案内人——戦友の顔をした“契約”
影は、人の形をしていた。
肩幅、腕の長さ、首の角度。
どれも人間の比率に似ている。似ているから、目が勝手に“人”だと判断する。
判断した瞬間、油断が生まれる。油断は返事を生む。返事は契約になる。
隊長が手で合図を出した。
円陣。距離を取れ。囲むな。逃げ道を確保。
小隊は訓練された動きで散り、影との距離を保った。
影は、距離を気にしないように立っている。
こちらが散っても、影はただ“そこにいる”。
まるで距離という概念が、この外側には薄いみたいに。
影が、ゆっくり顔を上げた。
——顔がある。
顔があるはずがないのに、顔の輪郭だけは見える。
目の位置に暗い欠け。鼻の影に薄い線。口元に、笑いの形。
その輪郭は、どこかで見たことがある気がした。
少年の胸の杭がきしむ。
宿帳の中に、書けないのに刻んだ“誰か”。
師が言った「古い戦友」。
鍵付きの手紙を寄越した“誰か”。
影が言った。
「……外は、久しい」
音はない。骨の内側で鳴る言葉。
言葉は、理解を要求する形で落ちてくる。
理解すれば契約。だから理解したくない。だが意味は刺さる。
隊長が声を出さずに合図を送る。
問いかけるな。返事をするな。
相手の言葉は受け取らず、事実だけを見る。
斥候が一歩、影の足元へ回り込もうとした。
影は動かない。動かないのに、斥候の背中に冷たいものが走った。
斥候が立ち止まる。立ち止まる動作が、まるで見えない壁に触れたみたいだった。
影は、ゆっくりと首を傾げた。
「名を、隠している」
少年の指先の線が冷えた。
隠している。名を言わない。名を書かない。符号で呼ぶ。
それら全てが、相手に見透かされている。
影が続ける。
「隠しても、同じだ。……名は、持っているだけで香る」
香る。
名が匂いになる。匂いで追跡される。
それは、恐ろしく的確だった。声は名を求めた。札は意味を食われた。指先に線が浮かんだ。
名は内側から漏れている。
隊長が合図を出し、札師が無文字の札を一枚、地面に置いた。
札は“境界”を示すための符号だ。
この線より先に入るな、という意味を、文字ではなく型で示す。
影はその札を見下ろし、笑った形を作った。
「その線は、門ではない。……門は、開いた」
隊長の目が鋭くなる。
開いた門。三つの杭。縫い跡の向こう。
——門を開けた以上、もう引き返せないのか。
影が言った。
「案内しよう」
隊長は動かない。
動かないのが答えだ。返事をしない。契約しない。
影は、こちらの沈黙を“承諾”として扱うように、一歩前へ出た。
歩幅が一定。足音はない。
足が地面に触れていないみたいに滑る。滑るのに、足跡は残る。人の足跡。たった今ついた足跡。
隊長が手で合図を出した。
距離を保って追う。
近づくな。
視線を逸らすな。
小隊は影の背後を、一定の距離で追った。
追うというより、“導かれている”。
導かれているのに、契約はしていないはずだ。
——していないはずなのに。
森の色がさらに薄くなっていく。
木の葉の緑が灰色に近づく。地面の黒砂が、より黒くなる。
空の灰色が、穴の色に寄る。
影が、歩きながら言った。
「核は、ここにない」
隊長が反射的に眉を動かす。
言葉に出していない。だが反応があった。反応も契約の糸になる。
少年はそれが怖くて、視線を地面へ落とした。
地面の足跡を見ないと進めないから、という理由で自分を誤魔化しながら。
影は続ける。
「核は、もっと深い。……“唯一の名”の先にある」
唯一の名。
単語が刺さる。
誰の名だ。何の名だ。
聞きたい衝動が喉を押し上げる。聞いた瞬間に契約になるのに。
そのとき、荷持ちが小さく呻いた。
「……っ」
呻きは声ではない。返事ではない。
