第5話 校内宿泊研修
校内宿泊研修
*
日光がありがた迷惑に感じ始める七月も終盤に差し掛かった頃、帰りのホームルーム直後の生徒が入り乱れた教室では、声も感情も何もかもが混ざり合っていた。
「校内宿泊研修楽しみだね~」
「間違えて帰っちゃ駄目だよ~」
数秒間の逡巡の後、野山が生徒を避けながら二冊の本を持って七海の席に近づいた。
「七海さん、これ。ありがとう。とてもいい本だったよ」
「良かったでしょ? (青春の対話)。下巻も貸すわね」
「ありがとう。この本の著者は広大な人格の人だね。七海さんは、他にもこういう感じの人の本を読んでるの?」
「そうね。人間として生きることを諦めてない人の本しか読めないの。今は人間蔑視の時代だからね。人間として生きようとすると独りぼっちになっちゃう。そんな時は、こういう人たちの背中だけが頼りになるの」
「君は強いね。俺が貸してる(参國志)は力になれそうかな?」
七海は野山から借りていた本を鞄から取り出しながら答えた。
「もちろんよ。これを書いた人も、この中に出てくる人も、人間として生きる者だけが放つことのできる不滅の光を輝かせているわ。はい、ありがとう」
「良かったよ。じゃあこれ、次の巻。それで、七海さんのその不滅の光への感受性はどこにあるの?」
「ありがとう。そうね、[心の穴]じゃないかしら。それはほとんど孤独と虚無であると言っていいから、向き合うのはすごく苦しくて痛い思いをすることになる。でも、痛みがあるからそこに感受性が生まれる。痛いところは敏感になるでしょ? 人は感じることができなければ気付くことができないし、気付くことができなければ何も始まらない。だから、唯一苦しみ甲斐のある苦しみね」
「君からはもうその不滅の光を感じるよ」
「ほんと!? 直視して大丈夫だった?」
「そうだね。優しい光で良かったよ」
本人は気付いていないかもしれないが、側から見れば野山の七海を見る目はキラキラしていたのだった。
その後、放課後も終わると、校内宿泊研修のために生徒たちがクラブ活動などから教室に戻ってきた。萌木はタオルで汗を拭きながら七海の席に近づいて言った。
「お疲れ~。やっとこの日が来たね!」
「来てしまったという方が正確な気がするわ」
「どうしちゃったのさ」
「今日は何かが起こる気がするの。何かはわからないけど何かが」
「漠然としすぎじゃない?」
担任が教室に入ってきた。五十嵐は無駄のない動きで教壇に立ち、ぬるっと校内宿泊研修の開幕を宣言した。
「クラブ活動などお疲れ様です。これからは校内宿泊研修の時間です」
歓声が鳴りやむのを待ってから話を続けた。
「まず初めに夕飯を食べます。食堂へ移動しますので、廊下に整列してください」
五十嵐がまたしても無駄のない動きで廊下に出て、それに続くように生徒たちも廊下に出始めた。
「なんだかわくわくするね!」
近くの生徒の言葉に水田は両手を頭の後ろで組みながら移動しつつ返事をした。
「そうだな! 既に深夜のテンションだぜ!」
並んで食堂に移動し、二組の席に全員が座った。それを確認した五十嵐は立ち上がり、号令をかけた。
「それでは手を合わせてください。いただきます」
「いただきます!」
過去最高に元気のいい挨拶であった。
細野と楓のいるテーブルでは、細野が宝石を見るような表情で料理を眺めていた。
「給食でオムライスが出るなんて奇跡だよ!」
「そうだな。それにエビフライまで乗っている。審判の日は近いのかもしれないぞ」
楓も珍しく小さめの戦で勝利した時のような高揚感を感じていた。
萌木のいるテーブルでは、萌木がエビフライを勢いよく食べながら中身のない感想を言っていた。
「うま~い! やっぱ校内宿泊研修のエビフライは違うね~!」
七海と小野がいるテーブルでは、七海がスプーンを祈る際の十字架のように持ってなにやら唱えていた。
