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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第2章 結界——愛の形が型になる

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切る型——弟子が支点を選び直す

内側の匂いが消えた。


焚き火の匂いも、生活の匂いも、土の温度も——こちら側にあったはずの“人の世界”が、一枚はがれたように消えた。

残ったのは外の薄さだけ。欠けた光と欠けた音と、名を欲しがる静けさだけ。


師の糸は切れた。

切れた以上、もう頼れない。

頼れないことが恐ろしくて、名を言ってしまいたくなる。自分を確かめたくなる。

——だが確かめた瞬間、奪われる。


少年は息を吸い、吐き、数を数えた。

ひとつ。ふたつ。みっつ。

数える型で、胸の杭を固定する。

固定しなければ、門が開く。荷持ちが名を言う。契約糸が太る。


門の中心の穴はぼやけている。

香りが消えたせいで、完全には開けない。

だが“開きかけ”の状態が一番危険だ。開きかけは、支払いを増やして補おうとする。

支払いは名。

名の要求は、必ず人へ向く。


影が少年を見て、笑った形を作った。


「切ってみろ」


挑発。

挑発は返事を誘う。返事は契約。

少年は返さない。代わりに、視線を荷持ちへ向けた。


荷持ちは、隊長の腕の中で震えている。

胸の線は、少年の守る糸で包まれている。包まれているのに、線の内側が熱い。

名になりたい。名になって楽になりたい。

外の囁きが、その方向へ押している。


契約の糸は一本。

一本なら切れる——師が示した。

切断の感覚。意味の切断。

だが切断は、ただ刃を当てればいいものではない。糸は物質ではない。

糸は“意味”だ。意味を切るには、別の意味で上書きしなければならない。


——守る糸で、奪う糸を縫い潰す。


少年はふっと気づいた。

門は「支点を示せ」と言った。

支点を示すことが契約の入口なら、逆に“支点を示さない型”があれば契約の糸を緩められる。

示さない。名を渡さない。存在の輪郭を外へ出さない。


少年は胸の杭から糸を一本抜く。

抜いた糸は、薄く光る。師の教えの名残ではない。少年が自分で編み直した糸だ。

守るための糸。

“名を通さない膜”を作る糸。


少年は、糸を荷持ちの胸の線へ当てた。

当てた瞬間、線が熱く跳ねる。

熱は抵抗だ。名を言わせようとする衝動の熱だ。


少年は声を出さずに、型だけで命じる。


——閉じろ。

——縫え。

——通すな。


糸が線を包み込む。

包み込んだ糸を、さらに“折り返して縫う”。

包むだけでは足りない。包んだ外側に、もう一枚の膜を作り、内側の熱を閉じ込める。


縫う動作は、結界の縫い方に似ている。

だが目的が違う。

結界は外を弾くための膜。

今の膜は、内側の名を外へ漏らさないための膜。


——名は内側に戻れ。


少年は糸を“自分の支点”へ繋いだ。

繋いだ瞬間、胸の杭が重くなる。

荷持ちの名の熱が、自分へ流れ込む。

流れ込ませるのは危険だ。だが流れ込ませなければ、外へ漏れる。


少年は必死に呼吸を整えた。

吸って、吐く。

呼吸が型を支える。型が糸を支える。


影が不快そうに言った。


「……支点を引き受けるのか」


引き受ける。

そう見える。外から見れば、少年が支点になったように見える。

それが危険だ。支点を指名される。錨にされる。


少年は、違う型へ移った。


支点を“立てる”のではない。

支点を“散らす”。


胸の杭を一本に固定するのではなく、三つに分ける。

門が求めた三つの杭を、逆に自分の内側へ置く。

胸、喉、指先。

名が漏れる経路を三つに分け、どれか一つが抜かれても全体が抜けないようにする。


少年は、胸の杭から喉へ糸を通し、喉から指先へ糸を通した。

声を出さないまま、喉を“支点の杭”として使う。

指先の線を、第三の杭にする。

——外へ漏れる前に、内側で受け止める。


その瞬間、指先の線が焼けるように熱くなった。

線が、文字になりかける。

名が輪郭を持ち始める。


少年は理解した。

これは代償だ。

糸を切る型を組めば、必ず何かが欠ける。欠けて、門が“支払い”を得る。


——何を欠けさせる?


少年は歯を食いしばり、決めた。

名そのものではない。名を渡せば終わる。

名の全部ではない。全部を渡せば、自分が誰かわからなくなる。

渡すのは——名の一部。呼ばれ方の一部。輪郭の端。


少年の指先の線が、一瞬だけ“字”になった。

字になって、すぐに欠けた。

欠けた欠片が、空気へ溶け、門の穴へ吸われていく。


——持っていけ。端だけだ。


門の穴が、わずかに揺らいだ。

揺らいで、ぼやけた。

契約糸が、一本、緩んだ。


荷持ちの胸の線が、少しだけ薄くなる。

喉の動きが止まる。

涙が落ちる。息が戻る。


隊長が、少年を見た。

合図でもなく、命令でもなく、ただ目で問う。

“何をした?”

少年は答えない。答えれば契約になる。

ただ、胸の杭に手を当て、呼吸の型を続けた。


影が、苛立ちを隠さず言った。


「……代償を払ったな」


払った。

払ったから切れた。

払ったから守れた。

払ったから——何かが欠けた。


少年は自分の口元に触れた。

何かが変だ。

自分の中にあった“呼ばれ方”の端が、薄くなっている。

師が呼んだ自分の呼び方。

その響きの一部が、抜けている。


——戻らない。


戻らないことが、怖い。

怖いのに、確かな勝利がある。

荷持ちは名を言わずに済んだ。契約糸は緩んだ。門は閉じかけている。


隊長が合図を出す。

撤退。

今なら戻れる。

門が完全に閉じる前に。


札師が膜を広げ、斥候が周囲を警戒し、荷持ちを支える。

少年は最後に門を見た。

門の穴はぼやけ、三角形の光が弱まっている。


影が、最後の囁きを落とした。


「……次は、もっと大きく払え」


少年は返さない。

返事は契約。

ただ、胸の杭を押さえ、欠けた端の痛みを覚えた。


撤退の合図。

小隊は森を引き返す。

背後で、門の光がゆっくり薄れていく。


だが薄れていく光の奥で、少年は確かに見た。


門の縁に、刻印が一つ残っている。

三角形の角のひとつに、細い線で刻まれた“印”。

それは、師の型の印だ。

名を失ってもなお残る、英雄の印。


——唯一の名への道標。

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