最終章 バニラクリームフラペチーノにチョコソースとチョコチップを添えて
二〇二六年二月十五日。
看護師国家試験日の朝は、思ったより静かだった。
静かすぎて怖いくらいで、駅までの道の音がやけにくっきり聴こえる。
改札の前で、私は一回だけ息を吸う。
吐き出すと、白い息が自分の前に落ちて消えた。
大丈夫。
そう心の中で言っても、指先だけが冷たい。
受験票を鞄の中で確かめる。
試験が終わった。
チャイムの音で、世界がふっと軽くなった。
足が地面に着いていないみたいで、帰り道の景色がどこか遠い。
上手く出来たはず。手応えはあった。
でも、不安で居ても立っても居られない……。
その時、なぜか──
『さえちゃんって、全部の夢を現実にしてきたんだね』
ゆうきさんの声が聴こえた気がして、私の不安はどこかへ飛んで行った。
合格発表の日。
スマホの画面に表示された番号を見たとき、声が出なかった。
喜びより先に、空気が抜けたみたいな脱力が来て、足がへたる。
「……あった」
小さく呟いた声が自分の耳に返って来て、やっと現実になった。
私は、家族に報告するため部屋を出る。
リビングへの階段を降りようとした時、LINEの通知音が鳴る。
『どうだった??』
ゆうきさんからだった。
『受かったよ!!』
送信。
既読は直ぐに付いた。返信はもっと早かった。
『おめでとう』
その五文字が、胸の奥にストンと落ちた。
そして、また通知。
『今日、丘の上駅の改札行って良い??ちょっと話すだけ』
『いいよ』
送信してから、しばらくスマホを見つめていた。
改札の向こうに人影が見えた。
白いボーラーハット。アシンメトリの黒いコートを羽織って、スターバックスの紙袋を提げている。
歩き方は少しだけ落ち着いていて、それが逆に子どもみたいに見えた。
目が合うと、ゆうきさんは、いつもみたいに手を振った。
私も、振り返す。
改札越し。
近いのに、遠い距離。
その距離が、今日は調度良かった。
「改札、出ないの?」
「うん。それより、合格おめでとう」
ゆうきさんはそう言って、紙袋を差し出す。
私は紙袋を受け取り、中を見る。
冷たいカップが見えた。透明な蓋の下で、ホイップが白く盛り上がっている。
バニラクリームフラペチーノにチョコソースとチョコチップを追加。
見ただけで分かる。
私が、元気の無い日に飲むカスタム。
「彩愛ちゃんスペシャル」
そう言って、ゆうきさんが少し笑った。
──変な名前。
「今日は、僕が作ってもらった」
私も連られて笑いそうになって、口元を押さえる。
泣きたいのに、笑いも出る。
笑いたいのに、涙も出そうになる。
「……抹茶、克服出来なかったのに?」
「出来ねーよ」
ゆうきさんは、困ったみたいに笑う。
その顔を見て、胸が痛くなる。
痛いのに、嫌じゃない。
笑顔も涙も、両方堪えて、私はカップを受け取った。
指先が冷たくなる。
ホイップの甘さが、鼻の奥に先に届く。
一口。
甘いはずなのに、甘くない。
元気が無い時に、甘く優しく包んでくれていた、いつものカスタム。
味なんかしない。ただ冷たさだけが喉を通る。
「……おいしい」
嘘では無かった。今だけは、いつもの甘さは要らなかった。
優しさは、ドリンクじゃなくて──ゆうきさんの心にカスタムされていたから。
ゆうきさんは小さく頷く。
「良かった」
それから、少しだけ間が空く。
改札のアナウンスが、遠くで鳴る。
人の靴音が流れていく。
ゆうきさんが、次の言葉を探すみたいに一回だけ視線を落として、上げた。
「スタバのお客さんの僕はここまでで終わるつもりだったから」
ゆうきさんは一拍置いて、少しだけ笑った。
「と言うか……この『合格おめでとう』まで、どうしても来たかったんだ」
言い終わってから、視線が一度だけ揺れる。
「だから、僕のLINEは消して良いよ。彩愛ちゃんはきっと立派な看護師さんになるよ。仕事で辛い時は──彼氏くんが居るし……」
ゆうきさんは少し考えて
「彩愛ちゃんスペシャルで、きっと元気になれるから」
私は返す言葉を口に出来ない。
「僕は彩愛ちゃんに会えて、本当に良かった。ありがとう」
目に涙が溜まるのが分かる。
──ゆうきさんの?
──私の?
「振り返らないで行って。ダセェところは見せられないから」
そう言って、ゆうきさんは『あっちへ行け』と手で払う。
私は何も言えないまま、涙を隠す様に踵を返し、ゆっくりと歩き出す。
もう大丈夫、きっと大丈夫。
大事なモノを抱えたまま、前を向いて歩ける人。
誰かを大切に想える人。
自分のことも大事に扱える人。
――そういう人を『大人』と呼ぶんだって、ちゃんと分かった。
ゆうきさんがそれを伝えてくれたから。
ここから私は、大人になれる。
「彩愛ちゃん!!」
呼ばれて、私は止まってしまう。――振り返らないでって言われたのに。
「僕は今でも、彩愛ちゃんの目が凄く綺麗だと思ってるよ!!」
ゆうきさんが手を振った。
私も思わず振り返す。
「ありがとう!!」
――今度は、ちゃんと受け取れた。