「天にまします我らの神よ。オムライスのケチャップがかかった部分を、オムライスを味わうためでなく、ケチャップを味わうために口に運ぶことを許したまえ」
小野はそれを見て黙々と食べていたのを一瞬中断し、小動物が鳴くように呟いた。
「エレガントに食べるね~」
「つい敬意を表したくなっちゃって」
食事を終えると、各自教室に戻っていった。そして全員が集まった頃、担任の五十嵐は教壇に立ち、次のフェーズへの移行を宣言した。
「それではこれから、伝言ゲームをやります。伝言ゲームは、リスナーゼの普及により衰退した文化の一つです。伝言ゲームとは、人から人へ、指定された言葉を伝えていくゲームのことですが、心の声を聞いてしまえば簡単に相手に伝達されてしまいますから、簡単に言えばゲームの醍醐味が失われてしまったのです。
ですが今回は、ある方法で心の声を聞こえにくくします。その上で、心の声を使って伝言ゲームをやってもらいます。その方法とは、七海さんにひたすら心の声を大音量にして音読してもらい、その間に皆さんが伝言ゲームをしてもらう、というものです。皆さんには、七海さんの音読によって心の声の回線がうるさい中、三十秒以内に伝言を次の人に伝えていただきます。質問などはありますか?
……それでは始めます。まずは窓側の号車から」
先頭の窓側の生徒に伝言が書かれた紙を渡した。
「それでは始めましょう。それでは七海さん、お願いします」
いつのまにか教壇のところにいた七海は、一礼すると厳かに音読し始めた。
「謹んで拝読させていただきます。今回読ませていただくのは、「生蓮~はじめにドーナツがあった~」という本です。それでは、私が読み始めるのを合図にカウントを始めます。
三、二、一……
『「心の中に空虚な何かというか、空洞のような気配を感じるんですが、それでもドナーになれるんでしょうか」
様々なテクノロジーが全てを飲み込む勢いで拡がる世界で、心の世界は最も近くにありながら地図にも描かれない、知る人ぞ知るフロンティアであると言っていい。そんな中で感情を移植するという試みは危険の伴う挑戦だ。今の時代はそういった大博打に出なければならないほど、みんな心に飢えている。その分もらえる報酬は多くなるわけだ。私はお金に飢えていた。』そこまで!」
本を閉じて叫ぶように場を制圧すると、今度は預言者のような顔で言い放った。
「ルール違反は許しません。たとえ私に気付かれずとも、あなた自身はあなたの不正に気付いている」
「七海さん、次をお願いします」
無駄話ばかりしようとする七海を五十嵐がうまく操り、最後の人まで伝言が伝えられた。
「それでは、一人目から順に発表してもらいます。どうぞ」
「学校の七不思議を全て知ると八つ目が気になり始める!」
「学校の七不思議を全て知ると八つ目が気になり始める!」
三番目だった青戸は諦観の境地に達した顔で言った。
「末法の摩訶不思議をかつて悟ったのは私だ」
「学校の七不思議にかつていたのは河童だ……」
「学校の七不思議は勝手に作られた!」
「学校の七不思議は意味不明だ!」
七番目だった小野も頑張って大きな声を出した。
「脱法ハーブはギリ違法だ!」
「学校帰りの寄り道は違法だ!」
最後の生徒まで回ったのを確認して、五十嵐は七海にパスを出した。
「七海さん、採点の方をお願いします」
七海は心の声でドラムロールを奏でてから発表した。
「十六点です! では、講評に移りたいと、」
「講評は結構です。それでは次の号車に参りましょう」
先頭の生徒に紙が渡され、最後の生徒まで伝言がリレーされた。
「先ほどと同じように、一人ずつ発表してもらいます。ではどうぞ」
「洞房結節を家電量販店に修理に出す!」
「道交法を電光掲示板に出す!」
「同好会を発足する!」
四番目の戸崎はほんの少しだけ苦そうな表情で言葉を吐き出した。
「葉緑体を移植する……」
五番目の水田は出所不明な自信をまとって叫んだ。
