呼ぶ声——核の入口
内側で捨てた木立は、昼を過ぎても灰色のままだった。
灰色は色ではない。
色が欠けた状態だ。
欠けた場所は、内側でも外側でもない。
“穴の縁”だ。
少年は見張り台の上から、その灰色を見ないようにしていた。
見ない、という行為は不自然だ。不自然は意識を一点に集める。
意識が一点に集まれば支点が太る。
支点が太れば、外が嗅ぐ。
だから少年は、見ない代わりに“全体”を見る。
火の位置。
見張りの散り具合。
札の貼り方。
兵の呼吸の揺れ。
名を言いそうな喉の震え。
灰色の木立から、最初に漏れたのは音ではなかった。
呼び名だった。
骨の内側に、柔らかい声が落ちる。
耳で聞く声ではない。
こちらの記憶の奥を撫でる声だ。
「——……ねえ」
ねえ、という言葉は、名より先に出る。
名を呼ぶ前の入り口。
入り口を開ければ、名が来る。
名が来れば、契約が来る。
見張りの若い兵が、ふっと顔を上げた。
目が灰色の木立へ向きかける。
向いた瞬間、喉が動く。返事が出る。
少年は即座に合図を出した。
火を分けろ。
見張りを散らせ。
札を二重に貼れ。
声を止めろ。
だが声は止まらない。
灰色は“呼びかけ”を漏らす。
呼びかけは、人の中の名を引きずり出す。
声が、次の形を取る。
「——……呼んで」
呼んで。
呼ぶ。呼び名。名。契約。
欲しいのは返事じゃない。名の交換だ。
呼べば繋がる。繋がれば引かれる。
若い兵の唇が震えた。
「……誰だ……」
問いかけ。
問いかけは返事を招く。返事は契約。
少年の胸がひやりとする。一本あれば十分。一本ができたら穴が広がる。
少年は決めた。
——切る型を、大きく使う。
小さな門で切った型は、個人の喉を止めるだけだった。
今は区域が“呼ぶ”。区域に糸が張られている。
糸を切るには、区域そのものを“縫い潰す”しかない。
少年は地面へ降り、灰色の木立と野営地の境目へ歩いた。
近づけば嗅がれる。近づけば支点になる。
だが近づく。近づかなければ全体が裂ける。
少年は胸の杭を散らした。
胸、喉、指先。
そしてさらに——足。
足の裏に杭を置く。地面を支点にする。
身体だけで支えると太い支点になる。地面へ散らせば薄くなる。
少年は指を立て、声を出さずに型を組む。
守る糸で、境界に膜を張る。
膜は外を弾く膜ではない。
“内側の名を外へ漏らさない膜”。
そして、“外の呼びかけを内側へ入れない膜”。
膜は、呼び名を拒む膜。
拒むほど、灰色がざわつく。
ざわつくほど、声が強くなる。
「——……名前を」
名。
名を求める言葉が、骨の内側に落ちる。
落ちるたび、兵たちの喉が動く。
喉が動けば、返事が出る。返事が出れば、一本の糸が太くなる。
少年は膜を厚くする。
厚くするほど、代償が要る。
代償は欠け。
欠けをどこから取るか。
少年は決めた。
——呼ばれ方の端ではなく、“自分の時間”を払う。
時間。
外が奪うのは名だけじゃない。名に繋がる順序や回想。
時間を払えば、名そのものを守れるかもしれない。
代償として、今日の一部を忘れる。忘れても生きられる部分を差し出す。
少年の指先の線が熱くなる。
熱が一瞬だけ“白”になり、そして——ふっと抜けた。
抜けた瞬間、少年の頭の中で、さっきまで回していた符号札の順番が一枚欠けた。
誰が次の見張りだったか、ひとつ思い出せない。
胸が冷える。
これは戻らない。
だが膜が強くなった。
灰色の木立の声が、少しだけ遠のく。
少年は欠けた順番を、別の型で補う。
札師へ合図し、札を回し直す。
順番は外に残せ。内側に刻むな。内側に刻むと抜かれる。
膜の縁が銀糸のように光り、灰色の木立が“閉じられていく”。
