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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第2章 結界——愛の形が型になる

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案内人——戦友の顔をした“契約”

影は、人の形をしていた。


肩幅、腕の長さ、首の角度。

どれも人間の比率に似ている。似ているから、目が勝手に“人”だと判断する。

判断した瞬間、油断が生まれる。油断は返事を生む。返事は契約になる。


隊長が手で合図を出した。

円陣。距離を取れ。囲むな。逃げ道を確保。

小隊は訓練された動きで散り、影との距離を保った。


影は、距離を気にしないように立っている。

こちらが散っても、影はただ“そこにいる”。

まるで距離という概念が、この外側には薄いみたいに。


影が、ゆっくり顔を上げた。


——顔がある。


顔があるはずがないのに、顔の輪郭だけは見える。

目の位置に暗い欠け。鼻の影に薄い線。口元に、笑いの形。

その輪郭は、どこかで見たことがある気がした。


少年の胸の杭がきしむ。

宿帳の中に、書けないのに刻んだ“誰か”。

師が言った「古い戦友」。

鍵付きの手紙を寄越した“誰か”。


影が言った。


「……外は、久しい」


音はない。骨の内側で鳴る言葉。

言葉は、理解を要求する形で落ちてくる。

理解すれば契約。だから理解したくない。だが意味は刺さる。


隊長が声を出さずに合図を送る。

問いかけるな。返事をするな。

相手の言葉は受け取らず、事実だけを見る。


斥候が一歩、影の足元へ回り込もうとした。

影は動かない。動かないのに、斥候の背中に冷たいものが走った。

斥候が立ち止まる。立ち止まる動作が、まるで見えない壁に触れたみたいだった。


影は、ゆっくりと首を傾げた。


「名を、隠している」


少年の指先の線が冷えた。

隠している。名を言わない。名を書かない。符号で呼ぶ。

それら全てが、相手に見透かされている。


影が続ける。


「隠しても、同じだ。……名は、持っているだけで香る」


香る。

名が匂いになる。匂いで追跡される。

それは、恐ろしく的確だった。声は名を求めた。札は意味を食われた。指先に線が浮かんだ。

名は内側から漏れている。


隊長が合図を出し、札師が無文字の札を一枚、地面に置いた。

札は“境界”を示すための符号だ。

この線より先に入るな、という意味を、文字ではなく型で示す。


影はその札を見下ろし、笑った形を作った。


「その線は、門ではない。……門は、開いた」


隊長の目が鋭くなる。

開いた門。三つの杭。縫い跡の向こう。

——門を開けた以上、もう引き返せないのか。


影が言った。


「案内しよう」


隊長は動かない。

動かないのが答えだ。返事をしない。契約しない。


影は、こちらの沈黙を“承諾”として扱うように、一歩前へ出た。

歩幅が一定。足音はない。

足が地面に触れていないみたいに滑る。滑るのに、足跡は残る。人の足跡。たった今ついた足跡。


隊長が手で合図を出した。

距離を保って追う。

近づくな。

視線を逸らすな。


小隊は影の背後を、一定の距離で追った。

追うというより、“導かれている”。

導かれているのに、契約はしていないはずだ。

——していないはずなのに。


森の色がさらに薄くなっていく。

木の葉の緑が灰色に近づく。地面の黒砂が、より黒くなる。

空の灰色が、穴の色に寄る。


影が、歩きながら言った。


「核は、ここにない」


隊長が反射的に眉を動かす。

言葉に出していない。だが反応があった。反応も契約の糸になる。

少年はそれが怖くて、視線を地面へ落とした。

地面の足跡を見ないと進めないから、という理由で自分を誤魔化しながら。


影は続ける。



「核は、もっと深い。……“唯一の名”の先にある」


唯一の名。

単語が刺さる。

誰の名だ。何の名だ。