「養殖でもマグロはうまい!」
「草食動物はうまい!」
「草食動物はうまい!」
八番目の野山は淡々と不正解の回答を言った。
「菜食主義は野菜を食べる」
「最速記録は塗り替えられない……」
「最小の記憶は書き換えられない!」
最後まで回ったので、また五十嵐が七海に振った。
「それでは採点の方をお願いします」
「五点です! いや~、洞房結節は鬼畜でしt、」
「それでは次に参りましょう」
今回も伝言は無事に最後まで伝えられた。
「それでは発表してください」
「工場には人間より頭のいいハムスターがいるらしい!」
「工場には人間用のハムストリングスがあるらしい!」
「工場には人間用のハム製造機があるらしい!」
「甲状腺は人間のホルモン製造機だ」
「教条宣誓人間奉納星座飢餓」
「今日中に人間用の便座がいる!」
七番目の楓は目を閉じたバージョンの笑顔で答えた。
「コズミック人間養成所だ」
「大勢の人間の政治家!」
九番目の金城は一応答えた。
「妄言はその人間のせいだ」
「もうゲームはよせ、人間たちよ!」
伝言の最終形態通りになった。
「それでは採点の方をお願いします」
「二十点です! にんg、」
「次に参りましょう」
伝言は回っていった。
「それでは発表してください」
一番目の萌木は楽しめるポジションではないものの元気いっぱい答えた。
「竹は風林火山の一員になりたいようだが林で間に合ってるから無理らしい!」
二番目の細野は笑顔で愛想を振り撒きながら言った。
「竹は風林火山の一員になりたいようだが林で間に合ってるから無理らしい!」
「たけのこは封印か惨殺に泣いたようだが話が違うらしい!」
「たけのこは風鈴が好きで泣いたらしい!」
「竹の風鈴は透き通るような音らしい!」
「ダンテの新曲は好きな音だ!」
「断定の助動詞は枢機卿が決める」
「断言する、軽挙妄動は数奇な運命をたどる」
「願兼於業は救われる」
「眼底検査はスキップできる!」
最初から最後までテンションの変わらない五十嵐が言った。
「それでは採点の方をお願いします」
「三十点です! っ、」
「これって何点満点なの?」
萌木が七海の発言に被せて質問した。七海は大したことでもないのにわざわざ五十嵐に目線で許可を取ってから答えた。
「百点満点です」
「厳しすぎない?!」
伝言ゲームはもう一周行われたのだった。どれもこれも、人から人に伝えられた情報がいかにあてにならないものかを著しく物語っていた。
「それでは次のゲームに移ります。次も先ほどと同様、滅んでしまったゲームを行います。そのゲームとは……、かくれんぼです。かくれんぼとは、決められた範囲内でどこかに隠れた人を、鬼が見つけていくというものです。このゲームも、心の声を聞いてしまえば、鬼が近くを通っただけで居場所がわかってしまうため、醍醐味が失われてしまっていました。
しかし今回は、ある方に鬼をやってもらうことでその難点を克服します。その方とは……、七海さんです。七海さんは心の声を聞くことができないため、そして何より、本人たっての希望により、この度、かくれんぼの復活と相成りました。
それでは早速始めましょう。質問などはありますか。
……よろしい。では、これから我々が百を数えますので、皆さんはその間に逃げてください。範囲は、校舎内すべてです。準備はよろしいですね。では始めましょう」
五十嵐は生徒たちに見せながらスマートフォンのタイマーをスタートさせた。生徒たちは急いで教室を出ていった。全員が出ていったのを確認すると、五十嵐は七海の方を向いて優しい口調で問いかけた。
「良かったのですか? あなたの性質を逆手に取るようなこのゲームはあまり気分のいいものではないでしょう」
「お気遣いありがとうございます先生。でも私は、私の苦しみが誰かの役に立っているところを見るのが好きなんです」
青戸はドアの裏側で隠れながらそれを聞いていた。
