宿帳——忘却に抗う記録
少年は、その夜から眠らなくなった。
正確には、眠ってもすぐ目を覚ます。焚き火の爆ぜる音に。風が幕を叩く音に。誰かが寝返りを打つ擦れに。
そして何より——幕の向こうで、師が咳をする気配に。
師は横になっていた。怪我ではない。血も出ていない。なのに、呼吸が浅い。額に薄く汗が浮き、まぶたの裏で目が忙しく動く。夢を見ているのだろう。夢の内容が何であれ、そこには「失われたもの」がある。
少年は水袋を濡らし、布を絞って師の額に当てた。
手順は、師が教えた。熱を持った身体には冷やしすぎないこと、汗を拭き取ること、眠りを邪魔しないこと。
教えた本人が、今はそれを覚えていないかもしれない。
そう思うだけで、少年の指は震えた。
「……師匠」
小さく呼び、反応がないのを確認して、少年は唇を噛んだ。
呼び名で呼べば大丈夫だ。名で呼べば、師が返せない。師が返せない瞬間を、自分が見てしまう。見たくない。だが、見ないわけにもいかない。
外では兵たちが、勝利の酒を分け合っていた。
勝利の歌は遠い。音は戻っているはずなのに、少年の耳には薄い膜がかかっているみたいに聞こえた。戦場の「穴」が、まだこの地に残っている。いや、もっと近い。師の胸の奥に残っている。
少年は立ち上がり、帳の隅に置かれた師の荷を見た。
きちんと畳まれた布、研がれた短剣、結界に用いる札と糸。そこに、革紐で綴じられた一冊の小さな帳面がある。
宿帳。
野営地ごとに、兵の人数や糧秣を記し、事故や怪我を記し、次に備えるための記録帳だ。師はそれを、いつも「雑用の塊」と笑いながらも、決して手放さなかった。
『戦場で一番信用できるのは、記憶じゃなくて記録だ』
師が言った言葉が、少年の中に残っている。
その言葉だけは、消えないでほしい。消えたら、もう何も掴めなくなる。
少年は宿帳をそっと開いた。
紙の匂いがした。インクの匂いがした。木の皮を煮出したような、乾いた匂い。そこには、師の字が並んでいる。戦況の整理、結界の消耗、兵の配置。読みやすい。迷いがない。書いた瞬間、その人の心が整っているとわかる字だった。
——この字を書いた人は、今、ここにいる。
なのに、その人は、自分の名を言えない。
少年は小さく息を吸った。
息を吐くと、胸の奥の震えが少しだけ落ち着く。
ページの空白に、少年は線を引いた。
今日の日時。野営地の場所。戦闘の概要。いつものように、師が書いてきた形式に倣う。形式を真似ることは、支えになる。型は人を支える——師が教えた。
そして最後に、少年は迷った。
「指揮官」でも「結界術師」でもなく、ここに書くべきもの。
師の名。
少年は筆を取って、紙の上に止めた。
心臓がうるさい。焚き火の音よりも大きく、自分の耳の奥で鳴る。
書けば、固定できる気がした。
名を文字にすれば、師が失っていくものの一部を、ここに留められる気がした。
それは祈りだ。
理屈ではない。だが理屈が通らない世界で、少年ができることは祈りしかない。
筆先が紙に触れた。
最初の一画を書き始めた瞬間、インクが滲んだ。
滲み方が異常だった。紙が濡れているわけでも、筆に水が多いわけでもない。文字の輪郭が、描かれたそばから「ほどける」。
少年の背筋が冷えた。
それでも書く。
息を止め、手首に力を込め、最後まで書く。名を、最後まで——
書き終えた。
……はずだった。
文字が、そこにない。
紙の上には、黒い滲みだけが残っている。
文字の形になりかけたものが、形を持つことを拒むように、ただの染みになって、薄く広がっていく。
「……なんで」
少年は声を出してしまい、慌てて口を押さえた。
師が身じろぎする。苦しそうに眉間が寄る。少年は急いで宿帳を閉じた。閉じたところで、滲みは消えない。消えないが、見なければ、少しだけ呼吸ができる。
少年は、帳の外へ出た。
夜風が冷たい。空には星が少ない。
焚き火の周りで兵たちが笑っている。その笑いが、少年には遠い。戦場の勝利は確かにここにあるのに、少年の足元だけが別の場所に立っているみたいだった。
少年は、水場へ向かった。
井戸の縁に手を置き、冷たい水で顔を洗う。冷たさが、頭の中の熱を少しだけ引く。
そして、少年はもう一度考える。
名が消えるのは、師の代償だ。勝つたびに、師は何かを差し出す。
ならば、名も記憶も、勝利の対価として「世界が回収する」ものなのか。
