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第五章 一カ月後のハッピーバースデー

 それから、ゆうきさんとまともに話せなくなった。


 当たり前みたいにこちらへ手を振るゆうきさんを見かけても、会釈をするだけになった。

 視線が合えば、笑う代わりに頷く。声をかけられそうになったら、ペストリへ身体を逃がす。レジの奥へ、裏へ、忙しそうな顔を作って。


 嫌いになったわけじゃない。

 寧ろ逆で、好きになりそうで怖かった。


 どんな顔をすれば良いのか分からず、「試験に集中するため」というそれっぽい理由を付けて、ゆうきさんを避けるようになった。

 私の中で、その言い訳はよく出来た盾だった。


 毎日の生活が、もう充分いっぱいいっぱいだったから。

 看護実習。記録。反省。次の日の準備。寝落ちして、朝に飛び起きて、また同じことを繰り返す。

 それでも私は、私の夢を裏切りたくなかった。


 それともうひとつ。

 私には、守るべき約束がある。

 自分が軽い人間だと思われるのが嫌で、誰かを泣かせる自分になりたくなくて──何より、私自身が私を嫌いになるのが怖かった。


 だからこそ分かった。

 これ以上近付かれると、自分を保てなくなる。


 逃げるのは卑怯だと分かっていた。

 でも、逃げないと壊れる気がした。


 それでも、ゆうきさんは変わらず私に声をかけようとする。


「さえちゃん。ディズニープリンセスは誰が好き?」


「ラプンツェル」


 「へえ」とか「ふーん」と返して終わる人がほとんどなのに、ゆうきさんは「なんで?」と続けたがる。

 私は、その『続き』が怖くて、短く答えるだけにした。


「最近、さえちゃんがいつシフトに入るのか分からなくなってきた」


「入れるとき、入ってるだけ」


 今までなら、「来週は月曜日と土曜日かな」って答えていた。

 答えられた。答えるのが当たり前だった。

 なのに、今は言えない。言った瞬間、また会える日が増える気がして、嬉しくなってしまうから。


 そんな風に逃げていると、ゆうきさんも気付いた様で、遠くから笑顔を見せて手を振るだけになった。

 言葉が無いぶん、その笑顔がやけに綺麗に見えてしまう。

 冬に向かい始めた夜の冷たい空気と共に店内に入って来るゆうきさんの──バーのライトの下でみせる、その笑顔だけが温かい。


 その笑顔を見ると、胸の奥がずきんとした。


 私は、何をしているんだろう。

 避ければ避けるほど、私は自分を嫌いになっていく。




 ある夜。


 閉店前の店内は、昼間の喧騒とは打って変わった独特の静けさがある。

 マシンの蒸気が落ち着いて、カウンタの向こうの照明が柔らかく見える。

 私はテーブルを拭きながら、何度も無意識に入口の方を見ていた。


 ゆうきさんが来た。

 いつもの席に座って、いつもの様にこちらを見た。


 何かを話したそうな目。

 目が合っても、困ったみたいに笑うだけ。


 私は、わざとゆうきさんの隣のテーブルをいつもより長めに拭いたり、わざと発注シートを片手に店内の在庫をゆっくり数えたりした。

 やるべきことは山ほどある。手はいくらでも動かせる。だから、心は誤魔化せる──そんな風に思って。


 すると


「あのさ……」


 来た。


「さえちゃんって、どういう漢字を書くの?」


 その問いかけが、妙に真面目に聞こえて、私はそこで初めて立ち止まってしまった。

 避けていたのに。距離を取っていたのに。

 私のことを、ちゃんと見ているみたいな質問だった。


 私は振り返って答える。


「いろどるにあい」


 ゆうきさんは首を傾げる。

 子どもみたいに、分からないものを分からないままにしておけない顔。


 私は持っていた発注シートに、青いボールペンで——




