第二章 酔っ払いの夜
次の日、同じ時間帯に彼は来た。
列に並んだ彼は、今日は眼鏡をかけていない。髪型を整え、黒いシャツに白いワイドパンツ。iPhoneを見ている。
私に気付くだろうか?一人ずつお客さんに応対し、彼の番になる。
昨日のことなんて、彼は覚えていないかも知れない――そう思いながら「次のお客さま、どうぞ」と声を掛ける。
目が合うと、彼は少し考えて
「あ、目が綺麗な子」
と言って、笑った。
その言い方に、私を口説いている気が無いことが分かる。
素直で正直な人かも知れない――そんな風に一瞬思うけれど、それは自分自身の目が綺麗だと認めることになる。受け入れられない。
笑顔を返すと、彼はまた
「コーヒーフラペチーノのヴェンティサイズにチョコレートシロップを追加して」
前回と同じモノを注文した。
モカフラペチーノ──スターバックスが最初に創ったフラペチーノ。今ではメニューから消えたけれど、コーヒーフラペチーノにチョコレートシロップを追加すれば、殆ど同じレシピになる。
マニュアル通りメニューを復唱しようと小さく息を吸い込んだとき
「これから臨海ターミナル駅に行くんだ」
唐突に、日常会話が差し込まれる。
「何しに行くんですか?」
動揺を隠す様に、私は咄嗟に質問を返す。
「うーん……それが、臨海に何があるか分からないんだよね」
彼は少し困った顔をして
「君って、臨海の子?」
と聞いてきた。
「私は、丘の上に住んでます」
「丘の上?」
「はい」
「……どこそこ?」
「臨海ターミナルの先です」
「左の方?」
左……?
「あ、西の方?」
彼は言い直す。
「あ、はい。西です」
彼はiPhoneをこちらに向ける。
私はQRコードを読み込み、会計を終わらせる。
「ありがとー」
そう言って、彼はバーに歩いて行った。
レジを打ちながら『目が綺麗な子』という言葉だけが、さっきから自分の名前みたいに耳の奥を優しく撫でている。
それから何度も他のパートナーと仲良く話している彼を見掛けるようになる。
人懐っこい性格で、声色が優しい。
いつも首から鈴のネックレスを下げているから、裏のお客様ノートには『鈴のお客さん』と書かれている。
誰が書いたのかは分からないけれど、その呼び名を見る度に胸の奥がほんの少しだけくすぐったい。
私を見付けると、彼は笑顔で手を振ってくれる。私も笑顔で手を振り返す。
レジに立っている時より、バーの向こうから見るその横顔の方が少しだけ柔らかく見える。
二カ月程経った日の夜だった。私はラストまでのシフトで店に入っていた。
閉店一時間前、スーツ姿の彼がやって来る。
少し歩き方がたどたどしい。
バーに居た私は、いつもの様に彼に手を振りながら近付く。
「こんばんは」
レジのカウンタに両手を付き、少し前屈みになった彼は
「今日ね、酔っ払ってるんだ」
と言った。
「酔っ払ってるんだ」
私は彼の言葉を繰り返し、少し笑うと、彼は満面の笑顔で
「うん」
と応える。
私はバーに戻り、彼の注文が流れてくるのを待つ。
レジの方から酔っ払った彼の声が薄っすらと聴こえた。
「後は、二人で上手くやるよ」
オーダーが印刷される。
V ダーク M チップ F
キャラメルソース
チョコレートソース
グラス
エクストラホイップ
エクストラソース
ノンFRSC
カスタムのバーゲンセールみたいなオーダーに笑みが零れる。
横目で彼を見ると、バーに突っ伏して目を閉じている。
私は、シールに『おつかれさまです』とペンを走らせる。
シールの端をカウンタに付け、出来上がったフラペチーノにホイップをかけていると
「チョコレートソースは、普通で良いけど……キャラメルソースは多めね」
と、眠そうな彼の声。
「お仕事の飲み会だったの?」
年上なのは明らかだけれど、酔っ払った彼を見ているとつい敬語を忘れてしまった。
彼はそんなことは気にならない風で
「そう。社会人は大変なんだよ」
「そっか」
そう言って、私はドリンクを彼に渡す。
「あの、アレも欲しい」
彼は、掬う様な動作をする。
「スプーン?」
そう言いながら、私はカウンタ下の引き出しからロングスプーンを差し出す。
「ありがとー」
そう言って、彼はフラペチーノを受け取り、直ぐ近くの席に座った。
──しまった。折角書いたメッセージをグラスに貼り忘れていることに気付いた。
私は、シールをカウンタから剥がし、席でホイップを頬張る彼のグラスに貼り付け
「渡し忘れちゃった」
と言うと
「うん。メッセージ書いてくれたの知ってたけど……言えなくて。ありがとう」
心の底から嬉しそうな彼の顔に、トクンと心臓が跳ねる。
私は目を合わせられず、そのままカウンタに戻った。
それから三十分くらい時間が経っただろうか、彼は席に突っ伏したまま、フラペチーノを忘れて寝ている様だ。
私は、小さい紙コップに水を入れ、彼に持って行こうと思った。
席に近付いたとき、彼のiPhoneが伏せられているのが目に付いた。
iPhoneの背に、見慣れたシール。
さっき私が書いたメッセージ。
『おつかれさまです』の文字と、笑顔とハートのマーク。
咄嗟に私は
「お水、飲みな」
そう言って、紙コップを置く。
「あぁ……ありがとう」
彼が紙コップに手を伸ばしたのを見届け、直ぐに離れる。
新しいお客さんが来ていないことを確認して、私は裏に行く。
ドキドキと心臓の音が聴こえる。顔が赤くなっているかも知れない。恋かも知れない。
ただただ上手く返答出来ただろうか?それだけの不安が原因ではないことに気付いて、その時の私は戸惑っていた。