「それにこう見えて、何かを見つけるのは得意なんですよ? 例えば、今ドアの後ろに隠れて会話を盗み聞きしている悪い子猫ちゃん? 始まる前からアウトになりたくなければどこか遠くに隠れなさい?」
恐れおののいた青戸は、小走りでその場を後にした。
『あいつ、人の振る舞いから想いを察する力があるとは思っていたが、まさか気配を察知する力まであるとは……』
屋上のフロアに通じる階段を上っていくと、屋上への扉の前にある薄暗い空間に隠れている細野に出くわした。
『青戸くん?!』
『細野さんがいたのか、すまない。別の場所に移動する』
『待って! 行かないで! ……、ほら、ここまだスペースあるし』
細野は必死に大義名分を探した。
『いいのか? 俺も隠れて』
『いいよ!』
『じゃあ失礼する』
数十秒沈黙が続いた。
『そうだ、七海が相手だから、心の声は聞かないようにしないとな』
『待って! 今は……、そのままにしてて欲しい……』
『どうしてだ?』
『どうして、かな。でも、今は……』
『よくわからないが、わかった。今はこのままにしよう』
『……ありがとう。……』
またしてもしばらく無言が続いた後、細野が意を決して尋ねた。
『青戸くんはさ……、七海さんのことどう思ってるの? ……ごめん! 変な事聞いて!』
『別に構わないが、……そうだな、意志のある奴だと思っているな』
『意志……か。そういう人が好きなの?』
『好き……。どういう好きかにもよるが、まあ俺は意志こそが各人の唯一性を生み出すものだと思っているから、あるに越したことはないが……』
『……。どうやったらそれを身に付けられるの?』
『そうだな……、孤独と向き合うことじゃないかな。自分以外の全員が死んでしまったと感じるぐらいの孤独と対面してこそ、自分で何かを決める力がつくというものだ。どうしてそんなことを聞くんだ?』
『え?! どうしてだろ……。青戸くんと、一人の人間として、お付き合いしたい、からかな』
『え? ……ああ、一人の人間としてな』
「青戸くんと細野さん、見つけたわよ」
当たり前のように二人を見つけた七海は、想像以上に驚く二人を見て言葉を続けた。
「あら、どうしちゃったの? そんなに驚いて。まるで裏取引の現場を押さえられた時のようね」
「見つかってしまったか」
「……よくここがわかったね!」
二人とも何かを誤魔化すように立ち上がった。
「まあ、定番だものね。じゃあ、教室に戻ってくれるかしら?」
七海は階段を下りて別の人を探しに行った。二人と距離が空いたのを確認してから心の中で呟いた。
『あの二人、あそこで何してたのかしら。ていうか、なんで鬼の私がこんなに動揺しているのかしら……』
心臓の辺りを押さえながら歩く七海は、まだその原因を認めきれていないのであった。
その後、七海が驚異の速さで全員を見つけたことでかくれんぼはあっという間に終了し、プログラムは次に進んだ。男女分かれて宿泊する建物に移動し、まず大浴場で体を洗った後、全員が寝られる部屋に布団を敷き、いくつかのグループに分かれて眠るまで話をする体勢になった。
初めに男子の部屋の様子を見てみよう。青戸と戸崎と水田のグループは何を話しているのだろうか。水田が雑に聞き始めた。
「二人は好きな人とかいんの?」
「前置きなしに始めるんだね」
「こんな状況で話すことなんて決まってんだから、男三人で集まりながら前戯みたいな話すんのも気持ちわりーだろ」
「前戯なんて言葉を出すから、この場全体がどこか気持ち悪くなったじゃないか」
「まあいいじゃねーか。で、どうなんだ?」
「で? というのは?」
戸崎はわざとらしく聞き返した。
「時間稼ぎしたって無駄だぞ。今日は話してもらうまで寝かさねーからな」
「こいつがこんなに面倒くさいと感じたのは初めてだ。お前自身はどうなんだ?」
「え?! ちょっとそんなこと、聞いちゃう? いやらしいわ〜、旦那様ぁ〜」
