支点を散らした。
胸、喉、指先。
散らしながら、封筒を手に取る。
封筒を取った瞬間、核が小さく脈打った。
奪われたくない。
奪われたくないからこそ、核は追ってくる。
師は歩き出した。
最短で戻る。
内側へ。弟子へ。
戻るまで、嘘を嘘のまま保つ。
影の囁きが、背後から追いかけてくる。
「次は、本体だ」
内側で、縫い跡が一瞬だけ光った。
傷の光。
師が戻る合図か、核が追ってくる合図か。
どちらでも、次が来る。
少年は息を吸って吐き、配置支点をもう一度確認した。
火の輪。
札の輪。
水の分配。
見張りの散り。
人の沈黙。
そして胸の杭に、欠けた確かさの穴を抱えたまま刻む。
——次は、嘘が割れる。
——割れる前に、支点を選び直す。
呼ばれ方の端が欠けた口の中に、冷たい決意の味が残った。




