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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第3章 手紙——封じた過去が開く

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切り離し——内は捨て、外は嗅がれる

内側の霧は、昼になっても薄くならなかった。


霧が残るのは、湿気のせいだけではない。

兵たちが言葉を節約し、呼び名を捨て、返事を禁じているからだ。

声が減れば、霧は濃く感じる。

霧が濃く感じるほど、境界線は近く感じる。


少年は見張り台の下で、符号札を回していた。

点と線の札。

誰がどこを守るか。誰が休むか。誰が札を補修するか。

名を使わずに、機能だけで人を結び直す。


その作業の最中、縫い跡の方角で——音が抜けた。


焚き火の爆ぜる音が一瞬だけ遠のき、虫の声が消え、空気の輪郭が薄くなる。

外の気配。

内側に穴が開く前触れ。


少年は息を吸って吐き、合図を出した。

見張りを散らせ。

札を追加。

火を分けろ。

人を一箇所に集めるな。集まれば支点が太り、外に嗅がれる。


札師が無文字の札を地面に貼り、薄い膜を作る。

膜が張られた瞬間、縫い跡の近くで兵が膝をついた。

兵の肩が震えている。

震えは恐怖ではない。喉が動く震えだ。


少年は駆け寄りたい衝動を抑えた。

衝動は支点を一点に集める。

支点が一点になれば、そこが門になる。

門になれば、名を要求される。


少年は手で指示を出し、二人を走らせた。

一人は兵の口を押さえる。

もう一人は札を追加する。

少年自身は、距離を保ったまま胸の杭を打ち直す。


兵の唇が震え、息が漏れる。


「……はい……」


返事。

それだけで、空気が“掴まれる”。


薄い膜がきしみ、縫い跡の方角から冷たい流れが入ってくる。

外が糸を通した。

一本あれば十分——あの理屈が、内側でも働く。


少年の指先の線がひやりとした。

外で刻んだ線。欠けた呼ばれ方の端。

線が疼くのは、外が匂いを嗅いだからだ。


少年は決めた。


——切り離す。


師が言った。「縫い跡が揺れたら切り離せ」。

切り離しは捨てることだ。

だが捨てなければ、全体が裂ける。


少年は札師へ合図し、膜の一部をわざと“ほどかせた”。

ほどく方向を選ぶ。

裂け目が広がる方向ではない。

“捨てても良い場所”へ裂け目を誘導する。


膜がほどけ、地面に薄い線が走る。

線の先の小さな木立が、ふっと色を失った。

色が失われるのに、音はしない。

そこが“外側化”した。

小さな区域を捨てて、残りを守った。


少年の胃が縮む。

捨てた。

土地を。木を。そこで見張っていた兵の持ち場を。

捨てた事実が胸の杭を痛める。


だが膜のきしみが弱まった。

返事の糸が細くなる。

内側の穴が閉じかける。


少年は息を吸って吐き、胸の杭をさらに打ち込んだ。

泣きそうになる。

泣けば楽になる。

——終わりにしたくない。だから泣かない。


外側では、霧はなかった。


霧がない代わりに、世界そのものが薄い。

葉の緑が灰色で、土が黒く、空が穴の色に近い。

師は小隊を最短で進めた。

歩幅は一定。声は出さない。返事もしない。

型だけで、進む。


森の奥で、影が待っていた。


戦友の顔をした案内人。

人の輪郭を借りた“契約”。


影は師を見て、笑った形を作った。


「来たな」


師は返事をしない。

返事は契約。

代わりに、指で型を組み、周囲に薄い結界の膜を張る。

膜は名を通さない膜ではない。

英雄印の匂いを散らす膜。匂いを一点に集めない膜。


影が首を傾げる。


「匂いが、薄い」


師の糸は、内側との通路を切った。

だから匂いは滲まない。

滲まないのに、影は嗅ぐ。

英雄印は、名より深い。薄くしても残る。


影は一歩近づいた。

近づくほど、森の色がさらに薄くなる。

師の英雄印が、世界の“中心”になりかける。


「英雄印……」


影の囁きが落ちる。

囁きは理解を求める。理解は契約。

師は理解しない。理解しないために、型を繰り返す。

型は意味を薄くする。意味が薄ければ契約が結びにくい。


影が甘く言った。


「渡せば軽くなる」


師の喉が、僅かに動く。

動きは返事に近い。

師はすぐに息を吐き、喉の杭を打ち直す。支点を散らす。

胸、喉、指先。

弟子が編んだ逆の型を、師もまた使っている。


影が苛立つ。


「弟子の型か」


師の目が一瞬だけ揺れた。

揺れは弱点だ。

外は弱点を嗅ぐ。弱点を糸にする。


影が、静かに言った。


「内側が、揺れた」


師の背筋が凍る。

糸を切ったはずなのに、外は知っている。

知っているのは、糸が完全には切れていないからではない。

影は“匂い”で読む。英雄印の匂いが、内側の揺れに反応したのを嗅いだのだ。


師は返事をしない。

だが型を変えた。

結界の膜を厚くし、匂いを散らす。

散らすほど、道は見えにくくなる。

最短で核へ行く道が、霧のようにぼやける。


影が笑った。


「選べ」


また選べ。

誰を守るか。何を捨てるか。

選ばせることで契約を結ばせる。

外の狡猾さは変わらない。


師は、指先を少しだけ動かした。

封筒の鍵に触れる動き。

鍵付きの手紙。英雄印の情報。核への道。


影が囁く。


「開け」


師は開けない。

開ければ匂いが出る。門が開く。英雄印が固定される。

師はただ、前へ進んだ。

進むことで、契約を拒む。拒むことで、核へ近づく。


影はその背を見送りながら、最後の言葉を落とした。


「内側は、捨てるのだろう?」


内側では、捨てた木立が灰色になっていた。


少年はそれを見ないようにした。

見れば罪になる。罪は祈りになる。祈りは契約の形を取る。

少年はただ、符号札を回し続けた。

見張りを散らし、火を分け、沈黙を守る。


捨てたものの代わりに、守ったものがある。

守ったものの代わりに、欠けたものがある。


胸の杭が重い。

だが重い杭ほど、支点になる。


少年は息を吸って吐き、欠けた呼ばれ方の端を胸に押し込めた。


——守るために、捨てる。

——捨てても、終わらせない。

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