条件——“唯一の名”の正体
夜は静かだった。
静かすぎる夜は、外に似ている。
音がないわけではない。虫が鳴き、焚き火が爆ぜ、兵が寝返りを打つ。
それでも静かに感じるのは、皆が“言葉を節約している”からだ。
名を言わない。
呼び名を使わない。
返事をしない。
その節約が、夜を薄くする。
少年は眠れず、焚き火の端で宿帳を開いた。
名の欄は空白。
空白が、いまや“守り”であり“祈り”になっている。
かつて名は誇りだった。今は、刃だ。
背後で足音がした。
師が来た。
足音の重さが、いつもよりわずかに違う。歩幅が同じでも、重心がずれる。
些細な違いが、怖い。違いは欠けの兆候だ。
師は焚き火を挟んで座り、封筒を取り出した。
鍵付きの手紙。
鎖。鍵穴。蝋封。
少年の喉が痛くなる。門の三角形の光が脳裏に浮かぶ。
「……次は、私が行く」
師は改めて言った。
声は静かだが、決意の硬さがある。
硬い決意ほど、折れたときに深く刺さる。
少年は言葉にしないまま首を振った。
師はそれを見て、ゆっくり息を吐いた。
「条件がある」
条件。
契約の匂いがする。
だがこれは外の契約ではない。内側で守るための条件だ。
「私が外へ出るのは、最短で戻るためだ。……核へ届く道だけを歩く」
師は封筒を指で叩いた。
叩く所作が、少しぎこちない。癖が欠けている。
少年は胸の杭がきしむのを感じた。
「そのために、この封印をもう一段、解く」
少年は息を止めた。
封印を解けば、門の匂いが出る。外が嗅ぐ。外が呼ぶ。
師は続けた。
「解くのは“型”までだ。……支点は、私が置く」
支点。
支点を師が置く。つまり、代償を師が引き受ける。
少年の胸が痛い。
引き受けさせたくない。だが引き受けないと道が開かない。
師は少年を見た。
「おまえは、支点になるな」
また同じ言葉。
同じ言葉なのに、響きが少し違う。
少年の中で欠けた“呼ばれ方”の端が、まだ疼く。
師は封筒の鍵を回し、鎖を外した。
紙を取り出す。
焚き火の光で照らす。
黒い染みは広がっている。
それでも残る行がある。
残る行の中に、銀糸の封印文が縫い込まれている。
師は文字を声にしない。目で追い、指で型を組む。
指が動く。
動きが、結界の型と違う。道を開く型。糸を編む型。
その型を見ているだけで、少年の指先の線がひやりとする。
外が“思い出せ”と囁く気配がする。
師は息を吸い、吐き、型を完成させた。
銀糸が一瞬だけ強く光り、黒い染みがざわりと引く。
封印が、二つ目まで解けた。
紙の上に、読める行が増えた。
増えた行の中で、少年は視線を逸らそうとして——逸らせなかった。
そこに、答えがあった。
“唯一の名”とは、名そのものではない。
名が削られ、消えかけてもなお残る——名を名たらしめる核。
つまり、呼ばれなくても機能する“印”。
紙には、こう書かれていた。
(文字の一部は欠けている。だが意味は突き刺さる。)
——英雄印。
——名を失っても、型として残る。
——門は印を嗅ぎ、印で開く。
——印が核へ至る“鍵”となる。
少年の胸が跳ねる。
英雄印。
師の“名の残骸”ではない。残骸より深い。
師が積み上げてきた守りの型、その中心に刻まれた印。
名が消えても消えない。
だからこそ、外はそれを“唯一の名”と呼ぶ。
師が、低く言った。
「……これが、狙いだ」
狙い。
外は師の英雄印を門にして、核へ至る道を開こうとしている。
あるいは、英雄印を奪い、こちら側の門を恒久的に開けるつもりだ。
師は紙を折り、封筒へ戻そうとして——手が止まった。
止まった瞬間、師の眉が歪む。
歪みは痛みだ。
何かが抜け落ちた痛み。
「……私は」
師が言いかけて、言葉が途切れる。
自分のことを言おうとしているのに、言葉の輪郭が掴めない。
名が削られている。記憶が削られている。
英雄印だけが残り、名が抜けていく。
少年は、息を吸って吐き、胸の杭を打ち直した。
支点になるなと言われた。
だが支点を支えなければ、師が折れる。
少年は、声を出さずに師の手首に触れた。
触れる温度で、師を“こちら側”に固定する。
名ではなく温度で繋ぐ。
温度は契約になりにくい。
温度は生活だ。
師は少年を見て、かすかに笑った。
「……外へ行く。だが、門は開かせない」
師は封筒を閉じ、鎖を巻き、鍵をかけた。
鍵をかける所作が、少しだけ違う。
違いが痛い。
それでも鍵はかかった。鍵がかかったことが救いだ。
師は立ち上がり、少年へ向けて言った。
「明日、準備を整える。……おまえは、内側の支点を守れ」
内側の支点。
つまり野営地。兵。縫い跡。
師が外へ出る間、内側が裂けないように支える役目。
弟子の役目が、変わる。
“守られる者”から、“守る者”へ。
師が背を向け、去ろうとして——一瞬だけ立ち止まった。
振り返りかけて、振り返らない。
呼び名を言いかけて、言えない。
その逡巡が、少年の胸を刺す。
師は結局、名を呼ばずに言った。
「……明日も、頼む」
少年は頷いた。
頷きながら、欠けた端の痛みを胸の杭に押し込めた。
泣かない。終わらせない。
この痛みは、守りの代償だ。
焚き火が爆ぜる。
普通の音がする。
普通の音の中で、少年は宿帳を閉じた。
名の欄は空白のまま。
空白のまま、確かなことがひとつ増えた。
——唯一の名の正体は、英雄印。
——そして外は、印を奪う。
少年は胸の杭に、静かに刻んだ。
——奪わせない。
焚き火の向こうで、縫い跡がわずかに光った。
光は門の光ではない。
傷の光。
次章への合図みたいに。




