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エピローグ 取り急ぎ、コスモスだけの花束を

 春。



 寮の部屋は、白い壁と備え付けの小さな机だけの、未だ主の居ない部屋だった。


 段ボールを開ける前に、彩愛は机の上を拭いて、そこへ紙袋の中身を置いた。


 机のライトを点けると、透明なガラスケースの中でコスモスが静かに咲いている。


 茶色のコスモス。


 水が無いのに、枯れない。


「……可愛い」


 誰にも聞かれない声でそう言って、彩愛は机の奥、蛍光灯の光が一番良く当たる場所にそれを置いた。


 明日から本格的な勤務が始まる。

 夜勤も、慣れない病棟も、これから増えていくはずだ。


「彩愛ちゃんはきっと、立派な看護師さんになるよ」


 駅の改札口で聞いたその言葉がふっと胸の奥でよみがえる。


「……なれるかな」


 思わず、コスモスに問いかける。

 もちろん返事は返ってこない。


 それでも、彩愛は少しだけ肩の力を抜いて、その花びらを見つめながら小さく笑った。






* * *






 一年が経った。




 彩愛は看護師として働き始めて、怒られる回数は少しだけ減った。代わりに、怒られる内容が重くなった。


 守られる側から、守る側へ。


 それが少しずつ当たり前に変わっていくのが怖かった。




 夜勤明け。


 朝の光は容赦が無い。駅のホームは眩しくて、身体が一瞬だけ空っぽになる。


 改札を抜けたところで、彼が待っていた。


 最初の頃は『迎えに来てくれて助かる』と思っていたのに、その日は違った。


「おつかれ。帰り、寄り道していい?ちょっとだけ――」


「……今それ言う?」


 言葉が、刃みたいに出た。


 自分でも驚いた。相手の顔が一瞬止まるのが見える。


 止まったまま、彼は傷付いた人の顔をしないように笑う。


「ごめん。疲れてるよね」


 そう言われた瞬間、彩愛の胸は余計に痛んだ。


 怒ったんじゃない。疲れたんだ。


 でも、その疲れは一番近くに居る人に向かってしまう。




 部屋に帰って、机の前に座る。


 コスモスがいつもの顔でそこにいる。


「……私、何してんだろ」


 吐き出すみたいに言うと、涙が出そうになって、目を逸らした。


 彼に苛ついたんじゃない。


 自分に余裕が無いことが、怖い。




 机の上に置かれた花は、水を欲しがらない。


 寂しいとも言わない。


 ただ、ずっとそこにいる。




 彩愛はケースの端を指でなぞって、小さく息を吐いた。




 次の日、彩愛は彼に謝った。


 彼は「うん」とだけ言って、彩愛の鞄を持った。


 その『うん』の短さが、逆に優しかった。






* * *






 五年が経った。




 仕事は慣れた。


 慣れた分だけ、慣れない別の痛みを知った。


 命の重さに慣れることは無い。


 ただ、受け止める形だけが少しずつ整っていく。




 その日の帰り、二人は渋谷を歩いていた。


 目的はただの買い物だったはずなのに、彼は何度も立ち止まっては、彩愛の歩幅に合わせてくる。


 いつもより少し、無口だった。


 スクランブル交差点。


 信号待ちの人の波。


 頭上の大きな画面が、突然切り替わる。


 白い画面から流れた言葉に、ふと腕を掴まれた。




『取り急ぎ、コスモスだけの花束を──十二月二十四日公開』




 彩愛は、目が離せなくなった。


 初めて聴いた言葉なのに、何故だか胸の奥がきゅっとなる。


「何それ……」


 小さく呟くと、彼も画面を見上げて、少し困ったみたいに笑った。


 人生には時々、そういう『悪ふざけみたいな優しさ』が混ざる。


 青信号。


 人の流れに押されるように渡りきったところで、彼が立ち止まる。


「……彩愛」


 声の温度が、いつもと違った。


 彩愛の足が止まる。


 彼の手が、ポケットの中で何かを確かめる仕草をする。


 ザワザワした街の音の中で、彼の声だけがはっきりと聴こえた。




「結婚してほしい」




 彩愛は、返事を探す前に先に息を吸っていた。


 泣いたら負けみたいで……泣きたくないのに目の奥が熱い。


「……今、ここで?」


 そう言って笑った自分が、少しだけ大人になった気がした。


 彼も笑って、頷く。


「今が良い。今しか無い気がした」


 彩愛は、言葉より先に頷いてしまっていた。


 人の波の中で見失わないように、彼が彩愛の手を強く握る。


 その握り方が、いつかの帰り道みたいな感覚だった。




 あの人が、人混みから守るように右側を歩いてくれた、あの感覚――


 胸の奥で『鈴』が鳴った気がして、彩愛は笑ったまま泣いていた。






* * *






 結婚して、彩愛は名字が変わった。




 書類の『姓』の欄に、彼の名字――森田、と書く。


