次の門——名の滲み
次の門は、森の“くぼみ”にあった。
地面がわずかに下がり、黒砂が輪を描くように集まっている。
その中心に、三角形の冷たい光が浮かんでいた。
光は揺れない。風がなくても揺れない。焚き火のように揺れない。
揺れない光は、意志だ。ここに門がある、という意志。
影——戦友の顔をした案内人は、門の手前で立ち止まった。
振り返る。
顔の輪郭が一瞬だけはっきりし、次の瞬間には薄くなる。
人の形を保つために、こちらの理解を吸っているみたいに。
「ここだ」
骨の内側に言葉が落ちる。
少年は理解しないように、視線を光の縁へ固定した。
理解は契約。契約は糸。糸は名に繋がる。
隊長が合図を出す。
陣形を整えろ。距離を取れ。札を準備。
札師が無文字の札を四方に置き、薄い膜を作る。膜は境界の主張だ。
主張がある限り、奪いは少し遅れる。
だが門は遅れない。
門は待たない。
門は“支払い”の形でしか開かない。
荷持ちは、膝をついていた。
口元を押さえられ、肩が震え、目が虚ろだ。
胸の線が、もはや線ではない。文字の輪郭になりかけている。
名の形が、内側から外へ滲んでいる。
少年は、胸の杭に巻きつけた膜を意識した。
名を通さない膜。
守る糸で奪う糸を包む膜。
——薄い。薄すぎる。外は薄さを破るのが得意だ。
影が、門の光に手をかざした。
触れない。触れなくても、門は反応する。
反応するほど、門は“契約の場”だ。
「支点を示せ」
影の言葉が落ちる。
落ちた瞬間、門の三角形が一段明るくなった。
明るくなっただけで、胃が縮む。光がこちらの名を嗅いでいる。
隊長の合図が、空気の薄さに負けそうになる。
合図は内側のルールだ。外は内側のルールを薄くする。
薄くされた瞬間、誰かが声を出してしまう。
札師の一人が、呻いた。
呻きは返事ではない。だが外は呻きを“承諾”に変える。
影が甘く言う。
「言え。名を」
荷持ちが、涙を流しながら笑った。
笑いは幸福の笑いではない。楽になる直前の笑いだ。
名を言って終わりにしたい。終わらせたい。
終わるのは苦しみではないと知っているのに、身体が求める。
隊長が荷持ちを抱えるように押さえ、首を振る。
やめろ。
やめろ。
それだけが、合図で伝わる。だが合図は外には届かない。
少年は決めた。
——荷持ちの契約糸を、切る。
契約は結ばれた。結ばれた糸は一本。
一本なら、切れる可能性がある。
切る方法はひとつ。門が欲しがる“支点”を別の形で満たし、契約糸の意味をずらす。
意味をずらせば、契約の対象が変わる。
少年は前へ出た。
隊長が合図する。止まれ。戻れ。
少年は合図に従わない。従えば荷持ちが名を言う。従えば糸が太る。
少年は門の手前へ立った。
影が笑った。
「よい。……錨が来た」
錨。師を引く錨。
少年は返事をしない。返事は契約。
代わりに、胸の杭を握りしめる。握りしめて、膜を強く張る。
門の三角形が、少年の胸の杭に反応した。
光が一瞬、少年の指先へ走る。
指先の線が熱くなる。名が形になりかける熱。
少年は歯を食いしばり、型を組む。
声は出さない。
守る糸で、名を通さない膜を厚くする。厚くして、熱を内側へ戻す。
——戻せ。
戻そうとした瞬間、外が別の糸を投げ込んできた。
影の輪郭が一瞬だけ“本物”になる。
戦友の顔。師が封じた過去の顔。
本物に見えるほど、理解が生まれる。理解が契約になる。
影が囁く。
「師は、ここへ来る」
少年の胸が跳ねる。
来る。来てはいけない。来れば唯一の名が門になる。
その動揺が、膜を薄くする。薄くなった瞬間、名の熱が漏れる。
門が、喜んだ気がした。
光が一段明るくなる。
そして——内側から伸びてきていた結界糸が、ぎしりと鳴った。
鳴ったのは音ではない。
糸が限界に達した“意味”の軋みだ。
内側の師の支援糸が、耐えきれない。
耐えきれないほど、外が糸を引いている。少年を錨にして、師を引こうとしている。
少年の胸の杭に絡んでいた内側の糸が、わずかにほどけた。
ほどけた隙間から——何かが滲んだ。
名。
師の名ではない。師の名は削られている。
だが名の“残骸”——名として機能する匂いだけが、滲む。
英雄の型の匂い。守る者の匂い。
外が一番欲しがる匂い。
門が、吸った。
吸った瞬間、森の色がさらに薄くなり、影が嬉しそうに言った。
「……香った」
少年の喉が痛い。
痛いのは声を出していないのに、喉が“名を言う準備”をしているからだ。
名を言えば、この痛みは消える。消えるように思える。
その誘惑が一番危険だ。
荷持ちが、ふっと力を抜いた。
隊長の腕の中で、荷持ちの口が動く。
「……わたしは……」
名を言いかけている。
名を言えば契約が完成し、門が開く。
門が開けば、唯一の名が要求される。
要求されるのは——師の名の残骸か、弟子の名か。
少年は、荷持ちへ向かって手を伸ばした。
手を伸ばす動作そのものが契約になりかける。
だが伸ばす。伸ばさなければ奪われる。
少年は、荷持ちの胸の線へ手を当てた。
当てた瞬間、冷たい線が熱くなる。
線は文字になる寸前だ。名になる寸前だ。
少年は、胸の杭から糸を一本抜き、荷持ちの線へ巻きつけた。
守る糸。名を通さない膜の糸。
糸が線を包む。包んだ瞬間、荷持ちの喉の動きが止まる。
荷持ちが、涙を流して息を吸った。
吸って、吐く。
呼吸は型だ。型は支点を固定する。
——止めた。
止めた、はずだった。
影が低く笑った。
「良い。……糸は二本になった」
少年の血が冷える。
切るために動いたのに、糸が増えた。
荷持ちの契約糸を切るどころか、自分の糸を絡めてしまった。
守る糸が、契約の糸に取り込まれた。
門の三角形が、強く光った。
光が、少年と荷持ちの間に張られた糸を伝い、内側の師の糸へ届く。
届いた瞬間——内側の糸が、大きくほどけた。
名の残骸が、滲む。
滲んで、外へ漏れる。
漏れた匂いに、影が嬉しそうに息を吸う。
「……来る」
影が言う。
来る。師が。内側から引かれる。
唯一の名が、門になる。
少年は、膝が折れそうになるのを堪え、胸の杭を両手で押さえた。
押さえながら、声にならない声で誓う。
——絶対に、引かせない。
だが門の光は、もう“開く準備”を始めていた。
三角形の中心に、黒い欠けが生まれる。
欠けは穴になる。穴は呼び名になる。呼び名は契約になる。
影が、最後の言葉を落とした。
「唯一の名を、差し出せ」




