彼女はヤンデいる。
大きい音を立てて、机が叩かれる。
「まったく、最近の若い奴らはこんな簡単なこともできないのか!」
上司の怒鳴り声を浴びているのは、ストレートの黒髪を後ろで一つに結った、スレンダーな女性だ。
「申し訳ありません……」
「謝れば済むと思うな! 終わるまで帰るなよ!」
蝶川音羽は、か細く答えた。
「……はい」
自分の席に戻る途中、周りでヒソヒソと声が聞こえる。
「係長、今日も機嫌悪いな」
「奥さんと上手くいってないみたいよ。あれじゃあねぇ」
「蝶川さんに八つ当たりして、ストレス発散してんのか」
「毎日見ていて、本当かわいそう」
「けど、こっちに飛び火が来ないからいいよね」
上司の言葉よりも先輩や同僚、後輩の言葉の方が心を抉られる。
「お前ら、今週も休日出勤だからな。忘れずに出社しろ」
職場に上司の怒鳴り声が響く。
泣きたい気持ちを抑え込んで、音羽は仕事を再開した。
一段落がついたのは、夜の十時。
残業の休憩中に音羽は、高校からの友人ーー雲巣絲乃に連絡をする。
『もしもし? 音羽?』
「ごめんね、こんな時間に。今って大丈夫?」
『うん。どうしたの?』
「今週も休日出勤になってね。その、出かけるの行けなくなって……」
『いいんだよ。また予定合わせよう』
「ごめんね」
『最近、元気ないね。なにかあった?』
音羽は職場であったことを絲乃に話した。
「上司が変わってから、今の状況なんだよね。どうしたらいいのか、わからないし……」
『そういう人って、今はよくても後から悪いことが起きるものだよ』
「話聞いてくれて、ありがとう。そろそろ仕事に戻るね」
『無理しないで。またなにかあったら電話して?』
「絲乃も無理しないでね。また電話するよ」
友人との通話を切った。
心が耐えられない時、話しを聞いて貰えると気持ちが少し軽くなる。
いつも話を聞いてくれる友人には、申し訳なさと感謝でいっぱいだ。
出かける予定を合わせて、日頃の感謝を形にして渡したい。
なにがいいだろう。
いけない。
頭を仕事に切り替えなければ。
仕事が終わる頃には、時計が深夜一時を回っていた。
翌週になっても、音羽は上司の怒鳴り声を黙って聞いていた。
いつまでこの苦しみを味わないといけないのだろう。
布を力ずくで裂いたような音が、心から聞こえてくる。
それを無視して、音羽は働くしかなかった。
週の半ばになって、状況が変わる。
音羽が出社した時、ふんぞり返って椅子に座る上司の姿がない。
休み、なのだろうか。
部下が休みの許可を貰いに聞くと、有無を言わさず却下していたことを思い出す。
朝礼は課長が行った。
「係長は先日の帰宅途中、階段から転んで怪我をしたため、一ヶ月入院です。退院するまで、私が係長代理を務めます。みなさん、よろしくお願いします」
音羽は複雑な気持ちになった。
いやな思い出しかない上司だが、無事に退院できるまで体が心配だ。
でも、しばらくは怒鳴られなくていいと安堵している方が大きい。
課長が係長代理になって、職場は働きやすい雰囲気に変わる。
精神的なストレスがないだけで、音羽の仕事の生産性は上がり、定時で帰宅できた。
数ヶ月ぶりに絲乃と出かける約束を果たせそうだ。
週末。
待ち合わせの時計台で、癖のある栗毛を肩まで伸ばした女性ーー絲乃はすでに来ていた。
「会えてよかったよ」
音羽は頷いた。
「本当、久しぶり」
「音羽、どこか行きたいところある? 遠慮なく言って?」
最近は仕事漬けだったこともあり、羽を思う存分伸ばしたい気分だった。
絲乃の言葉に、音羽は有り難く甘えることにした。
お昼は喫茶店で食べることになった。
食べ終わって、絲乃が音羽に聞く。
「あのさ、音羽。仕事大丈夫? だいぶ無理していたよね」
絲乃と最後に連絡をしたのは、係長が入院する前だった。
「今は本当に大丈夫」
音羽は絲乃になら話してもいいのではないのかと思った。
「実はね、上司が階段から転んで一か月入院しているの」
「やっぱり。音羽にいやなことをするから、罰があたったんだよ」
「その言い方は、よくないよ。確かに、いやな思いはしていたけど、打ちどころが悪かったら亡くなっていたかもしれないし」