 自分の手で書いたのに、自分の名前じゃないみたいで、少し不思議だった。


 机の上のコスモスは、その日も変わらずそこにいた。


 結婚しても、引っ越しても、仕事が変わっても、花は何も言わない。


 何も言わないからこそ、変わらない場所になる。




 ある日、彩愛は妊娠に気付いて、泣いた。


 妊娠することが怖かったからじゃない。


 嬉しさの中に、守るものが増える怖さが混ざった。




 生まれてきたのは、女の子だった。




 名前を決める時、彩愛は一晩中悩んだ。


 可愛い名前が良い。強い名前が良い。そして──読み易い名前が良い。


 でも、どれも決め手が無くて、最後は机の前に座った。




 コスモスの花がそこにいる。


 彩愛は、不意に思う。




 『残る』って……名前もそうかも知れない、と。




 あの人みたいに優しく。誰かの人生に根を張るように。




 彩愛は、娘の名前を『優樹ゆうき』と書いた。




 決めた瞬間、不思議とコスモスの輪郭が少しだけ鮮やかに見えた気がして、彩愛は笑った。






* * *






 優樹が言葉を覚える頃、花は家にある『当たり前』になった。


 ある日、優樹が机の上のコスモスを指差して言った。


「ねえ、ママ。これ、なに?」


 彩愛は一瞬、言葉に詰まる。


 説明は出来る。プリザーブドフラワーで、水が要らなくて、ずっと綺麗に残って――でも、それを言った途端に薄くなる気がした。


 大事なものほど、説明すると小さくなる。


「それはね……」


 彩愛は笑って、答えを途中で飲み込む。


「ママが、昔もらったお花」


「だれに?」


「ちょっとだけ、特別な人に」


 優樹は良く分からない顔をした。


 直ぐに別のおもちゃへ気持ちが移っていく。


 子どもの今は、いつも軽い。




 彩愛は、その背中を見送ってから、ケースについた小さな傷を拭いた。


 生活の中で増えた傷。


 それでも花の形は崩れていない。




 いつしか『思い出』は──『想い出』という名に変わっていた。




「未だ、綺麗に咲いてる」




 彩愛は小さな声で言って、何も無かった顔で夕飯の支度に戻った。






* * *






 時間は、思っているより早い。




 優樹は大人になり、仕事をして、恋をして、結婚した。


 彩愛は『ママ』から『おばあちゃん』になった。


 気付けば自分の背中が、誰かの帰る場所になっていた。




 いつからか、彩愛は体の痛みを誤魔化せなくなった。


 検査を受けて、医師の言葉を聞いた。


 結果だけが胸に落ちる。現実はもっとずっと手触りが荒い。




 がん。




 言葉が冷たく胸に落ちる。


 彩愛は泣かなかった。


 泣かなかったけれど、家に帰って机の前に座り、コスモスを見て、初めて震えた。




――ずっと綺麗に残るよ。




 あの人の声が、耳の奥で揺れる。


 残るのは花だけじゃない。


 残ってほしいものが、残ってしまうものが、同じ形をしていないことが悔しい。




 それでも、彩愛は生きた。


 治療をして、少し良くなった日も、悪くなった日も、机の花は黙っていた。






* * *






 病室の窓辺には、小さな風鈴が飾られていた。優樹が持って来てくれたものだ。




 彩愛はベッドに横たわりながら、風鈴を見上げる。


 風が入る度、チリン、と軽く鳴る。


 その音が、どこか懐かしい。


 ベッド脇の小さなテーブルの上には、透明なガラスケース。


 コスモスがそこにあった。


「母さん、また日曜日にお見舞い来るから」


 枕元に立つ優樹が、心配そうな顔で覗き込む。


 優樹の隣には、制服を着た十七歳の孫がいる。


 自分が若い頃の影みたいに見えて、彩愛は目を細めた。


「未だ、綺麗に咲いてる」


 声は掠れている。


 それでも、花の輪郭だけは何故か良く見えた。


 彩愛は、窓の方へ視線を向ける。


 カーテン越しの光が、白いシーツの上を柔らかく照らしている。




 土曜日昼過ぎ。


 風が通り抜ける。


 窓にかかった風鈴がチリンと鳴った。


 彩愛はそちらを向いて──ゆっくり片手を上げた。


 指先が震える。それでも手を振る。


 誰にとも無く。




「……こんばんは」




 彩愛は最期に窓の外を見たまま、少女の様に微笑んで、太陽の光を迎え入れた。






* * *






「ねえ、お母さん。これも持って帰る?」


 カーテン越しの午後の光が、白いシーツの上だけを柔らかく照らしている。


 さっきまで彩愛が横たわっていたベッドは、皺ひとつ無く整っていた。


 優樹が整えたはずなのに、出掛ける前の彩愛のベッドみたいだった。

※本編はここまでで完結です。2026年4月1日(水) 0:00にあとがきを公開します。

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