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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第1章 名——戦場の拾いもの

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宿帳——忘却に抗う記録

少年は、その夜から眠らなくなった。


正確には、眠ってもすぐ目を覚ます。焚き火の爆ぜる音に。風が幕を叩く音に。誰かが寝返りを打つ擦れに。

そして何より——幕の向こうで、師が咳をする気配に。


師は横になっていた。怪我ではない。血も出ていない。なのに、呼吸が浅い。額に薄く汗が浮き、まぶたの裏で目が忙しく動く。夢を見ているのだろう。夢の内容が何であれ、そこには「失われたもの」がある。


少年は水袋を濡らし、布を絞って師の額に当てた。

手順は、師が教えた。熱を持った身体には冷やしすぎないこと、汗を拭き取ること、眠りを邪魔しないこと。


教えた本人が、今はそれを覚えていないかもしれない。

そう思うだけで、少年の指は震えた。


「……師匠」


小さく呼び、反応がないのを確認して、少年は唇を噛んだ。

呼び名で呼べば大丈夫だ。名で呼べば、師が返せない。師が返せない瞬間を、自分が見てしまう。見たくない。だが、見ないわけにもいかない。


外では兵たちが、勝利の酒を分け合っていた。

勝利の歌は遠い。音は戻っているはずなのに、少年の耳には薄い膜がかかっているみたいに聞こえた。戦場の「穴」が、まだこの地に残っている。いや、もっと近い。師の胸の奥に残っている。


少年は立ち上がり、帳の隅に置かれた師の荷を見た。

きちんと畳まれた布、研がれた短剣、結界に用いる札と糸。そこに、革紐で綴じられた一冊の小さな帳面がある。


宿帳。

野営地ごとに、兵の人数や糧秣を記し、事故や怪我を記し、次に備えるための記録帳だ。師はそれを、いつも「雑用の塊」と笑いながらも、決して手放さなかった。


『戦場で一番信用できるのは、記憶じゃなくて記録だ』


師が言った言葉が、少年の中に残っている。

その言葉だけは、消えないでほしい。消えたら、もう何も掴めなくなる。


少年は宿帳をそっと開いた。

紙の匂いがした。インクの匂いがした。木の皮を煮出したような、乾いた匂い。そこには、師の字が並んでいる。戦況の整理、結界の消耗、兵の配置。読みやすい。迷いがない。書いた瞬間、その人の心が整っているとわかる字だった。