聞きたい衝動が喉を押し上げる。聞いた瞬間に契約になるのに。


そのとき、荷持ちが小さく呻いた。


「……っ」


呻きは声ではない。返事ではない。

だが外は、それを“返事”として受け取ろうとする。

呻きの音が骨の内側に増幅され、言葉になりかける。


隊長が荷持ちの口を押さえようとした。

間に合わなかった。


荷持ちの喉から、息が漏れた。


「……はい」


たった二文字。

返事。

契約。


森が、静かに笑った気がした。

音ではない。意味の揺れだ。

影が振り返り、荷持ちを見た。見た瞬間、荷持ちの顔から血の気が引く。


「良い。……契約した」


影が言う。

隊長が手で合図を出す。違う、違う、違う。

だが合図は外には届かない。合図は契約を破れない。


荷持ちの胸の辺りに、薄い線が浮かんだ。

少年の指先の線と同じ。文字になりかけた輪郭。

輪郭が胸から喉へ上がり、唇の裏側に触れる。


荷持ちが、震える声で言いかける。


「……わたしの、な……」


名。

名を言った瞬間、名が外へ渡る。

渡った名は刃になる。核へ繋がる鍵になる。


隊長が荷持ちを後ろから押さえつけ、肩を掴んだ。

声を止める。

返事を止める。

だが契約はすでに結ばれている。


影が、ゆっくり言った。


「名は、差し出せば軽くなる」


その言葉は、誘惑の形をしている。

軽くなる。楽になる。苦しみが消える。

実際、荷持ちの顔が少しだけ楽そうになる。名を言えば、苦しみが終わると思っている顔だ。

——終わるのは苦しみではない。存在だ。


少年の胸の杭がきしんだ。

自分も同じ衝動を持っている。名を言って楽になりたい衝動。

衝動があること自体が、外の餌だ。


札師が無文字の札を投げた。

札は地面に張り付き、淡い膜を作る。

膜は薄い。だが“ここに境界がある”という主張になる。

主張がある限り、契約を少しだけ遅らせられる。


隊長が荷持ちの口元を押さえ、耳元で囁く——声ではない囁き。唇の動きだけで指示する。


「息をしろ」

「数を数えろ」

「名を思い出すな」

「名を言うな」


荷持ちは涙を流しながら頷く。

頷きは契約になり得る。だが今は頷かなければ崩れる。支点が抜ける。


影が、こちらを見渡し、ゆっくり言った。


「契約の糸は、一本あれば十分だ」


一本。

一本でも繋がれば、門は開く。

一本でも繋がれば、唯一の名へ届く。


影は前を向き、歩き出した。

まるで荷持ちの契約が、道を確定させたかのように。


隊長が合図を出す。

追う。

荷持ちを置いていけない。置けば名が奪われる。奪われた名が刃になり、全員が切られる。

——守るしかない。


少年は、荷持ちの背中を見た。

背中に薄い線がある。線は文字になりかけている。

少年の指先の線も、濃くなる。外が、名を集め始めている。


影が言った。


「唯一の名は、差し替えがきかない」


少年の胸の杭が、ひどく重くなる。

差し替えがきかない。代わりがない。

それは、師の名か。弟子の名か。

あるいは——名を失ってもなお“名として残る何か”。


森の先で、冷たい光がまた瞬いた。

光は“印”の形をしていた。

三角形。三つの杭の形。

門の次の門が、そこにある。


影が、立ち止まった。

振り返り、荷持ちを見て、そして小隊全員を見た。


「次は、支点を示せ」


隊長が一瞬、動きを止めた。

支点。

誰が支点か、外に示せと言っている。

示した瞬間、示した者が“唯一の名”に近づく。


少年は、胸の奥の杭に手を当てた。

師の言葉が蘇る。支点を貸すな。名を差し出すな。


だが荷持ちは、もう契約した。

契約の糸は一本あれば十分だ。

一本の糸が、全員を引きずっていく。


少年は息を吸い、吐き、型を守ろうとした。

守ろうとするほど、喉の奥で名が疼いた。


——このままでは、誰かの名が奪われる。


奪われる前に、刻むしかない。

刻む場所は、紙じゃない。声でもない。

支点の中に。


少年は、ゆっくりと一歩前へ出た。

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