「これは重症だね」
「だな。急性ノンアルコール中毒だ」
「ちっ。せっかくドキドキする話ができると思ってたのになー。他にできそうな奴いねーかなー。一人でいるのは、金城と野山か。金城はどこかひんやりする壁を感じるんだよなー。野山はなんか、(青春の対話)? って本読んでるし。
もうお前たちしかいねーの! じゃあ、こうしよう。気になる人とかは?」
「そんなこと言われてもな~」
「そういう情報はUSBに入れて金庫に保管しておくものじゃないのか?」
「わーったよ、わーったよ。仕方ないなー。じゃあ女子の名前挙げてくから、どう思ってるか教えて?」
「なんでこっちが妥協させたみたいになってるんだろう」
「じゃあ最初は細野さん!」
「そう言うだろうと思ったよ。可愛らしくて愛想もいいからね」
「お! やっと話す気になったかー。で、青戸は?」
「俺は……、頑張ってると思うかな」
「いや何をだよ!」
「色々とだよ!」
「何だよ色々と、って。ほとんど答えてねーのと一緒じゃん。じゃあ楓さんは?」
「全てを見透かされているような感じがするよ」
「それめっちゃわかる! あの人の目見てると、時々ブラックホール見てるような気になるもん」
「まあ俺は優しい人だと思うがな」
「お! おにーさんノってきましたねー! その調子でいきましょう!」
『本当にこいつはどうしてしまったんだ?』
「じゃあ次は七海! あいつはどうだ?」
二人とも一瞬沈黙した。それはほんのちょっとの時間だったが、後から誤魔化しきれないほどの説得力を持った発言であった。
「……。あれ? どうした? もしかしてお二人さん、七海のことが~?」
「一回顔洗ってきてくれるかな? 酔っ払いさん」
「やーだね。せっかく真実に近づいてきたってのに」
「恋愛のことになると執念深い刑事みたいになるな~」
「で? どーなんすかお二人さん。七海のことどう思ってますん?」
「まあいい人だとは思うよ」
「これは黒だな。で? そっちのおにーさんは?」
「勝手に決めつけないでくれるかな!」
「俺は……」
「はい。現行犯逮捕」
水田の執拗な取り調べにタジタジになった青戸と戸崎であった。
次は女子の部屋だ。最初は部屋の隅の方で壁にもたれる楓と細野のペアを覗いてみよう。
「ちょっと楓ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、意志ってどうやって身に付けたらいい?」
「急にどうした?」
「その……。気になってる人がいるんだけど……」
「なるほど。その気になってる人から意志のある人が好きってことを聞いたから、私に相談しに来たと」
「まさにその通りです!」
「意志、か。また厄介な奴を相手取ったもんだな。他の男なら簡単に手に入れられそうなものを」
「そんなに難しいの?」
「いや、意志は[運命]的な次元のものなんだ。そいつがどの程度の考えで放った言葉なのかは知らないがな」
「[運命]ってことは、初めから決まってるってこと?」
「まあそういう見方もできるが、とにかく、恋愛は同じ次元で生きている者同士でしか成り立たない。相手がその次元で生きているなら、お前もその次元で生きるようになることだ」
「なれるかな……」
「当然だ。私たちは全員[運命]によって生まれてきたんだからな」
「それなら良かった~。それで、どうすればいいの?」
「簡単だ。意志とは一人で道を歩くための羅針盤だ。だからそれを見つけるには単独者になればいい」
「単独者?」
「要は自分だけの苦しみに向き合うってことだ。だから必然的に孤独とも向き合わなければならない」
「孤独、か。青戸くんも言ってたな、あっ! しまった!」
細野は最高に慌てた様子になった。
「やっぱりあいつだったか」
「お願い! 絶対誰にも言わないで!」
「わかったわかった。約束するよ。
『いいこと聞いたな』」