だが外は、それを“返事”として受け取ろうとする。
呻きの音が骨の内側に増幅され、言葉になりかける。
隊長が荷持ちの口を押さえようとした。
間に合わなかった。
荷持ちの喉から、息が漏れた。
「……はい」
たった二文字。
返事。
契約。
森が、静かに笑った気がした。
音ではない。意味の揺れだ。
影が振り返り、荷持ちを見た。見た瞬間、荷持ちの顔から血の気が引く。
「良い。……契約した」
影が言う。
隊長が手で合図を出す。違う、違う、違う。
だが合図は外には届かない。合図は契約を破れない。
荷持ちの胸の辺りに、薄い線が浮かんだ。
少年の指先の線と同じ。文字になりかけた輪郭。
輪郭が胸から喉へ上がり、唇の裏側に触れる。
荷持ちが、震える声で言いかける。
「……わたしの、な……」
名。
名を言った瞬間、名が外へ渡る。
渡った名は刃になる。核へ繋がる鍵になる。
隊長が荷持ちを後ろから押さえつけ、肩を掴んだ。
声を止める。
返事を止める。
だが契約はすでに結ばれている。
影が、ゆっくり言った。
「名は、差し出せば軽くなる」
その言葉は、誘惑の形をしている。
軽くなる。楽になる。苦しみが消える。
実際、荷持ちの顔が少しだけ楽そうになる。名を言えば、苦しみが終わると思っている顔だ。
——終わるのは苦しみではない。存在だ。
少年の胸の杭がきしんだ。
自分も同じ衝動を持っている。名を言って楽になりたい衝動。
衝動があること自体が、外の餌だ。
札師が無文字の札を投げた。
札は地面に張り付き、淡い膜を作る。
膜は薄い。だが“ここに境界がある”という主張になる。
主張がある限り、契約を少しだけ遅らせられる。
隊長が荷持ちの口元を押さえ、耳元で囁く——声ではない囁き。唇の動きだけで指示する。
「息をしろ」
「数を数えろ」
「名を思い出すな」
「名を言うな」
荷持ちは涙を流しながら頷く。
頷きは契約になり得る。だが今は頷かなければ崩れる。支点が抜ける。
影が、こちらを見渡し、ゆっくり言った。
「契約の糸は、一本あれば十分だ」
一本。
一本でも繋がれば、門は開く。
一本でも繋がれば、唯一の名へ届く。
影は前を向き、歩き出した。
まるで荷持ちの契約が、道を確定させたかのように。
隊長が合図を出す。
追う。
荷持ちを置いていけない。置けば名が奪われる。奪われた名が刃になり、全員が切られる。
——守るしかない。
少年は、荷持ちの背中を見た。
背中に薄い線がある。線は文字になりかけている。
少年の指先の線も、濃くなる。外が、名を集め始めている。
影が言った。
「唯一の名は、差し替えがきかない」
少年の胸の杭が、ひどく重くなる。
差し替えがきかない。代わりがない。
それは、師の名か。弟子の名か。
あるいは——名を失ってもなお“名として残る何か”。
森の先で、冷たい光がまた瞬いた。
光は“印”の形をしていた。
三角形。三つの杭の形。
門の次の門が、そこにある。
影が、立ち止まった。
振り返り、荷持ちを見て、そして小隊全員を見た。
「次は、支点を示せ」
隊長が一瞬、動きを止めた。
支点。
誰が支点か、外に示せと言っている。
示した瞬間、示した者が“唯一の名”に近づく。
少年は、胸の奥の杭に手を当てた。
師の言葉が蘇る。支点を貸すな。名を差し出すな。
だが荷持ちは、もう契約した。
契約の糸は一本あれば十分だ。
一本の糸が、全員を引きずっていく。
少年は息を吸い、吐き、型を守ろうとした。
守ろうとするほど、喉の奥で名が疼いた。
——このままでは、誰かの名が奪われる。
奪われる前に、刻むしかない。
刻む場所は、紙じゃない。声でもない。
支点の中に。
少年は、ゆっくりと一歩前へ出た。




