帰還——欠けた呼ばれ方
縫い跡は、まだそこにあった。
外の薄い森を抜け、黒砂の匂いが弱まり、葉の色がほんの少しだけ濃くなる。
その変化だけで、胸が緩む。
外がどれほど薄くても、内側は“濃い”。濃い世界は、名を保てる気がする。
小隊は縫い跡の前で止まった。
門を開けた三つの杭は、すでに抜かれている。
抜かれた穴だけが残り、穴の縁に銀糸が僅かに残っていた。
門の痕跡。契約の匂い。
近づけば吸われる。だから誰も触れない。
隊長が合図を出す。
順番に戻る。
声を出すな。
返事をするな。
目を逸らすな。
少年は最後に縫い跡をまたいだ。
またいだ瞬間、世界の音が戻った。
遠のいていた音が、距離を取り戻す。焚き火の匂いが遠くから漂う。土の湿り気が戻る。
“人の世界”が戻る。
それだけで泣きそうになるのが、悔しかった。
泣けば楽になる。泣けば終わる。
外が囁いたのと同じ理屈だ。
——終わりにしたくない。だから泣かない。
野営地へ戻ると、兵たちが息を呑んだ。
小隊が生きて戻ったことへの驚き。
そして、戻った者たちの顔色の悪さへの恐れ。
荷持ちは歩けなかった。
隊長と斥候が肩を貸し、火のそばへ運ぶ。
荷持ちの胸の線は、薄くなっている。消えてはいない。
残った薄い線が、次の門の予告みたいに見える。
少年は宿帳を開いた。
名の欄は空白。
空白のまま、今日の出来事を書こうとして、手が止まった。
書ける範囲だけを書く。
だが“欠けたもの”ほど書きたい。書けば残る。書けば守れる。
——書けば食われる。
少年は筆を置き、胸の杭に手を当てた。
刻む場所は紙じゃない。支点だ。
外で学んだことは、支点に刻むしかない。
そのとき、師が来た。
師は焚き火の外側に立ち、少年たちを見渡した。
目の焦点が合っている。合っているのに、どこか遠い。
遠いのは疲労ではない。糸を切った代償だ。
師は荷持ちを見て、眉を寄せた。
「……誰だ」
隊長の肩がわずかに揺れた。
師の問いは、単なる確認ではない。
“誰だ”が出るのは、記憶の穴が開いたときだ。
隊長は声を出さずに、符号札を取り出した。
点と線の刻印。
師に示す。これがこの者だ、と。名を使わずに。
師は札を見る。
見るのに時間がかかる。
そして、ゆっくり頷いた。頷いたあと、ほんの僅かに眉間が歪む。
歪みは痛みだ。思い出せない痛み。
「……すまない」
師が言った。
謝罪が、重い。
英雄の謝罪ではない。師の謝罪だ。自分の欠けを自覚している者の謝罪だ。
少年は胸が締め付けられた。
師が糸を切った。自分の名の残骸を断った。
その代償が、いま目の前にある。
誰かの顔と符号が結びつかない。人の輪郭が薄くなる。
師は少年を見た。
視線が止まる。
止まる理由がわかる。師は少年を“認識”しようとしている。
認識が引っかかる。名が繋がらない。
名を呼ばないと繋がらないのに、名は刃になった。
詰みの形をした沈黙。
師は、やっと言った。
「……戻ったのか」
少年は頷いた。
頷きは契約になり得る。だがここは内側だ。内側の頷きは、人の頷きだ。
少年は声を出さずに、胸の杭で返事をしたつもりだった。
師は少年の手元——宿帳を見た。
名の欄が空白なのを見て、師の目がわずかに柔らかくなる。
「……良い」
良い。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
褒め言葉は支点を強くする。支点が強くなると外に狙われる。
その矛盾が、また痛い。
師は低く言った。
「門は……どうだった」
隊長が短く状況を伝える。声を出さず、地図に指で描き、札の配置で示す。
門の光。穴。契約糸。影。
そして、師の糸が切れたこと。
師はそれを見て、静かに息を吐いた。
息を吐きながら、胸の内側を押さえる。
そこには封筒がある。鍵付きの手紙。
開けるための封印。
師は囁くように言った。
「……やはり、唯一の名は私の側だ」
少年の胸が跳ねる。
師は自覚している。自分が餌だ。
自覚しているから、外へ出ないと決めた。糸を切った。
だが外は別の手段で引く。錨を作る。少年を錨にする。
少年は自分の指先を見る。
線が残っている。
そして——口の中に残る“違和感”。
師が少年に向かって何かを言おうとした。
だが呼び名を使えない。名を使えば刃になる。
師の喉がわずかに詰まる。
その詰まりが、少年の胸をえぐった。
少年は気づく。
自分は、師に呼ばれたい。
呼び名で呼ばれたい。
その呼び方が、自分の支点だった。
だが外で代償を払った。呼ばれ方の端が欠けた。
欠けた端が、師の口から出る前に消える。
師は、結局、名を呼ばずに言った。
「……おまえ」
その“おまえ”の響きが、少しだけ違った。
いつもより遠い。
いつもより硬い。
少年の中にあった“呼ばれ方”の端が抜けたせいで、同じ言葉が別の言葉みたいに聞こえる。
少年は唇を噛み、血の味で現実を固定した。
泣きそうになる。
泣けば楽になる。
——終わりにしたくない。だから泣かない。
師が静かに言った。
「次は、私が行く」
隊長が即座に首を振る。
行けば引かれる。唯一の名が門になる。
師はそれでも続けた。
「行かないと、核へ届かない。……届かないなら、全部が裂ける」
師の声に揺れがある。
覚悟の揺れ。
守りたいものと、守れない現実の揺れ。
少年は息を吸い、吐いた。
吸って吐いて、胸の杭を打ち直した。
そして、声にしないまま、決めた。
——師を錨にさせない。
——自分が錨になるなら、形を変える。
——奪われない錨になる。
師が少年の額に指を当てた。
稽古のときの確認の癖。
その癖が、少しだけ違う。
違うことが、痛い。
だが指の温度は同じだ。温度だけが救いだ。
「……よくやった」
師が言った。
少年は頷いた。
頷きの中に、欠けた端の痛みを隠した。
焚き火が爆ぜる。
普通の音がする。
普通の音がするほど、外で聞いた“無音”が怖くなる。
門は閉じた。
だが道標は残った。
唯一の名への道は、確かにある。




