限界——本体を差し出すな
内側の膜は、目に見えないまま軋んでいた。
見えないものが軋むとき、わかるのは人の身体だ。
喉が乾く。皮膚が冷える。耳鳴りがする。
そして何より——言葉が浮く。
言葉が浮くのは、名が浮く前兆だ。
少年は符号札を回しながら、兵の視線の揺れを拾っていた。
揺れは小さい。
だが小さい揺れほど、裂け目の入口になる。
入口が一つでも開けば、一本の糸が通る。一本あれば十分。
灰色の木立——捨てた区域が、今日も灰色のまま残っている。
閉じ込めたはずの呼び声が、膜の縁に溜まっている。
溜まった声は、圧力になる。
圧力は、弱い場所から漏れる。
漏れたのは、夕刻だった。
焚き火が増え、見張りが交代し、兵の気が緩む時間。
気が緩むと、喉が動く。
喉が動くと、返事が出る。
返事が出ると、外が笑う。
見張りの一人が、ふっと立ち上がった。
歩き出す。灰色の木立へ。
目が焦点を失っている。眠いのではない。呼ばれているのだ。
少年は合図を出した。
止めろ。
距離を取れ。
声を使うな。
手で押さえろ。
二人が走り、見張りの肩を掴む。
だが見張りは抵抗しない。抵抗しないのが怖い。
抵抗しないのは、自分の意志が薄い証拠だ。
薄い意志は外に溶けやすい。
見張りの唇が動いた。
「……呼ばれ……」
呼ばれ——
その先に名が来る。名を言えば契約が完成する。
少年は近づきたくなる衝動を、胸の杭で叩き潰した。
衝動で近づけば、自分が支点になる。
支点になれば錨になる。
錨になれば師を引く道具になる。
——それだけは嫌だ。
少年は距離を保ったまま、型を組んだ。
切る型。
守る糸で奪う糸を縫い潰す型。
だが今回は個人ではない。区域が呼ぶ。区域の糸が太い。
太い糸を切るには、代償も太い。
少年の指先の線が熱くなる。
熱が白に近づく。
白は欠けの色だ。
欠けたものは戻らない。
少年は選ぶ。
——時間では足りない。
——呼ばれ方の端では足りない。
——払うのは、“自分の確かさ”だ。
確かさ。
自分が自分だと確かめるときに使う、内側の支点。
それを少しだけ削る。
削れば名は守れる。
削らなければ、見張りが名を言い、区域が開き、全体が裂ける。
少年は息を吸い、吐き、型を完成させた。
膜が、境界に沿って一瞬だけ銀糸のように光った。
光が走り、灰色の木立へ向かう見張りの足元で止まる。
止まった瞬間、見張りの喉の動きが止まった。
だが見張りの目から、光が抜ける。
抜けた光は涙になるのではない。
“理解”が抜けたような顔になる。
「……ぼく……は……」
言葉が、続かない。
続かないのは救いだ。
同時に恐怖だ。
自分の言葉が続かない人間は、名が薄い。名が薄いほど外に溶ける。
少年の胸に冷たいものが落ちた。
——いま、何を払った?
少年は瞬間的にわからない。
わからないこと自体が、払った証拠だ。
確かさを削ると、払った事実の輪郭も薄くなる。
札師が駆け寄り、符号札を見張りの手に握らせた。
握らせることで、役割を固定する。
役割は名の代わりになる。
少年は喉を押さえた。
名を言いたい衝動がある。自分を確かめたい衝動がある。
だが言えば終わる。
終わりにしたくない。
だから言わない。
少年は、合図を出した。
灰色の木立を——さらに捨てる。
捨てる範囲を広げ、膜の圧力を逃がす。
罪を背負ってでも、全体を守る。
地面に薄い線が走る。
灰色が広がる。
灰色が広がるほど、野営地は狭くなる。
狭くなるほど、人が密になる。
密になれば支点が太る。
限界が見える。
限界が見えるのに、目を逸らせない。
外側では、裂け目の道がさらに細くなっていた。
師は核の入口を越え、薄い通路を進む。
通路の両側は色がない。色が欠けている。
欠けが壁になり、壁が“静けさ”になる。
静けさの中心に、核があった。
核は球でも石でもない。
核は“縫い目”だ。
縫い目が集まり、結び目になり、結び目が世界の中心として脈打つ。
脈打つたび、名が欲しいと囁く。
影が核の手前に立ち、師を振り返った。
「ここで、終わる」
終わる。
終わらせるために来た。
だが影の言う終わりは違う。
師の終わりだ。英雄印を抜く終わりだ。
影が囁く。
「本体を」
英雄印の本体。
唯一の名。
名を失っても残る印。
守りの核。
核が、声のない声で同じ要求をする。
「——……印」
師の胸が痛い。
差し出せば核に届く。届けば裂け目を縫えるかもしれない。
差し出せば門は閉じるかもしれない。
だが差し出せば、守る型が消える。英雄印が抜ける。
英雄印が抜けた英雄は、何で守る?
影が甘く言った。
「差し出せば、内側は助かる」
内側。弟子。野営地。
その言葉が師の喉を押す。返事をしたくなる。
返事は契約。契約は印の譲渡になる。
師は息を吸い、吐き、支点を散らした。
胸、喉、指先。
だが散らしても、本体は一つだ。印は一つだ。
一つのものは狙われる。
師は思い出そうとする。
払った勝利の記憶。
すでに欠けた。
欠けた分だけ、印は薄くなった。
薄くなった分だけ、差し出しても“自分が消える”痛みが少し遠い。
——その遠さが危険だ。痛みが遠いほど、差し出しやすい。
師は弟子の顔を思い浮かべた。
名ではない。温度。額に触れた指の温度。
温度は残っている。残っている限り、師は師でいられる。
核が、さらに強く要求した。
「——印」
師の胸の奥が、引かれる。
英雄印そのものが、核へ向かって動く。
印が引かれる。印が抜ける。
抜けた瞬間、師は“守る型”を失う。
師は、決めた。
——本体は渡さない。
——渡すのは、“本体の欠片”だ。
弟子がやったように。
名の端。時間の一枚。確かさの欠片。
本体を守るために、欠片を切り落とす。
師は指を立て、声を出さずに型を組む。
英雄印の輪郭を、三角形の縁へ落とす。
落とすのは印の全体ではない。
印の角の一つ——“守りの誓い”の角。
角を落とせば、誓いの一部が欠ける。
欠けた誓いは戻らない。
だが本体は残る。残れば守れる。
師は息を吐き、角を切り落とした。
胸の奥が、ひどく冷える。
冷えと同時に、核が満足したように脈打つ。
裂け目の縫い目が、わずかに締まる。
世界の薄さが、ほんの少しだけ濃くなる。
影が目を細めた。
「……欠片か」
核は欠片で満足するのか。
満足するなら、道は開く。
満足しないなら、次は本体を要求する。
核が、次の要求を出す前に——内側から、ひやりとした揺れが伝わった。
師の背筋が凍る。
糸は切ったはずだ。
だが英雄印の角を切り落とした瞬間、匂いが変わった。
匂いの変化は、内側の揺れと共鳴する。
核が、嬉しそうに脈打つ。
「——……内」
内側を嗅いだ。
弟子が払った代償。灰色の拡がり。支点の密度。
核はそれを“次の支払い”として見ている。
影が、静かに笑った。
「繋がったな」




