切る型——弟子が支点を選び直す
内側の匂いが消えた。
焚き火の匂いも、生活の匂いも、土の温度も——こちら側にあったはずの“人の世界”が、一枚はがれたように消えた。
残ったのは外の薄さだけ。欠けた光と欠けた音と、名を欲しがる静けさだけ。
師の糸は切れた。
切れた以上、もう頼れない。
頼れないことが恐ろしくて、名を言ってしまいたくなる。自分を確かめたくなる。
——だが確かめた瞬間、奪われる。
少年は息を吸い、吐き、数を数えた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
数える型で、胸の杭を固定する。
固定しなければ、門が開く。荷持ちが名を言う。契約糸が太る。
門の中心の穴はぼやけている。
香りが消えたせいで、完全には開けない。
だが“開きかけ”の状態が一番危険だ。開きかけは、支払いを増やして補おうとする。
支払いは名。
名の要求は、必ず人へ向く。
影が少年を見て、笑った形を作った。
「切ってみろ」
挑発。
挑発は返事を誘う。返事は契約。
少年は返さない。代わりに、視線を荷持ちへ向けた。
荷持ちは、隊長の腕の中で震えている。
胸の線は、少年の守る糸で包まれている。包まれているのに、線の内側が熱い。
名になりたい。名になって楽になりたい。
外の囁きが、その方向へ押している。
契約の糸は一本。
一本なら切れる——師が示した。
切断の感覚。意味の切断。
だが切断は、ただ刃を当てればいいものではない。糸は物質ではない。
糸は“意味”だ。意味を切るには、別の意味で上書きしなければならない。
——守る糸で、奪う糸を縫い潰す。
少年はふっと気づいた。
門は「支点を示せ」と言った。
支点を示すことが契約の入口なら、逆に“支点を示さない型”があれば契約の糸を緩められる。
示さない。名を渡さない。存在の輪郭を外へ出さない。
少年は胸の杭から糸を一本抜く。
抜いた糸は、薄く光る。師の教えの名残ではない。少年が自分で編み直した糸だ。
守るための糸。
“名を通さない膜”を作る糸。
少年は、糸を荷持ちの胸の線へ当てた。
当てた瞬間、線が熱く跳ねる。
熱は抵抗だ。名を言わせようとする衝動の熱だ。
少年は声を出さずに、型だけで命じる。
——閉じろ。
——縫え。
——通すな。
糸が線を包み込む。
包み込んだ糸を、さらに“折り返して縫う”。
包むだけでは足りない。包んだ外側に、もう一枚の膜を作り、内側の熱を閉じ込める。
縫う動作は、結界の縫い方に似ている。
だが目的が違う。
結界は外を弾くための膜。
今の膜は、内側の名を外へ漏らさないための膜。
——名は内側に戻れ。
少年は糸を“自分の支点”へ繋いだ。
繋いだ瞬間、胸の杭が重くなる。
荷持ちの名の熱が、自分へ流れ込む。
流れ込ませるのは危険だ。だが流れ込ませなければ、外へ漏れる。
少年は必死に呼吸を整えた。
吸って、吐く。
呼吸が型を支える。型が糸を支える。
影が不快そうに言った。
「……支点を引き受けるのか」
引き受ける。
そう見える。外から見れば、少年が支点になったように見える。
それが危険だ。支点を指名される。錨にされる。
少年は、違う型へ移った。
支点を“立てる”のではない。
支点を“散らす”。
胸の杭を一本に固定するのではなく、三つに分ける。
門が求めた三つの杭を、逆に自分の内側へ置く。
胸、喉、指先。
名が漏れる経路を三つに分け、どれか一つが抜かれても全体が抜けないようにする。
少年は、胸の杭から喉へ糸を通し、喉から指先へ糸を通した。
声を出さないまま、喉を“支点の杭”として使う。
指先の線を、第三の杭にする。
——外へ漏れる前に、内側で受け止める。
その瞬間、指先の線が焼けるように熱くなった。
線が、文字になりかける。
名が輪郭を持ち始める。
少年は理解した。
これは代償だ。
糸を切る型を組めば、必ず何かが欠ける。欠けて、門が“支払い”を得る。
——何を欠けさせる?
少年は歯を食いしばり、決めた。
名そのものではない。名を渡せば終わる。
名の全部ではない。全部を渡せば、自分が誰かわからなくなる。
渡すのは——名の一部。呼ばれ方の一部。輪郭の端。
少年の指先の線が、一瞬だけ“字”になった。
字になって、すぐに欠けた。
欠けた欠片が、空気へ溶け、門の穴へ吸われていく。
——持っていけ。端だけだ。
門の穴が、わずかに揺らいだ。
揺らいで、ぼやけた。
契約糸が、一本、緩んだ。
荷持ちの胸の線が、少しだけ薄くなる。
喉の動きが止まる。
涙が落ちる。息が戻る。
隊長が、少年を見た。
合図でもなく、命令でもなく、ただ目で問う。
“何をした?”
少年は答えない。答えれば契約になる。
ただ、胸の杭に手を当て、呼吸の型を続けた。
影が、苛立ちを隠さず言った。
「……代償を払ったな」
払った。
払ったから切れた。
払ったから守れた。
払ったから——何かが欠けた。
少年は自分の口元に触れた。
何かが変だ。
自分の中にあった“呼ばれ方”の端が、薄くなっている。
師が呼んだ自分の呼び方。
その響きの一部が、抜けている。
——戻らない。
戻らないことが、怖い。
怖いのに、確かな勝利がある。
荷持ちは名を言わずに済んだ。契約糸は緩んだ。門は閉じかけている。
隊長が合図を出す。
撤退。
今なら戻れる。
門が完全に閉じる前に。
札師が膜を広げ、斥候が周囲を警戒し、荷持ちを支える。
少年は最後に門を見た。
門の穴はぼやけ、三角形の光が弱まっている。
影が、最後の囁きを落とした。
「……次は、もっと大きく払え」
少年は返さない。
返事は契約。
ただ、胸の杭を押さえ、欠けた端の痛みを覚えた。
撤退の合図。
小隊は森を引き返す。
背後で、門の光がゆっくり薄れていく。
だが薄れていく光の奥で、少年は確かに見た。
門の縁に、刻印が一つ残っている。
三角形の角のひとつに、細い線で刻まれた“印”。
それは、師の型の印だ。
名を失ってもなお残る、英雄の印。
——唯一の名への道標。




