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異世界ではじめる私の新しい人生

おもいつきました。

フォン・ハイゼン家の居間は、朝の柔らかな光に包まれていた。時折、暖炉の火が揺らめいて壁に影を落とす。その中で、三歳になるエレナはまるで陶器の人形のように、じっと無表情で座っている。給仕のメイドが運ぶ朝食にも目を向けず、言葉も、身ぶりも、一切の反応を見せない。貧乏貴族として没落寸前の屋敷では高名な医者を呼ぶことも叶わず、屋敷の者もすっかり諦め顔だった。


「あら起きたの?おはよう、エレナ」

アイリス夫人――エレナの母はいつもより少し大きな声で声をかけた。すると――


「おはよう……?」


清らかな声が、薄暗い居間に響いた。全員が凍りつき、スプーンを持つメイドの手が止まる。メイドも侍女も、母も、まるで息を忘れたかのように視線を合わせた。


母の頬はわずかに紅潮し、震える声で問いかける。

「…エレナ…どうしたの?話せる…の?」


エレナは静かに膝を抱え直すと、首を小さくかしげながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「ずっと……話せなかったわけじゃないの。喋り方も、笑い方も、どうやって良いかわからなかっただけよ。前の世界のことを、今日、思い出したの」


その告白に、屋敷中が息を飲んだ。母は椅子から立ち上がり、エレナの小さな手を取る。目には涙が光る。


「前の世界って…?」


エレナは小さな胸をそっと押さえ、確信めいた瞳で言った。

「ここにいる“私”と、あの、前の世界で生きていた“私”は、ずっと同じ魂だった。だけど、生まれ変わったとき、魂がうまく定着していないままだったみたいで身体の使い方を忘れてしまって……声も、表情筋も、言葉の音色も。生きているのに、死んでいるみたいだった。お母さまたちの声はちゃんと聞こえていたし、それに応えたいと思っていた…けれどどうやったら良いか、わからなかったの。…でも、今朝、お母さまの「おはよう」って言葉を私の耳で聞いて、パズルの最後のピースがはまったような感じがして、気がついたら喋れていたの。」


母は目に涙を溜め唇を噛んで、言葉を詰まらせたが、やがて深く頷く。屋敷の主――父も客間から姿を現し驚きと喜びの混じった顔で眺めている。


エレナは小さく息を吐き、さらに言葉を重ねた。

「この家はもうすぐ、借金で取り立てられてしまうのよね。広大だった領地も、荒れ果てて…。でも、私、前世で経済や農業を学んでいたの。農具の改良や作物の輪作、領内の交易ルートの再編成――知ってることがあるの。私を信じてほしい。お願い。」


父爵は眼鏡の奥で瞳を輝かせ、屋敷の家老たちも顔を見合わせた。薄暗い空気が、少しずつ期待へと変わっていく。


「まずは、馬車道の整備と、北の森で取れる樹脂を使った薬草交易よ。そして、南の肥沃な平野には新しい灌漑設備を設けて――」

エレナは地図を指差しながら、淡々と計画を語り出す。声には迷いがなく、三歳とは思えぬ論理と確信があった。


家老の一人が口を開く。

「まさか、エレナお嬢様が神の招き人とは。驚くべき話だが、実現は可能だ。エレナお嬢様の名に賭けて、試してみましょう」


アイリス夫人はエレナを抱き寄せ、暖かな微笑みを浮かべた。

「ありがとう、エレナ。私はあなたがここにいてくれるだけで、生きているだけで幸せだと思っていたし、それは今も思っているわ。たとえ失敗したとしても私たちみんなでなんとかしましょう!だって大事な家族なんだから。…あなたがいてくれて、本当に良かったわ」


エレナも小さく笑い、初めて見せる柔らかな表情で頷く。

「みんなで、この家と領地を再興しましょう。頑張ろう!」




翌朝、まだ霞が立ち込める領地のあぜ道をエレナは母とともに歩いていた。足元には昨夜の霜が薄く降り、かすかにきらめいている。家老や領内の有力者たちも随行し、みなが神の招き人…新たな領主令嬢の言動に期待を寄せている。


「まずはこの穀倉を見ていただきたいのです」

エレナは手際よく倉の鍵を開け、中に積まれた麦の俵を示した。傷んだ袋が多く、虫食いの跡も散見される。領内の穀物はかなりの損失だ。湿度管理という概念がない世界であったため、虫食いや痛みは運が悪かったと片付けられていた。


「ここに防湿と防虫の魔法を施しましょう。湿度を一定に保ち、害虫を遠ざける基本の結界です。それに、新しい保管容器を試作してみました」


小さな籠のような容器を取り出し、軽く触れると内部の空気が澄んだように見えた。家老たちは目を見張り、立ち尽くす。


次に向かったのは、荒れ果てた畑。あぜ道は雑草で覆われ、土は痩せていた。そこへエレナは前世の知識で作った肥沃剤をまき、二期作の計画図を広げる。使う作物、連作障害を防ぐための間の作物の組み合わせ、収穫時期の分散──幼い顔に似合わぬ詳細な案に皆驚きを隠せない。


「まさに目から鱗です。これで来年に領民たちにも余裕が生まれるでしょう!」

家老のひとりが応じ、ほかの者も小冊子に書き留め始めた。エレナは初めて見せる満面の笑みを浮かべた。


午後には、北の森で樹脂採取を行う村人を訪ねた。慣れない手つきで小さな講義を始め、効率的な採取道具の改良案を示すと、村人たちの目が輝く。協力金を渡しつつ、交易の橋渡し役を新たに任命した。


夕刻、屋敷に戻ると、父爵が書斎から呼びかける声がした。机の上には、領内の借金一覧と取立て人の名簿。エレナは深呼吸し、取立て期間の延長交渉に必要な書状を用意すると告げる。母はそっと手を握り、優しく微笑んだ。


窓の外、夕陽が広大な領地を黄金色に染め上げる。エレナは小さな肩を大きく開き、瞳を輝かせた。

「まだ始まったばかりだけど、この手で必ず、この家を、領地を、みんなの未来を取り戻すわ」


そして、三歳の少女の声は、冷たい風に乗って遠くまで響き渡った。まるで、新しい時代の幕開けを告げる鐘の音のように。


数か月後、穀倉には豊かな実りが満ち、畑は青々と茂り、道には笑顔の村人たちが行き交っていた。貸金庫の帳簿には、かつて真っ赤だった赤字の数字が次第に消え、利益を示す黒色が整然と並んでいる。


ある晩、領主邸のバルコニーで満天の星を見上げるエレナの頬には、はつらつとした笑みが浮かんでいた。小さな手のひらには、初めて自分の声と表情で結んだ約束――「みんなで未来をつくる」――の結晶のように、一粒の麦の種が輝いている。


坂道の先から聞こえてくる、子どもたちのかけ声と村人の歌声。その調べは、三歳の少女が魂の深淵から引き上げた希望そのものだった。

それは、小さな奇跡の始まりだった。静かに眠っていた三歳の魂が、二つの時代をつなぎ、没落寸前の貧乏貴族に再生の光をもたらす―そんなお話。

よんでくれてありがとうございました。

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