完全には戻らない。戻らないが、呼びかけは遮断される。
野営地の空気が、少しだけ濃くなった。
濃くなったことが救いだ。
救いと同時に、代償の冷たさが背骨を撫でる。
外側では、森が途切れていた。
森の先に、黒い地面の裂け目がある。
裂け目は縫い跡ではない。
縫い跡は“傷を縫った線”だ。
ここにあるのは“縫えない裂け目”——核の入口。
裂け目の縁に、三角形の印が刻まれている。
門の印と同じ形。
だがここは門ではない。門より深い。
門が要求するのは名。
核が要求するのは——印。
影が裂け目の前に立ち、師を振り返った。
戦友の顔。
本物に見えるほど、契約が近い。
「ここだ」
師は返事をしない。
返事は契約。
師は封筒に触れ、触れて止めた。鍵付きの手紙。英雄印の記述。
触れる動作だけで、影が笑う。
「香る」
英雄印は香る。
名より深い匂いだから、隠しきれない。
影が裂け目に手をかざし、甘く言った。
「印を、差し出せ」
師の胸が詰まる。
差し出せば核へ届く道が開く。
差し出せば門は閉じるかもしれない。
だが差し出せば、師は師でなくなる。英雄印は守りの核だ。
核を抜けば、守る型そのものが崩れる。
影が続ける。
「差し出せば、内側は守れる」
内側。
弟子。野営地。縫い跡。
その言葉が刃になる。
守りたいものを盾にして、奪う。外のやり方だ。
師は息を吸い、吐き、支点を散らした。
胸、喉、指先。
弟子の逆の型。
支点を散らしても、印の匂いは残る。残るからこそ、外は執着する。
師は、指で型を組んだ。
声は出さない。
型だけで、裂け目の縁へ“縫い糸”を通す。
核の入口をこじ開けるのではなく、縁に触れて道を探る。
最短で核へ届く道だけを選ぶ。
影が低く笑った。
「印なしでは、通れない」
師は目を細めた。
通れないと言い切るのは、契約へ誘う言葉だ。
師は言い切りを拒むために、別の意味を置く。
——印ではなく、印の影で通る。
英雄印そのものを差し出さず、英雄印が作る“型の影”だけを縁に落とす。
影なら奪われても、核は残る。
影なら欠けても、戻せる可能性がある。
だが影を落とすには代償が要る。
印の影は、印の一部だ。
一部を削れば、師の中の何かが欠ける。
師は決めた。
——名ではなく、勝利の記憶を払う。
勝利は英雄印を強くする。
勝利の記憶を払えば印の匂いが薄くなる。
薄くなれば、影は嗅ぎにくくなる。
そして印の影だけを、裂け目へ落とせる。
師の喉が痛い。
痛いのに、声は出さない。
師は型を完成させ、裂け目の縁へ影を落とした。
裂け目が、わずかに反応した。
黒い欠けが、ほんの少し“道”の形になる。
道は細い。薄い。
だが確かに、核へ繋がる入口が開いた。
影が、苛立ちと歓喜の混ざった声で言った。
「……払ったな」
払った。
師の目が一瞬だけ遠くなる。
遠くなるのは疲労ではない。勝利の記憶が一枚欠けたせいだ。
いつかの戦場。いつかの歓声。いつかの「英雄さま」。
その輪郭が薄くなる。
師は前へ進んだ。
裂け目の道へ足を置く。
置いた瞬間、世界がさらに薄くなる。
影が最後に囁いた。
「次は、本体だ」
英雄印の本体。
唯一の名。
核はそれを待っている。
内側では、灰色の木立の声が遠のいていた。
だが代償として、少年の頭の中の“順番”が一枚欠けている。
欠けを埋めるために、少年は札を回し直した。
外に残せ。内側に刻むな。
刻めば抜かれる。抜かれれば、次はもっと大きく払う。
少年は胸の杭に手を当て、欠けた時間を握りしめる。
——守れた。
——守った。
——その代わりに、忘れた。
そして、遠くの縫い跡が一瞬だけ光った。
傷の光。
師が核の入口に足を置いた合図みたいに。