——この字を書いた人は、今、ここにいる。

なのに、その人は、自分の名を言えない。


少年は小さく息を吸った。

息を吐くと、胸の奥の震えが少しだけ落ち着く。


ページの空白に、少年は線を引いた。

今日の日時。野営地の場所。戦闘の概要。いつものように、師が書いてきた形式に倣う。形式を真似ることは、支えになる。型は人を支える——師が教えた。


そして最後に、少年は迷った。


「指揮官」でも「結界術師」でもなく、ここに書くべきもの。

師の名。


少年は筆を取って、紙の上に止めた。

心臓がうるさい。焚き火の音よりも大きく、自分の耳の奥で鳴る。


書けば、固定できる気がした。

名を文字にすれば、師が失っていくものの一部を、ここに留められる気がした。


それは祈りだ。

理屈ではない。だが理屈が通らない世界で、少年ができることは祈りしかない。


筆先が紙に触れた。


最初の一画を書き始めた瞬間、インクが滲んだ。

滲み方が異常だった。紙が濡れているわけでも、筆に水が多いわけでもない。文字の輪郭が、描かれたそばから「ほどける」。


少年の背筋が冷えた。


それでも書く。

息を止め、手首に力を込め、最後まで書く。名を、最後まで——


書き終えた。

……はずだった。


文字が、そこにない。


紙の上には、黒い滲みだけが残っている。

文字の形になりかけたものが、形を持つことを拒むように、ただの染みになって、薄く広がっていく。


「……なんで」


少年は声を出してしまい、慌てて口を押さえた。

師が身じろぎする。苦しそうに眉間が寄る。少年は急いで宿帳を閉じた。閉じたところで、滲みは消えない。消えないが、見なければ、少しだけ呼吸ができる。


少年は、帳の外へ出た。


夜風が冷たい。空には星が少ない。

焚き火の周りで兵たちが笑っている。その笑いが、少年には遠い。戦場の勝利は確かにここにあるのに、少年の足元だけが別の場所に立っているみたいだった。


少年は、水場へ向かった。

井戸の縁に手を置き、冷たい水で顔を洗う。冷たさが、頭の中の熱を少しだけ引く。


そして、少年はもう一度考える。

名が消えるのは、師の代償だ。勝つたびに、師は何かを差し出す。

ならば、名も記憶も、勝利の対価として「世界が回収する」ものなのか。


——回収されるなら、回収されない場所を作ればいい。


少年は宿帳を抱え直し、戻る道を急いだ。

焚き火の兵に声をかけられたが、笑って誤魔化した。今は、笑う場合じゃない。


帳に戻ると、師は目を開けていた。

半身を起こし、ぼんやりと焚き火の光を見ている。目の焦点が合っていない。まるで、ここがどこかを探している。


少年は喉が鳴るのを感じながら、師の前に座った。


「師匠……水、飲めますか」


師は少年を見る。

見るのに、時間がかかる。目が少年を捉えるまでに、ひとつ、ふたつ、瞬きが挟まる。


「ああ……」


師は短く返事をした。短くないと危ないのだ。余計な言葉を出すと、その言葉の中に「名」が紛れ込む。紛れ込んだ瞬間、師は詰まる。少年はそれを知ってしまっている。


少年は水を渡し、師が飲むのを見守った。

師の喉が上下する。その動きが「生きている」ことを示している。少年はそれだけで、胸が少しだけ軽くなる。


師は水を返し、空になった水袋を見つめた。

見つめたまま、ぽつりと言った。


「……君は」


少年の心臓が跳ねた。

名を呼ばれるかもしれない。呼ばれたら、師が詰まるかもしれない。詰まる瞬間を、少年が見てしまう。


師の口が、わずかに動く。

言葉が出る前の、ためらいの形。まるで、暗闇の中で扉の鍵穴を探しているみたいな沈黙。


少年は、先に言った。


「僕は、弟子です。師匠の弟子。……今日も、支点を守りました」


師は眉をわずかに動かし、頷く。

頷き方が、いつもの師に近い。少年は息を吐く。


「よくやった」


師はそれだけ言って、目を閉じた。

眠りに落ちるのではなく、目を閉じて「考える」ための動作だ。師がよくやる癖。つまり、師の中にまだ「癖」が残っている。それが希望だ。


少年は、宿帳を開いた。

今度は、名を直接書かない。


紙の上に、線を引く。

「師匠」という呼び名。

「結界を張る者」。

「勝つたびに何かを失う者」。


それらを、箇条書きで記していく。名ではなく、輪郭を残す。

名が回収されるなら、名に繋がる道筋を残す。道筋が残れば、いつか名へ戻れるかもしれない。戻れなくても、せめて「師匠」が「師匠」であることは残る。


少年は書いた。

師の癖。

好きな茶の温度。

結界の糸の結び方。

札を置く順番。

戦場で最初に見る方向。

弟子の頭を撫でるときの指の置き方。


書いているうちに、涙が落ちた。

落ちた涙が紙に滲む。滲むのは涙のせいだ。今度はちゃんと理由がある。少年はそれが嬉しくて、余計に泣いた。


そして最後に、少年はもう一度だけ、名を書こうとした。


諦めたくなかった。

名は、師の中心だ。中心が消えたら、輪郭もいつか崩れる。ならば、中心に一度だけ触れておきたい。


筆先を紙に当てる。

ゆっくり、丁寧に、一画目を置く。


……置けた。


二画目。

三画目。


紙の上に、確かに「文字の形」が現れた。

少年の呼吸が止まる。やれた。今度こそ——


その瞬間、文字の中心から、じわりと黒が溢れた。

黒は滲みではない。滲むのではなく、食べる。文字の線を内側から噛み砕き、輪郭をぼろぼろにしていく。


少年は筆を止めた。

止めたところで、黒は止まらない。


そして、文字はまた「無かったこと」になった。


紙の上には、黒い染みだけが残った。

まるで、そこに「名を書こうとした」という事実そのものを、世界が嫌悪しているみたいに。


少年は宿帳を閉じ、胸に抱えた。

抱えたまま、師の寝顔を見た。


師の眉間はまだ寄っている。

だが呼吸は少し深くなっていた。少年が隣にいるからかもしれない。——そう思いたいだけかもしれない。


少年は小さく、決めた。


名が消えるなら、名の代わりになるものを作る。

世界が名を奪うなら、奪えない場所に、師を留める。


宿帳の中に。

自分の中に。

そしていつか——結界の支点の中に。


少年は師の手を取った。冷たい。だが、まだ温もりがある。

少年はその手を、両手で包み込む。


「……大丈夫です。師匠」


返事はない。

それでも少年は言った。返事がないことを、世界のせいにしたくなかったからだ。


焚き火が爆ぜる。

遠くで兵が笑う。

その音の中で、少年は宿帳の革の表紙を指でなぞった。


そこに刻まれた模様だけが、変わらず残っている。


——次に消えるのは、何だ。


少年は答えを知っている。

知っているからこそ、恐ろしくて、守りたくて、書くことをやめられなかった。

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