春 ①
春の雨が、山の斜面をゆっくりと濡らしていた。
霞の向こうに、瓦屋根の家が見える。
白い塀と古い木の門。どこか懐かしい匂いのする家。
車のドアが開き、黒い傘をさした男が降り立った。
「ここが——君の新しい家だよ」
低く落ち着いた声だった。
彼の名はノヴァ。
整った顔立ちをしているが、どこか無機質な静けさが漂っている。
彼の瞳の奥では、微かな光が脈を打っていた。
後部座席から、小さな影が現れる。
灰色のマントの裾を握りしめ、雨の中で立ちすくむ。
年のころは十三歳ほど。少年にも少女にも見える。
声は出ない。
あの日、星が崩れたとき、言葉もいっしょに焼き尽くされたのだ。
ノヴァは軽くうなずき、傘を差し出した。
「行こう。みんな、君を待っている」
門をくぐると、濡れた土と花の匂いがした。
庭の桜はほとんど散り終えているが、
枝の先にわずかに残った花びらが、風に揺れている。
木戸を開けると、あたたかな光が迎えてくれた。
囲炉裏の煙の匂い。湯の沸く音。
古い木の床を踏むたびに、かすかな軋みが響く。
「おかえりなさい、ノヴァさん」
奥から現れたのは、黒髪の女性だった。
白い肌に、穏やかな笑み。
年のころは二十代後半に見えるが、
その瞳の奥には長い時間を生きてきた人の静けさがあった。
「この子が——」
「ええ」ノヴァが頷く。「今日から、ここで暮らすことになります」
女性は子どもの前に膝をつき、目線を合わせた。
「ようこそ、藤原家へ。……寒かったでしょう?」
子どもは小さく首を振る。
言葉の代わりに、わずかに唇が震えた。
それを見て、彼女は微笑み、玄関の奥に声をかけた。
「怜生、夕真、お客様よ」
すぐに、二人の若者が現れた。
金の瞳をした穏やかな青年と、黒髪のクールな青年。
その後ろから、茶色の大きな猫がとことこと歩いてくる。
「新しい子かい?」猫が喋った。
子どもは一瞬、息をのんだ。
青年のひとりが笑って言う。
「驚くよね。でもこの子、先生なんだ。頭のいい猫なんだよ」
湯気の立つ湯呑が差し出される。
両手で受け取ると、湯の温もりが指先に染みこんだ。
ふっと胸の奥の氷が、少しだけ溶けた気がした。
「ねえねえ!」
奥の部屋から明るい声が響く。
短い髪の少女が勢いよく顔を出した。
その動きのなかに、季節の風みたいな軽さがある。
「新しい子? 名前は?」
子どもは首を横に振る。
「そっか。じゃあ、つけようよ!」
美咲——そう呼ばれた女性が微笑む。
「そうね。ここでは、名前があったほうがいいわ。地球では、それが“生きる形”になるから」
金の瞳の青年が少し考えて言った。
「光を持ってる気がするな、この子。夜明けの星みたいな」
猫が尾をゆっくりと揺らす。
「声を失ったなら、音に関わる名がよい」
静かになった。
子どもは小さく息を吸い、
声の代わりに、湯呑の水面を震わせた。
澄んだ鈴のような音が、部屋に広がる。
「……“璃音”。どう?」と美咲。
「音で語り、光で生まれた子。あなたにぴったりよ」
青年たちが頷く。
少女が嬉しそうに笑い、猫がい低い声で言った。
「藤原璃音。いい名だ」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
“呼ばれる”という感覚。
誰かに見つけてもらえたという確かなぬくもり。
外では、雨がやんでいた。
桜の枝が風に揺れ、花びらが一枚、璃音の肩に落ちる。
その瞬間、初めて、ほんの小さく——
璃音は笑った。
藤原家の新しい春が、静かに始まった。




