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ラストハウスへようこそ  作者: 沢井 真広


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1/3

春 ①

春の雨が、山の斜面をゆっくりと濡らしていた。

 霞の向こうに、瓦屋根の家が見える。

 白い塀と古い木の門。どこか懐かしい匂いのする家。

 車のドアが開き、黒い傘をさした男が降り立った。


「ここが——君の新しい家だよ」


 低く落ち着いた声だった。

 彼の名はノヴァ。

 整った顔立ちをしているが、どこか無機質な静けさが漂っている。

 彼の瞳の奥では、微かな光が脈を打っていた。


 後部座席から、小さな影が現れる。

 灰色のマントの裾を握りしめ、雨の中で立ちすくむ。

 年のころは十三歳ほど。少年にも少女にも見える。

 声は出ない。

 あの日、星が崩れたとき、言葉もいっしょに焼き尽くされたのだ。


 ノヴァは軽くうなずき、傘を差し出した。

「行こう。みんな、君を待っている」


 門をくぐると、濡れた土と花の匂いがした。

 庭の桜はほとんど散り終えているが、

 枝の先にわずかに残った花びらが、風に揺れている。


 木戸を開けると、あたたかな光が迎えてくれた。

 囲炉裏の煙の匂い。湯の沸く音。

 古い木の床を踏むたびに、かすかな軋みが響く。


「おかえりなさい、ノヴァさん」


 奥から現れたのは、黒髪の女性だった。

 白い肌に、穏やかな笑み。

 年のころは二十代後半に見えるが、

 その瞳の奥には長い時間を生きてきた人の静けさがあった。


「この子が——」

「ええ」ノヴァが頷く。「今日から、ここで暮らすことになります」


 女性は子どもの前に膝をつき、目線を合わせた。

「ようこそ、藤原家へ。……寒かったでしょう?」


 子どもは小さく首を振る。

 言葉の代わりに、わずかに唇が震えた。

 それを見て、彼女は微笑み、玄関の奥に声をかけた。


「怜生、夕真、お客様よ」


 すぐに、二人の若者が現れた。

 金の瞳をした穏やかな青年と、黒髪のクールな青年。

 その後ろから、茶色の大きな猫がとことこと歩いてくる。


「新しい子かい?」猫が喋った。

 子どもは一瞬、息をのんだ。

 青年のひとりが笑って言う。

「驚くよね。でもこの子、先生なんだ。頭のいい猫なんだよ」


 湯気の立つ湯呑が差し出される。

 両手で受け取ると、湯の温もりが指先に染みこんだ。

 ふっと胸の奥の氷が、少しだけ溶けた気がした。


「ねえねえ!」

 奥の部屋から明るい声が響く。

 短い髪の少女が勢いよく顔を出した。

 その動きのなかに、季節の風みたいな軽さがある。


「新しい子? 名前は?」

 子どもは首を横に振る。

「そっか。じゃあ、つけようよ!」


 美咲——そう呼ばれた女性が微笑む。

「そうね。ここでは、名前があったほうがいいわ。地球では、それが“生きる形”になるから」


 金の瞳の青年が少し考えて言った。

「光を持ってる気がするな、この子。夜明けの星みたいな」

 猫が尾をゆっくりと揺らす。

「声を失ったなら、音に関わる名がよい」


 静かになった。

 子どもは小さく息を吸い、

 声の代わりに、湯呑の水面を震わせた。

 澄んだ鈴のような音が、部屋に広がる。


「……“璃音”。どう?」と美咲。

「音で語り、光で生まれた子。あなたにぴったりよ」


 青年たちが頷く。

 少女が嬉しそうに笑い、猫がい低い声で言った。

「藤原璃音。いい名だ」


 その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 “呼ばれる”という感覚。

 誰かに見つけてもらえたという確かなぬくもり。


 外では、雨がやんでいた。

 桜の枝が風に揺れ、花びらが一枚、璃音の肩に落ちる。

 その瞬間、初めて、ほんの小さく——

 璃音は笑った。


 藤原家の新しい春が、静かに始まった。



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