絲乃は気まずそうな表情を浮かべる。
「あ、ごめん。さすがに無神経だった。元気がない音羽の声を聞いていたから」
「心配かけて、ごめんね。でも、今は働きやすいの」
「それでも心配だよ。またなにかあったら連絡して? あたしは、音羽が元気ならそれでいいんだ」
いい友人を持ったなと音羽は思った。
「ありがとう。絲乃が友だちでよかったよ」
「そんなこと言われたら、照れるなぁ」
絲乃は嬉しそうに笑った。
音羽は話題を変えた。
「後で見たいところがあるんだけど、行ってもいい?」
「いいよ。どこ?」
喫茶店の次に向かった場所は、一万円以内で買えるアクセサリーショップだ。
「音羽、なにかほしいのでもあるの?」
「私じゃなくて、絲乃に日頃のお礼がしたくて来たの。気に入ったのがあったら教えて?」
「え、いいのに。でも、せっかくだし」
商品棚に並ぶアクセサリーを、絲乃は見つめる。
「これがいいな」
絲乃が選んだのは、蝶がモチーフのネックレスだ。
「これでいいの?」
音羽が確認すると、絲乃は頷いた。
「それがいいの」
絲乃が希望したネックレスを、音羽は店員にラッピングして貰う。
「はい。いつもありがとう、絲乃」
渡された小さな包みを、絲乃は宝もののように両手で持つ。
「音羽、ありがとう。大事にするね。毎日つけるから」
喜んでくれたようでよかった。
その後、行きたいお店に行けて、音羽は心が満たされた。
「ありがとう、絲乃。気になっていたお店も行けたよ」
「音羽が楽しそうでよかった」
「でも、私が行きたいところばかり付き合わせちゃったね。絲乃も行きたいところあったんじゃない?」
「音羽のいるところが、私の行きたいところだから」
突然、絲乃の顔から感情が消える。
友人が知らない人に見えて、音羽は戸惑う。
「え?」
絲乃は、にこやかに笑った。
「音羽が楽しければ、私も楽しいよ」
「そ、そっか。ありがとう」
いつも通りの絲乃に、音羽はさっきのことを気にしないようにした。
人は、いろんな顔を持っている。
会社にいる時、友人といる時、家族といる時の顔は違うだろう。
たまたま見たことがない友人の一面を目の当たりにして、少し驚いただけ。
音羽と絲乃は予定が合えば、また出かけようと話して別れた。
一か月後、係長は退院して戻ってきた。
以前と変わらず、音羽に怒鳴っている。
職場の空気も、息苦しく重々しい。
音羽の心は、布切れのようにボロボロになっていた。
帰宅すると、体から力が抜ける。
疲れているはずなのに、目が冴えて眠れない。
翌朝、会社に行く支度をしようとした。
体が鉛のように動かない。
音羽は会社に休む連絡をする。
上司が電話に出なくてよかったと、胸をなで下ろす。
怒鳴られたら、涙を堪える自信がない。
病院に行くと、医者から休職の必要があると診断書を出された。
音羽は上司や職場になんて言おうかと不安になった。
ああ、行きたくない。
これ以上、頑張れない。
でも、社会人の礼儀として、会社に連絡はしなければ。
気まずい思いで、音羽は再び会社に連絡をした。
診断書は郵送することになった。
便箋一枚の添え書きを同封してポストに投函する。
これだけのことで、音羽は疲れてしまった。
絲乃が心配して連絡してくれた。
休職中だと音羽は伝える。
「できることがあれば言ってね。力になるよ」
友人から温かい言葉を言われ、嬉しさと自分の情けなさで音羽は泣いた。
一ヶ月は泥のように布団で横になって過ごす。
体が思うように動かないのだ。
夜中。
外から騒ぎ声が聞こえる。
夜明けの時間ではないのに明るい。
赤く揺らめいているものがある。
焼け焦げた臭い。
音羽は目を覚ました。
布団から飛び出す。
上着を羽織る。
玄関の戸が叩かれた。
「蝶川さん、起きて! 逃げよう!」
同じアパートに住む人の声だ。
「はい。行きます」
返事をしながら、音羽は貴重品が入ったバックを手にする。
外に出ると、黒い煙が充満していた。
煙を吸わないよう、鼻と口を手で押さえる。
炎の音と熱気。
時間はかかったが、無事に階段を降りれた。
他の住人たちも避難している。
幸い、逃げ遅れた人はいないようだ。
十五分後に消火活動が行われる。