『ねえ! ほんとに約束だよ?!』
楓に弱みを握られた細野であった。
次は向かい合って寝転んでお話する七海と小野のペア。
「小野ちゃんは、恋愛には詳しいのかしら?」
「え~! どうして急にそんなことを?」
「恋愛感情って何なのかな~って思ったの」
「恋愛感情か~。難しいね~」
「簡単に決められるものじゃないっていうのはわかってるんだけど、それを理由に野放しにするのも良くないと思うの」
「それは確かにそうだね~。私もこの機会に向き合ってみようかな」
「そうしましょう! きっとあなたの人生の助けになるはずよ!」
「そうだね! そうする!」
「じゃあ最初は恋と愛の違いについて見ていきましょう? 私が思うのは、恋は欲望によるもので、愛は信念によるものだってことかしら」
「欲望か~。それは正しいんだろうな~。嫉妬とか寂しさとか憎しみとか、何かを手に入れて自分の心の穴を埋めようとするんだよね~。もう一つの信念っていうのはどういうこと?」
「命をかけるってことね。それと何かを手に入れることが動機じゃないから、損得を度外視した行動でもあるわ。ところで、恋の中の憎しみってどういうこと? 恋の反対は憎しみとかなら聞いたことあるけれど」
「片思いしてる時って、すっごく苦しいでしょ? だから、そんな想いをさせてくるこの人を利用して幸せになってやる、って意固地になっちゃったり、損害分を取り返してやる、って息巻いちゃったりするの。だから、自分でも気づかないうちに好きな人のことを本心以上に好きだと思い込ませてたりするんだよね~」
「なるほどね! 自分を苦しませてくる相手への憎しみすら恋と名付けられるのね。確かに、高価な品物を買ったら意地でもその金額分の価値を見出そうとするものだわ。てゆうか、小野ちゃんってもしかして恋愛マスターだったりする?」
「え~! そんなことないよ~。七海ちゃんだって、すぐに例えが思い浮かぶなんて、相当心当たりがあるんじゃないかな。経験十分だよ~」
「達人級のカウンターが飛んできましたが、まあいいでしょう。小野ちゃんは好きな人ができたら、その自分に対してどう分析するの?」
「分析か~。私は特に、好きって気持ちに流されやすいから、いざその立場になると、ほとんど何もできないんだよね~」
「恋愛の達人をもってしても、好きという濁流にはたちまち飲み込まれてしまうと。好きという感情は、自然災害のようなものなのかもしれませんな~」
「あんまり持ち上げると、好きになっちゃうよ~?」
「ここで強烈なパンチを打ち込んでくるとは……。なるほど勉強になります……」
「もぉ~。あんまりからかわないで~。それよりも、私はもっと七海ちゃんのこと知りたいな~」
「私? 私はまだ自分の気持ちがわからない状態ね。刹那の揺らぎなら体験したことはあるけれど、それが長期的な律動によるものなのか、それとも短期的な幻に過ぎないのか、この短時間では判断がつかないのよね」
「そこで見定められるのは凄いよ~。どうやったら一瞬でも冷静になれるの?」
「それはやっぱり[心の穴]かしら。[穴]と表現されるぐらい何もないような、止まったような感覚だから、逆にそこに意識を向ければ一時的な感情に流されることはないのよ。だから冷静に見定められる」
七海は小野の背後で今にも枕を投げようとする萌木を見てこう言った。
「例えば~、あれは私に飛んできますね。……ぐあっ!」
予測通り顔面にヒットをもらった七海はそのままダウンした。
「七海ちゃん! 大丈夫?」
萌木は二人の方に歩いてきて枕を回収しながら言い放った。
「悪かったな七海。まあ夜更かしは美容の敵ってことだ。そのまま安らかに眠ってくれ」
彼ら彼女らの夜は長く続いたのだった。
