最終章 バニラクリームフラペチーノにチョコソースとチョコチップを添えて
二〇二六年二月十五日。
看護師国家試験日の朝は思ったより静かだった。
静か過ぎて怖いくらいで、駅までの道の音が嫌にくっきり聴こえる。
改札の前で私は一回だけ息を吸う。
吐き出すと、白い息が自分の前に落ちて消えた。
──大丈夫。
そう心の中で言っても指先だけが冷たい。
受験票を鞄の中で確かめる。
試験が終わった。
チャイムの音で世界がふっと軽くなった。
足が地面に着いていないみたいで、帰り道の景色がどこか遠い。
上手く出来たはず。
手応えはあった。
でも、不安で居ても立っても居られない……。
その時、なぜか──
『さえちゃんって、全部の夢を現実にしてきたんだね』
ゆうきさんの声が聴こえた気がして、私の不安はどこかへ飛んで行った。
二〇二六年三月二十四日。合格発表の日。
iPhoneの画面に表示された番号を見た時、声が出なかった。
喜びより先に空気が抜けたみたいな脱力が来て足がへたる。
「……あった」
小さく呟いた声が自分の耳に返って来て、やっと現実になった。
私は家族に報告するため部屋を出る。
リビングへの階段を降りようとした時、LINEの通知音が鳴る。
『どうだった??』
ゆうきさんからだった。
『受かったよ!!』
送信。
既読は直ぐに付いた。
返信はもっと早かった。
『おめでとう』
その五文字が胸の奥にストンと落ちた。
そして、また通知。
『今日、丘の上駅の改札行って良い??ちょっと話すだけ』
『良いよ』
送信してから、しばらくiPhoneを見詰めていた。
改札の向こうに人影が見えた。
白いボーラーハット。
アシンメトリの黒いコートを羽織って、スターバックスの紙袋を提げている。
歩き方は少しだけ落ち着いていて、それが逆に子どもみたいに見えた。
目が合うと、ゆうきさんはいつもみたいに手を振った。
私も振り返す。
改札越し。
近いのに、遠い距離。
その距離が今日は調度良かった。
「改札、出ないの?」
「うん。それより、合格おめでとう」
ゆうきさんはそう言って、紙袋を差し出す。
私は紙袋を受け取り、中を見る。
冷たいカップが見えた。
透明な蓋の下でホイップが白く盛り上がっている。
──バニラクリームフラペチーノにチョコソースとチョコチップを追加。
見ただけで分かる。
私が元気の無い日に飲むカスタム。
「彩愛ちゃんスペシャル」
そう言って、ゆうきさんが少し笑った。
──変な名前。
「今日は、僕が作ってもらった」
私も釣られて笑いそうになって、口元を押さえる。
泣きたいのに、笑いも出る。
笑いたいのに、涙も出そうになる。
「……抹茶、克服出来なかったのに?」
「出来ねーよ」
ゆうきさんは困ったみたいに笑う。
その顔を見て、胸が痛くなる。
痛いのに、嫌じゃない。
笑顔も涙も両方堪えて、私はカップを受け取った。
指先が冷たくなる。
ホイップの甘さが鼻の奥に先に届く。
一口。
甘いはずなのに、甘くない。
元気が無い時に甘く優しく包んでくれていたいつものカスタム。
味なんかしない。
ただ冷たさだけが喉を通る。
「……おいしい」
嘘では無かった。
今だけはいつもの甘さは要らなかった。
優しさはドリンクじゃなくて──ゆうきさんの心にカスタムされていたから。
ゆうきさんは小さく頷く。
「良かった」
それから少しだけ間が空く。
改札のアナウンスが遠くで鳴る。
人の靴音が流れて行く。
ゆうきさんが次の言葉を探すみたいに一回だけ視線を落として、上げた。
「スタバのお客さんの僕はここまでで終わるつもりだったから」
ゆうきさんは一拍置いて、少しだけ笑った。
「と言うか……この『合格おめでとう』まで、どうしても来たかったんだ」
言い終わってから、視線が一度だけ揺れる。
「だから、僕のLINEは消して良いよ。彩愛ちゃんはきっと立派な看護師さんになるよ。仕事で辛い時は──彼氏くんが居るし……」
ゆうきさんは少し考えて。
「彩愛ちゃんスペシャルで、きっと元気になれるから」
私は返す言葉を口に出来ない。
「僕は彩愛ちゃんに会えて、本当に良かった。ありがとう」
目に涙が溜まるのが分かる。
──ゆうきさんの?
──私の?
「振り返らないで行って。ダセェところは見せられないから」
そう言ってゆうきさんは『あっちへ行け』と手で払う。
私は何も言えないまま、涙を隠す様に踵を返し、ゆっくりと歩き出す。
もう大丈夫、きっと大丈夫。
大事なモノを抱えたまま、それでも前を向いて歩いて行ける人。
──そういう人を『大人』と呼ぶんだって、ちゃんと分かった。
ゆうきさんがそれを伝えてくれたから。
ここから私は、大人になれる。
「彩愛ちゃん!」
呼ばれて、私は止まってしまう。
──振り返らないでって言われたのに。
「僕は今でも、彩愛ちゃんの目が凄く綺麗だと思ってるよ!」
ゆうきさんが手を振った。
私も思わず振り返す。
「ありがとう!」
──今度は、ちゃんと受け取れた。




