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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ  作者: swingout777
第1章 名——戦場の拾いもの

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英雄の名が消える朝、弟子だけが師を呼んだ

音が、ほどけていく。

叫びも、剣戟も、地鳴りも——そこに在るはずのものが、白い布で包まれたみたいに遠のいて、最後には「存在していない」みたいに消える。


戦場の空は薄曇りだった。雲は低く垂れ、灰色の光が平らに広がる。なのに、結界の外側だけが妙に暗い。暗いのではなく、光が吸われている。目を凝らすほど、視界の端が欠けていく。


災厄の触手が地面から湧く。黒でも赤でもない。色の名前がつかない「穴」みたいなものが、ねじれて、のたうって、兵の列を舐める。


私は呼吸を整え、指を立てた。

掌の内側で、言葉にならない術式がほどけていく。ここは戦場だ。考えるより先に、身体が型を取る。私はそれを信じるしかない。


「——結べ。縫え。閉じろ」


声に出した瞬間、胸の奥がきしむ。発声は、術式の鍵だ。鍵を回すたびに、私は何かを差し出している。差し出すものの正体を、もう何度も見てきた。


地面に描かれた陣が淡く光る。線が走り、折れ、重なる。

その上に、透明な膜が張った。膜は空気を撫で、触手の先端に触れた瞬間、ぱん、と弾いた。音は聞こえない。だが衝撃だけが、骨に響く。


兵の列が一歩、息を取り戻す。誰かが祈るように唇を動かした。誰かが泣いている顔をした。私はそれらを横目に、もう一度、指を組み替える。


膜は「壁」ではない。支点が揺れれば崩れる。

支点——結界の核。そこに力を集め、流し、受け止める。私は支点を、胸の奥に据えるように意識した。


触手が二本、三本と重なる。膜が軋み、空気が裂ける。

私は踏み込む。足の裏で泥を掴み、全身を一本の線にした。


「——返す」


短い言葉で、術式が反転する。

膜は膨らみ、触手を押し返した。触手は抵抗し、膜はさらに膨らみ、限界まで張り詰めたあと——


ぷつり、と糸が切れるように、触手が「解けた」。


消えたのではない。解けたのだ。編み物がほどけるみたいに、形を保てなくなって、地面へと落ちていく。落ちたものは砂になり、砂は風に散り、風は……音のないまま遠ざかっていった。


兵たちが、遅れて歓声を上げた。遅れて、というのは、私の耳に届くのが遅れたからではない。彼ら自身が、声を出して良いのか迷ってから、出したように見えたからだ。


「英雄さま……! ありがとうございます、英雄さま!」


呼ばれた瞬間、胸の奥がひやりと空いた。

誰のことを呼んだのか、わからない。自分のことだと理解するまで、ほんの半拍遅れる。


その半拍が、怖い。


私は振り返って、頷いた。笑顔の形を、顔の筋肉に思い出させる。

笑わなければならない。英雄は、笑うものだ。


勝利の余韻が広がる。兵が担架を運ぶ。血が泥に混じる。空の曇りは変わらない。

なのに、世界は少し軽くなったように感じる。災厄の「穴」が薄くなったのだ。


代償が来る。

勝利の直後に来る。いつも、同じ。


私は意識の端に、白い紙を思い浮かべた。そこに自分の名を書こうとする。書こうとして、筆が止まる。


……名。


私は、私の名を知っている。はずだ。

知っているのに、口に出そうとすると、舌が動かない。喉の奥が空振りする。


「師匠!」


少年の声が、糸のように私を引いた。

私はそちらを見る。泥を跳ね上げて走ってくる、小柄な影。装備の重さに身体が負けそうなのに、それでも目が真っ直ぐだ。


弟子。

私の——弟子。


「大丈夫ですか? 今、顔色が……」


少年が私の腕を掴む。手が熱い。生きている熱だ。

私はその熱に、かろうじて現実へ戻される。


「大丈夫だ」


言いながら、私は「何が大丈夫なのか」を理解できていない自分に気づく。

大丈夫とは、何だ。傷か。疲労か。——それとも、名か。


少年は私の顔を覗き込み、瞬きを止めた。心配が、呼吸の回数に出ている。


「師匠……?」


その呼び方は、助かる。

名で呼ばれたら、私は返せない。返せないことを、少年に見せたくない。


私は少年の頭に手を置いた。髪が泥で固い。

頭を撫でる動作は、手が覚えている。言葉より先に、身体がやってくれる。


「よく耐えた。支点を守ったな」


「……はい。師匠が結界を張る間、僕が——」


少年は言葉を続けかけて、唇を噛んだ。

続けたら、今の私の異常に触れてしまうと感じたのだろう。彼は賢い。だからこそ、痛い。


私は笑ってみせる。

英雄の笑い方を。師の笑い方を。


「帰るぞ」


口に出した瞬間、私は「どこへ帰るのか」を一瞬見失った。

陣地。野営地。拠点。——言葉が、曖昧な霧になって漂う。霧の中に、確かなものが一つだけ浮かぶ。


少年の顔。

この子だけは、忘れたくない。


私は歩き出す。少年が隣に並ぶ。兵が道を開ける。

「英雄さま」と呼ばれるたび、胸の奥が空く。空いた場所へ、冷たい風が入ってくる。


それでも私は、歩く。

歩けている限り、英雄は英雄でいられる。


——そのはずだった。


野営地へ戻る道の途中、少年が、ためらうように小さく言った。


「……師匠。僕のこと、わかりますか」


私は足を止めた。

わかる。もちろんだ。弟子だ。私の——


私は口を開く。名を呼ぶために。

呼ばなければならない。安心させなければならない。師として、英雄として。


だが、舌が動かない。

喉の奥で、言葉が「無い」ことになっている。


少年の目が揺れる。怖れと、願いと、覚悟が同時にそこにある。


私は絞り出すように、問いを口にした。


「……君は、誰だ?」


その瞬間、少年の顔から血の気が引いた。

周囲の音が、またほどけていく。世界の輪郭が、薄くなる。


私は知っているはずのものを、ひとつ失った。

そして、次に失うものの重さを、もう感じていた。

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