翌日の朝、生徒たちは皆、それぞれ支度を整え、食堂に集合していた。五十嵐の簡潔な挨拶で二日目は始まった。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたでしょうか。……そうでもないようですね。こうなるだろうと思って翌日を土曜日にしておきました。朝食を食べたら各自自由解散とします。長々と話していても皆さんの意識が遠のいていくだけでしょうから、早速朝食の合図に移りましょう。それでは、いただきます」
「いただきます!」
少々フライング気味な生徒もいる中、朝食は始められた。
金城のいるテーブルでは、金城が一人黙々とサンドイッチを食べていた。
青戸と戸崎と水田のいるテーブルでは、朝からハイテンションな水田と、真剣な顔でサンドイッチを眺める青戸と、普通に食べ始めている戸崎が観察できた。
「サンドイッチなんて久しぶりだぜ、さり気なく結構高いからな」
「どうしてサンドイッチが高いかわかるか?」
「それは、贅沢だからじゃね?」
「それもある意味正解だが……。実は、売り上げの大半は、ピタゴラスの方にいっているんだ」
「寝不足で変になってるね」
「こいつはいつも変だろ」
萌木のいるテーブルでは、既に完食してしまった萌木が見受けられた。
「楽しい時間ってあっという間に消えてなくなるんだね、このサンドイッチのように……」
七海と小野のいるテーブルでは、ちびちびと草を食む小動物のようにサンドイッチを食べる小野と、こちらも既に完食した七海がいた。
「七海ちゃん食べるの早いね~」
「三角形の面積が最後に2で割らないといけないのが憎いわね……」
校内宿泊研修を終え、自身の最寄り駅まで帰ってきた七海と水田と萌木は、大きな鞄を持ちながら、改札を出てロータリーのところまで歩いていた。
「いや~、一日ぶりか~! でもあっという間だったな~」
「だな~。だから懐かしさより寂しさの方が強いなー」
「誰かさんに枕をぶつけられてから記憶が曖昧なの。ここはどこ? 私の座右の銘はなに?」
「二番目に気になるのそれなんだ。てゆうかごめんって!」
「うっ、なんだかマフィンを食べたら思い出せそうな気がする……」
「行こう! 近くにハンバーガー屋さんあるから!」
近くのハンバーガー屋に到着すると、休日の午前にもかかわらず忙しない店内を見て、三人はようやく少し目が覚めたようだった。萌木が代表して三人分の注文をした。
「じゃあベーコンエッグマフィンのセット二つと、メープルソーセージマフィンのセット一つ」
「……。『なんだよ学生がこんな時間に』」
「……で、ドリンクは順番にオレンジジュースとリンゴジュースと緑茶で、」
「……。『わかりにくいんだよ』」
「サブメニューはハッシュドポテトで」
「……。『大体みんなハッシュドポテトだろ』」
会計を終え商品を受け取り、二階の空いていたテーブルに座った。ここでもいただきますをしてから食べ始めた。
「朝ランチに間に合って良かったわね」
「開き直ってる店だったけどね」
「心の声が聞こえるようになって、接客業や人気商売が大打撃を受けたってやつよね? 大半は心の声を矯正することでなんとか持ちこたえたけど、一部は諦めてそういう店ってことにしたみたい」
「まさか有名チェーン店でもそんな店があるとはなー」
「客の方も諦めたのよ。欲しいものが手に入れられれば後はどうでもいいってね。相乗効果で、これからどんどん増えていくかもしれないわね」
「あたしらが大人になったら、どんな世の中になってるのかな」
「このまま直線的にいけば、欲望に振り回されながら[心]を殺して生きる、動物とロボットが合わさった生き物として生きないといけなくなるな」
「人間はもっと[心の痛み]と向き合う必要があるわね。そのために、[心の穴]の先にあるのは、完全なる無じゃなくて優しさだってことを知らないといけないわ」
萌木が吸い込むように完食したマフィンの包装を丸めながら言った。
「ところで、記憶は戻ったの?」
「ああ、そういえばそんな設定あったわね」
「それ自体を忘れてんじゃねーか」