二つの戦場——師は外へ、弟子は内へ
朝は、薄い霧で始まった。
霧は境界の匂いがする。
見えない線が、見えるようになる。
見えた線が、裂けていることまで見えてしまう。
霧は真実を優しくするが、同時に残酷にもする。
野営地の中央で、師が準備を指示していた。
荷は最小。札は使い捨て。
声は出さない。返事をしない。
外へ行く小隊は、前回より少なくする。
最短で核へ届く道だけを辿る——“英雄印”を狙われる前に。
弟子である少年は、少し離れた場所で同じ準備をしていた。
違うのは対象だ。
師が整えるのは“外へ行く道”。
少年が整えるのは“内側の支点”。
内側の支点とは、縫い跡の維持、札の補修、見張りの交代、荷の配分、食糧の分配、そして何より——言葉の節約だ。
名を言わない。呼び名を使わない。
誰が誰かを符号で結び、混乱を防ぐ。
混乱は裂け目を広げる。裂け目が広がれば、外が匂いを嗅ぐ。
隊長が近づき、少年へ合図した。
符号札を渡す。
今日の当番の順番。
見張りの交代。
札の回収。
少年は頷き、宿帳の空白に“符号だけ”を書き込む。
文字は食われる。
だが符号は、名より軽い。
軽いものは残る。
そう信じて、少年は点と線を記す。
背後で、師が少年を呼んだ——呼んではいない。
視線で合図をした。
少年は焚き火のそばへ歩く。
師は封筒を胸に収め、外套の紐を締めていた。
紐を締める動きが、昨日より少しだけ違う。
違いは、師の中の欠けだ。
欠けは進む。止められない。
「……ここを頼む」
師は言った。
名を呼ばない。呼べない。
それでも“頼む”と言う。
頼むという言葉は、残る。名より残る。
少年は頷き、胸の杭を押さえた。
内側の支点を守る。
支点を守ると言いながら、自分が支点になっている。
師はそれを禁じた。支点になるな。
だが支点を守るには、支点を置かなければならない。
矛盾は、胸の奥で熱を持つ。
師は、言葉を選びながら続けた。
「外へ行っている間……縫い跡が揺れたら、切り離せ」
切り離す。
札を捨てる。膜を捨てる。
国の一部を捨てる。
その言葉の重さに、少年は息が詰まる。
「全部は守れない。……守るのは“核”までの時間だ」
核。
核を断てば、裂け目は閉じる。
閉じると信じたい。
信じること自体が、祈りになりそうで怖い。祈りは契約の形を取りやすい。
師は少年の額に指を当てた。
稽古の確認の癖。
だが今日の指は、少しだけ重い。
重いのは温度ではない。覚悟の重さだ。
「……おまえの“切る型”を、忘れるな」
少年の指先がひやりとした。
門で編み出した型。契約糸を緩める型。
代償として欠けた“呼ばれ方の端”。
その痛みが、いまも口の中に残っている。
師は続けた。
「支点は、散らせ」
散らす。
胸、喉、指先。三つの杭。
門が求めた形を、内側へ置く逆の型。
少年は頷いた。頷きは内側の頷きとして、支点を固定する。
外へ行く小隊が整列した。
師が前に立つ。
英雄の型。守る者の型。
だが英雄印は狙われる。
英雄印を守るために、英雄は外へ出る。
隊長が合図を出し、出発。
小隊は縫い跡へ向かう。
少年は、縫い跡の手前で止まった。
ここから先へ行かない。行けば錨になる。行けば外が匂いを嗅ぐ。
縫い跡が開く。
三つの杭が立つ——今度は短い。最短の門。
門は一瞬だけ開き、師たちが外へ消える。
縫い跡が閉じた瞬間、野営地の空気が一段階重くなった。
重いのは霧のせいではない。
“頼れる者が外へ行った”という事実の重さだ。
少年は振り返り、内側の兵たちを見た。
皆が少年を見ている。
見張りが見ている。札師が見ている。傷病兵が見ている。
少年は名を呼ばれないまま、支点として見られている。
少年は胸の杭を打ち直し、合図を出した。
声は出さない。
手で指示を出す。
符号札を回す。
見張りを散らす。
焚き火を分ける。
沈黙を守る。
支点を散らし、支点を守る。
矛盾の中で、少年は初めて“内側の戦場”に立った。
遠くで、縫い跡が一瞬だけ光った気がした。
門の光ではない。
傷の光だ。
少年は、胸の奥で欠けた呼ばれ方の端を握りしめる。
——呼ばれなくても、ここにいる。
——名が欠けても、守れる。
そしてもう一つ、冷たい予感が背中を撫でた。
外で師が核へ近づくほど、内側の裂け目もまた広がる。
外と内は、糸で繋がっている。
糸は切れる。
切れるなら、切られるかもしれない。