 彩愛




 と書いた。


 青いインクが紙に滲む。

 『彩』の払いの最後が、少しだけ震えたのが自分でも分かった。


 ゆうきさんの目がきらきら光る。


「彩愛ちゃん!凄く綺麗な名前だ」


 久し振りに見た、いつものゆうきさんの目。

 揶揄うんじゃなく、試すんじゃなく、ただ真っ直ぐに「いいね」と言ってくれる目。


「でも、誰も一発で読めないし……」


 私は、笑顔で軽く言った。

 『扱い難いもの』みたいに、自分の名前をいつも少しだけ下げて置く癖。

 そうしておけば、誰かに否定されても痛くないから。


「ううん。凄く綺麗だよ」


 即答だった。

 迷いも、気遣いの演技も無くて、だから余計に刺さった。


 子供が初めて受け取るプレゼント──ずっと素直に受け取れなかった私は、ゆうきさんのその一言で、自分の名前をちゃんと好きだと思えた。



 また何度目かの夜。


 ゆうきさんはテーブルを拭いている私の名を呼んだ。


「彩愛ちゃん」


「はい」


 ふと緊張の糸が緩んだ。

 振り返った私を、ゆうきさんは手招きしている。

 いつもの席。バーの目の前、ソファの端っこに。


 いつもの様に、我が家で寛ぐみたいに。


 私は、心臓の音が五月蝿くて、足音まで変になりそうで、歩く速度だけを意識して近付いた。


「二十一歳おめでとう。一カ月遅れちゃったけどさ」


 そう言って、ゆうきさんは紙袋を差し出す。

 紙袋の口が、きゅっと折り込まれている。

 ちゃんと渡すために準備してきたみたい。


「臨海来て、まともに話してくれたの彩愛ちゃんが初めてだったからさ。ありがとね」


 驚いて固まる私に、ゆうきさんは続ける。

 私の目を見て、逃げ道を塞ぐみたいに。でも、不思議と押し付けじゃない距離のまま。


「これ、プリザーブドフラワー。水要らないやつ。ちゃんと置いとけば、ずっと綺麗なまま残るやつだから」


 言葉を返せない。何も言えない。

 「そんなの、もらえません」と言うべきなのに、口が動かない。

 紙袋を受け取った手の平だけが熱い。


 ゆうきさんは目を合わせて、一度だけ頷いた。

「来年から寮で一人暮らしって言ってたでしょ? 引っ越したら机に置いときな。部屋可愛くしとけ」


 その言葉が妙にリアルで、未来の私の部屋が一瞬で浮かんだ。

 寮の、小さな机。

 夜に一人で勉強して、疲れて顔を上げたときに目に入る場所。


「……ありがとう」


 何とかそれだけ返した私に、ゆうきさんの次の言葉は耐えられなかった。




「お返しは要らないよ。僕の誕生日は、彩愛ちゃん居なくなった後だから」




 居なくなった後。


 その言葉が私の胸を突き刺したとき、

 「もう直ぐ、さよならなんだ」と、私はその言葉の本当の意味を自覚した。


 ゆうきさんは、最初から分かってる。

 私がここを出ていくことも。

 それがどんな速度で迫っているかも。

 それでも今日、渡してきた。


 受け取った紙袋が、急に重く感じた。

 花の重さじゃない。言葉の重さだ。


 私は、笑えなかった。

 笑って誤魔化せなかった。


 「……ごめん」と言いかけて、言葉は喉の奥で止まった。

 謝ったら、全部が本当になってしまう気がしたから。


 私は紙袋を抱えて、小走りで裏へ逃げる。

 バックヤードの扉を押した瞬間、店内の音が遠くなる。

 棚の段ボールの角が視界に入って、洗剤の匂いがして、現実に戻される。


 紙袋を抱えたまましゃがんで、呼吸の仕方だけを探した。

 泣くまいとすると、泣きそうになる。


 私は、中身をまだ見ていない。見たら、もっと駄目になってしまいそうだから。


 涙は見せられない──子どもの私は、それを隠すことを選んだ。

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