アパートを燃やす炎は、三時間後に消えた。
日が昇りはじめ、空は明るくなる。
服も、本も、お気に入りのものも全部燃えてしまった。
音羽に残されたのは、貴重品が入ったバックのみ。
自分だけが不幸ではない。
それでも不安と焦燥、悲嘆と絶望が渦を巻いて大きくなる。
音羽は立っていられなくなり、道の隅でしゃがみ込んだ。
近所の人が心配して声をかけてくれた。
おぼつかない足取りで、近くの公園まで歩く。
公園は誰もいなかった。
音羽はベンチに座り、午前九時頃まで放心していた。
どんなに考えても、答えが出てこない。
迷った末、絲乃に連絡した。
やはり、自分でどうにかした方がいいのかもしれない。
自分は友人に頼りすぎていると、音羽は感じた。
途中で切ろうかと思ったが、その前に繋がった。
『もしもし?』
金縛りにあったように体が動かず、電話を切ることができなくなった。
喉がつっかえて、言葉が出てこない。
『もしもし? 音羽どうしたの?』
心配そうな絲乃の声が聞こえる。
なにも言わなかったら、向こうから電話を切られてしまう。
「……助けて」
緊張が解けて、音羽は頬に涙を流した。
『今どこにいるの?』
「公園にいる」
『わかった。すぐに行くから待ってて』
通話が切れる。
二十分後、絲乃は走ってきた。
音羽がプレゼントした、蝶のネックレスをつけている。
泣いていた音羽を見て、絲乃は頭を下げた。
「ご、ごめん、音羽。時間が、かかって」
「ここまで走ってくれたんでしょ? ごめんね……」
一度は止まったはずの涙が、音羽の目元に溢れる。
「お願いだから謝らないで。泣かないでよ」
自分も泣きそうな表情で絲乃が言った。
頬に涙を流しながら、音羽は口角を上げる。
「うん。ありがとう」
絲乃は、音羽の背中をなでていた。
音羽が落ち着いたのを見て、絲乃は聞く。
「音羽。話したくなければ、無理して言わなくていい。なにかあったの?」
聞かれて、音羽はしゃくり上げながら話した。
「これから、どうしよう……」
話し終えると、音羽は呟いた。
こんなことを言ったら、友人を困らせてしまうだけなのに。
「あたしのところに来ない? 狭いマンションだけど、二部屋あるし。生活するには困らないと思う」
「迷惑かけられないよ。私、今休職中だし……」
「他に行くところがあるの?」
「ない、けど」
「音羽なら大歓迎だよ。一緒に行こう」
「……うん」
音羽は、絲乃に手を引かれて歩く。
三十分後、絲乃が住むマンションに着いた。
「おじゃまします」
「これから音羽も住むんだから、かしこまらなくていいよ」
「でも……」
玄関で立ちつくす音羽を、中へ絲乃は手招きする。
「ほら、おいでよ」
靴を脱ぎ、遠慮がちに音羽は足を踏み入れた。
絲乃に手を握られ、扉の前に移動する。
「この部屋使っていいよ。掃除が行き届いていないけれど」
ドアノブを回して開けると、広さ六畳ほどの部屋がある。
布団一式が置かれているだけだ。
音羽が来るのをわかっていたように、きれいである。
「後で必要なものを見に行こうか。役所にも手続きしに行かないとね」
音羽は絲乃に申し訳なさと有難さでいっぱいになり、頷くことしかできなかった。
絲乃は、休職している音羽を腫れものに触るように接することはなかった。
変に気を遣っている様子は見られない。
音羽が勘づかないよう振る舞っているだけかもしれないけれど。
どちらにせよ、今までと同じように接してくれている。
音羽はそれが心地よかった。
だが、気がかりなことがある。
ずっとは、ここにいられない。
絲乃にも限界がある。
本人はなにも言わないが、大きい負担をかけていることは確実だ。
お互いのためにも、いつまでも甘えている訳にはいかない。
音羽は、ずっと思っていたことを口にする。
「私、実家に帰ろうと思うの。ここにいたら、絲乃に迷惑をかけるだけだし」
「ここにいるのが、いやじゃないんだよね?」
「うん。絲乃といると楽しいよ。でもね、やっぱり私がいると負担かけちゃうなって思う」
「負担なんてかかってない。寂しいこと言わないでよ」
絲乃が眉尻を下げて泣きそうな表情を浮かべる。
音羽は自分が悪いことをした気持ちになり、胸が痛んだ。
