断つ——師が糸を切る
「唯一の名を、差し出せ」
影の言葉が落ちた瞬間、門の三角形の中心に生まれた欠けが——ゆっくりと“穴”になった。
穴は広がらない。広がらないのに、吸い込む。
光と音と温度を、少しずつ、少しずつ奪っていく。
奪われるものの中に、名がある。
名は声ではない。文字でもない。存在の輪郭だ。
輪郭が削られると、人は自分が自分だと確かめたくなる。確かめたくなって、名を言う。
言った瞬間、輪郭が外へ渡る。
——門は、その衝動を待っている。
荷持ちが、呻いた。
少年が巻きつけた守る糸が、線を包んでいる。包んでいるのに、線は内側から押し返してくる。
名になりたい。名になって楽になりたい。
苦しみの終わりを、名の放棄だと勘違いさせるのが、外のやり方だ。
隊長が歯を食いしばり、札師に合図を出す。
札師が無文字の札を追加で投げる。
札が地面に吸い付くように張り付き、薄い膜を重ねる。
膜は厚くなる。だが厚くなるほど、別の方向に裂ける。膜は万能ではない。
影が笑った形を作り、門に手をかざす。
「香りは、十分だ」
香り。
師の名の残骸。英雄の匂い。
門は、内側の糸のほどけた隙間から滲んだそれを吸っている。
少年は胸の杭を押さえ、必死に膜を維持した。
名を通さない膜。
守る糸で奪う糸を包む膜。
だが膜は、門の要求と反発して軋む。軋むほど、内側の師の糸が引かれる。
——引かないでくれ。
少年は祈りそうになり、唇を噛んだ。祈りは返事になる。返事は契約になる。
祈る代わりに、型を思い出す。師の教え。
“支点は覚悟”。
覚悟を固定すれば、膜は耐える。
そのとき、内側の糸が一瞬だけ強く張った。
張ったのは、支援が増えたからではない。
逆だ。
糸が“切られる直前”に、最後の張りを見せたのだ。
少年の背筋が凍る。
師が——切ろうとしている。
師の支援糸を切る。
つまり、外へ滲んでいる“名の残骸”の通り道を断つ。
通り道を断てば、門は香りを失う。香りを失えば、門は開けない。
だが同時に、少年の膜を支えていた糸も消える。少年は外で一人になる。
影が気づいたように、首を傾げた。
「……内側が、引く」
引く。
支援を引く。糸を引く。
影の声が苛立ちを帯びる。苛立ちは刃だ。刃は名を切る。
門の穴が、わずかに拡がった。
拡がるというより、こちらの輪郭をさらに薄くする。
薄くされるほど、名を確かめたい衝動が強くなる。
少年の喉が焼ける。
言いたい。自分の名を言って、ここにいると確かめたい。
確かめた瞬間に奪われると知っているのに。
少年は両手で口を塞ぎ、息を鼻で吸った。
吸って吐く。吸って吐く。
呼吸は型。型は杭。杭は支点。
門の穴の向こうから、声が落ちた。
「——……」
今度は影の声ではない。
もっと深い。もっと冷たい。
核の声に近い囁き。
囁きは、ひとつの言葉を形にした。
「——来い」
来い。
誰に向かって?
少年ではない。荷持ちでもない。
——師だ。
門が、師を呼んでいる。
唯一の名を持つ者を。
影が甘く言う。
「師を呼べ。……呼べば、救われる」
呼ぶ。
呼び名。
呼び名は契約。
契約した瞬間、師の名の残骸が固定され、外へ引きずり出される。
少年は頭を振った。
振る動作すら契約になりかける。だが振る。
呼ばない。呼べない。呼べば殺す。
そのとき——内側から、確かな“切断”が走った。
ぱちん、と音がした気がした。
実際には音ではない。意味の切断だ。
糸が断たれた。師の支援糸が、縫い跡を跨ぐ通路ごと断たれた。
世界の温度が一段階下がる。
焚き火の匂いが消える。
内側の生活の匂いが消える。
外だけになる。薄い世界だけになる。
少年の胸が詰まる。
苦しい。支点が揺れる。揺れた瞬間、膜が裂ける。
だが、裂けるより先に——門の光が揺らいだ。
香りが消えたのだ。
師の名の残骸が、外へ滲む通路が断たれた。
門は“唯一の名”の匂いを失い、穴の縁がぼやける。
影が苛立った。
「……逃げるのか」
逃げる。
師は逃げたのではない。守るために断った。
だが外は、断つ行為を“拒絶”として扱う。拒絶されたものは、より強く奪いに来る。
影が門に手をかざし、怒りを込めた。
「ならば、錨を——」
影の手が少年へ伸びる。
錨。少年を引いて、師の代わりに支払いにする。
唯一の名がないなら、次点の名を。次点の支点を。
少年は反射的に後退しようとして、止まった。
後退は逃走。逃走は承諾の形になる。
ここで必要なのは退くことではない。固定だ。支点を置いて、場を固定する。
少年は足を踏ん張り、胸の杭を打ち直した。
守る糸で膜を張る。
膜は名を通さない。
名を通さない膜は、外から見れば“餌がない”という宣言になる。
門の穴がさらにぼやける。
開きかけていた門が、閉じかける。
だが閉じ切らない。荷持ちの契約糸が一本残っている。一本あれば十分——その理屈がまだ生きている。
荷持ちが震える。
「……わたし……」
隊長が口を押さえ、泣きそうに首を振る。
札師が膜を重ねる。
それでも、荷持ちの喉は名を求める。名を言えば楽になると錯覚させられている。
少年は、荷持ちへ目を向けた。
その瞬間、影が低く言った。
「選べ」
選べ。
誰を支点にするか。
誰の名を差し出すか。
支点を選ぶこと自体が、契約の入口になる。
少年の胸が痛い。
師は内側で糸を切った。自分の名の残骸を断った。
つまり、師は“外に来ない”と決めた。
ならば外で決めるのは——少年たちだ。
少年は、息を吸った。
吐いた。
呼吸の型で、支点を固定する。
そして、声にならない声で誓った。
——支点は、奪わせない。
——名は、差し出さない。
——契約の糸は、切る。
切る方法は、まだわからない。
だが師が一つ示した。
“断つ”ことはできる。
糸は切れる。
切れるなら、門は閉じられる。
影が、ゆっくり笑った。
「ならば、切ってみろ」
門の穴が、薄く笑っている気がした。
薄い世界の中で、名だけが重くなる。