——回収されるなら、回収されない場所を作ればいい。
少年は宿帳を抱え直し、戻る道を急いだ。
焚き火の兵に声をかけられたが、笑って誤魔化した。今は、笑う場合じゃない。
帳に戻ると、師は目を開けていた。
半身を起こし、ぼんやりと焚き火の光を見ている。目の焦点が合っていない。まるで、ここがどこかを探している。
少年は喉が鳴るのを感じながら、師の前に座った。
「師匠……水、飲めますか」
師は少年を見る。
見るのに、時間がかかる。目が少年を捉えるまでに、ひとつ、ふたつ、瞬きが挟まる。
「ああ……」
師は短く返事をした。短くないと危ないのだ。余計な言葉を出すと、その言葉の中に「名」が紛れ込む。紛れ込んだ瞬間、師は詰まる。少年はそれを知ってしまっている。
少年は水を渡し、師が飲むのを見守った。
師の喉が上下する。その動きが「生きている」ことを示している。少年はそれだけで、胸が少しだけ軽くなる。
師は水を返し、空になった水袋を見つめた。
見つめたまま、ぽつりと言った。
「……君は」
少年の心臓が跳ねた。
名を呼ばれるかもしれない。呼ばれたら、師が詰まるかもしれない。詰まる瞬間を、少年が見てしまう。
師の口が、わずかに動く。
言葉が出る前の、ためらいの形。まるで、暗闇の中で扉の鍵穴を探しているみたいな沈黙。
少年は、先に言った。
「僕は、弟子です。師匠の弟子。……今日も、支点を守りました」
師は眉をわずかに動かし、頷く。
頷き方が、いつもの師に近い。少年は息を吐く。
「よくやった」
師はそれだけ言って、目を閉じた。
眠りに落ちるのではなく、目を閉じて「考える」ための動作だ。師がよくやる癖。つまり、師の中にまだ「癖」が残っている。それが希望だ。
少年は、宿帳を開いた。
今度は、名を直接書かない。
紙の上に、線を引く。
「師匠」という呼び名。
「結界を張る者」。
「勝つたびに何かを失う者」。
それらを、箇条書きで記していく。名ではなく、輪郭を残す。
名が回収されるなら、名に繋がる道筋を残す。道筋が残れば、いつか名へ戻れるかもしれない。戻れなくても、せめて「師匠」が「師匠」であることは残る。
少年は書いた。
師の癖。
好きな茶の温度。
結界の糸の結び方。
札を置く順番。
戦場で最初に見る方向。
弟子の頭を撫でるときの指の置き方。
書いているうちに、涙が落ちた。
落ちた涙が紙に滲む。滲むのは涙のせいだ。今度はちゃんと理由がある。少年はそれが嬉しくて、余計に泣いた。
そして最後に、少年はもう一度だけ、名を書こうとした。
諦めたくなかった。
名は、師の中心だ。中心が消えたら、輪郭もいつか崩れる。ならば、中心に一度だけ触れておきたい。
筆先を紙に当てる。
ゆっくり、丁寧に、一画目を置く。
……置けた。
二画目。
三画目。
紙の上に、確かに「文字の形」が現れた。
少年の呼吸が止まる。やれた。今度こそ——
その瞬間、文字の中心から、じわりと黒が溢れた。
黒は滲みではない。滲むのではなく、食べる。文字の線を内側から噛み砕き、輪郭をぼろぼろにしていく。
少年は筆を止めた。
止めたところで、黒は止まらない。
そして、文字はまた「無かったこと」になった。
紙の上には、黒い染みだけが残った。
まるで、そこに「名を書こうとした」という事実そのものを、世界が嫌悪しているみたいに。
少年は宿帳を閉じ、胸に抱えた。
抱えたまま、師の寝顔を見た。
師の眉間はまだ寄っている。
だが呼吸は少し深くなっていた。少年が隣にいるからかもしれない。——そう思いたいだけかもしれない。
少年は小さく、決めた。
名が消えるなら、名の代わりになるものを作る。
世界が名を奪うなら、奪えない場所に、師を留める。
宿帳の中に。
自分の中に。
そしていつか——結界の支点の中に。
少年は師の手を取った。冷たい。だが、まだ温もりがある。
少年はその手を、両手で包み込む。
「……大丈夫です。師匠」
返事はない。
それでも少年は言った。返事がないことを、世界のせいにしたくなかったからだ。
焚き火が爆ぜる。
遠くで兵が笑う。
その音の中で、少年は宿帳の革の表紙を指でなぞった。
そこに刻まれた模様だけが、変わらず残っている。
——次に消えるのは、何だ。
少年は答えを知っている。
知っているからこそ、恐ろしくて、守りたくて、書くことをやめられなかった。