「……私、ずっとここにいてもいいの?」
「うん。音羽といると楽しいし、いてくれたら嬉しいな」
絲乃は手を後ろに回して口角を上げた。
音羽は出て行かねばならないと思っていたが、不安で胸がいっぱいだった。
休職中で復職できるのか、転職するのかを考える必要がある。
今一人になったら孤独に耐えられるのか、わからない。
絲乃からいてもいいと言われ、音羽は安心した。
友人の存在は音羽にとって、心の支えになっている。
同じマンションに住む以上、自分も絲乃の役に立てるようになろうと、音羽は前向きに考えた。
「ありがとう、絲乃。私、頑張って社会復帰する。これからもよろしくね」
「こちらこそ、末永くよろしく」
ガシャンッと金属の音がした。
「ーーーーえ?」
自分の手首を見ると枷がはめられている。
鎖で繋がれ、自由に移動ができない。
「やっと、捕まえた」
絲乃は、ほしかったオモチャが手に入った子どものような笑みを浮かべる。
音羽は背筋が凍る感覚がした。
「い、との……?」
逃げたくても、手枷があって動けない。
「よかった。音羽がここにいるって思い直してくれて。そうじゃなかったら、足首を切断しなきゃいけなかった。でも、痛いし、いやでしょ? あたしも、そんなことしたくないし」
現実を音羽は受け止められないでいた。
まさか友人が、自分にこんなことをするなんて誰が思うだろうか。
絲乃は興奮した様子のまま続ける。
「ちなみに、音羽の上司を階段から突き落としたのは、あたし。本当はナイフでお腹を刺そうとしたけど、人殺しは音羽がいやだと思ってやめたの。一ヶ月程度の入院で済むなんて、悪運が強すぎるでしょ。アパートに火をつけたのも、あたし。これでも犠牲者が出ないように考えたんだよ? おかげで音羽が家に来てくれたから、成功だね」
「なっ、なんでそんな、ことしたの?」
恐怖で歯を鳴らしながら、音羽は口を開いた。
「お願いだから怖がらないで。音羽のことが好きなの。この世界の誰よりも愛しているの。だから、音羽がネックレスをプレゼントしてくれて嬉しかった。音羽はあたしにとって、きれいな蝶だから。あたしがずっと、ずーっと、最期まで大事にお世話するから安心してね。お金や仕事の心配なんかしなくていいよ。音羽のためだったら、あたしはなんだってできるもの」
音羽の頬を、絲乃は優しく撫でる。
愛しいものに触れる手つきだ。
「あなたは、あたしだけいればいい。あたしも、あなたがいてくれればいい。他はいらない。あたしから離れるなんて許さない。あたしと一緒にいてくれたらいいの。ーーーー死ぬまでね」
絲乃は微笑んで、音羽を抱きしめる。
抱きしめられている音羽は、なにもないところを見つめ、静かに涙を流す。
ああ、捕まってしまった。
どこにも逃げられない。
***
高校入学式。
ストレートの黒髪をなびかせた、スレンダーな同級生を見て、絲乃は胸が高鳴るのを感じた。
生まれてはじめて、一目惚れをした。
恋をした相手は、蝶川音羽という名前だ。
幸運にも同じクラスだと知り、絲乃は嬉しくて飛び上がりそうになった。
誰よりも先に話しかけ、友人の地位を陣取ることができた。
男女の恋愛が大多数の世の中で、同性を好きになったことは誰にも言えないし、相談もできない。
絲乃はせめて、音羽にとっていい友人でいようと努めた。
けれど、抑え込まれて膨れ上がった恋心は、少しずつ形が歪になっていった。
音羽に近づく男がいれば嫉妬で怒り、追い払う。
音羽にいやなことをする人間がいたら、相応の罰を与える。
月日が流れ、音羽はきれいになった。
友人でいるだけでは、満足できない。
絲乃は頭を抱えていた。
音羽を手に入れるには、どうしたらいいのか。
誰にも渡したくない。
誰にも見せたくない。
いつも目の届くところにいてほしい。
知らない誰かのところに行かせたくない。
一人では、なにもできなくして。
自分に依存させれば。
「音羽は一生、あたしのもの」
絲乃は頬を赤く染める。
焦りは禁物だ。
臆病な蝶を逃してはいけない。
蜘蛛は巣を作って、蝶が来るのを辛抱強く待つ。
「待っているからね、音羽」
恋人に言うように、絲乃はささやいた。




