第20話 年末最後の日
年末最後の日
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今年最後の授業の日になった。だが、一年を前期と後期で分けている学校にとって、今日は特に何も終わらない日なので、いつも通りの一日が過ぎたのだった。帰りのホームルーム後、野山は七海の席に本を二冊持っていった。
「はいこれ、借りてた本と、次渡す本。ありがとう」
「こちらこそありがとう。どうだったかしら? (アンの赤毛)は」
「人情の機微が高い解像度で繊細に描かれていて、それだけでも面白いけど、その身近にいそうな人々の中を、アンという想像力豊かな少女が縦横無尽に駆け巡ることで、花壇に花が咲くように、平凡な日常の中に、その尊さや美しさが輝き始める。とても綺麗な物語だった」
「そうね。この本は、普通の生活の中にこそ幸福はあるってことを思い出させてくれるわ。私自身、(愛情のアン)までしか読んでいないんだけど、ぜひともそこまで読んでほしいわ」
「そうさせてもらうよ」
「嬉しいわ、(アンの赤毛)シリーズのことを話せる人が近くにいるのは。それでこっちもありがとう。(人間は何で生きるか)。[この世の真理]に[愛]という価値を見出したトルストイの優しさが詰まった、温かい物語だったわ。童話で、分け隔てなく多くの人が読めるというのも、トルストイの愛の現れなのね」
「そうだね。彼が本気で、命懸けで皆の幸福を追い求めていたのがわかるよ」
「そして、それを私に紹介してくれたのは、野山くんの愛ってことね」
七海はいたずらっぽく微笑んで言った。対して野山はわかりやすい照れ隠しで応戦した。
「ま、まあ、そういうことになるかな」
「私たちが会うのは、今年はこれで最後になるのよね?」
「そうなるね」
「この一年は、長いようで短いようで長い一年だったわ」
「感じ方が揺れ動くのも人情の機微だね。長いと感じたっていうのは、いい意味なのかな?」
「どちらとも言い難いわ。虚無を感じていると、時間が止まっているみたいな感覚になるの。それは苦しみには変わりないけど、悪いものだと断ずるのは少し違うと思う。でも、苦しみを感じることなく、時の流れに無感覚で、気付いたら時間が経っていたというように、生きた時間が消えることによって短いと感じるのも、いいことだとは思えない。(心の穴)が満たされる日が、早く来て欲しいわ」
「絶対的な充実、か。苦しみが幸福を生み出す状態。それは何もマゾヒズムというわけではなく、苦しみ自体が幸福を作り出している、というより、苦しみ自体が幸福となっている状態。トルストイは、そういった摂理に愛を見出したのかもしれないね」
「[苦しみ]そのものが既に[愛]……。そうなのかもしれないわね」
「来年も、時間の感覚を味わいながら生きたいね」
「そうね。ところで、今年は年明けるかしら」
「確かに、明けるのが当たり前になっていたよ」
野山は気付かされたように言った。
七海はその後楓のクラスに行き、二人で省治学サークルを始めた。
「さっきまで何の本を読んでいたの?」
「(若きヴィルヘルムの悩み)だ」
「いいわね、ゲーテの代表作。私が読んだ時は、巨人に掴まれて振り回されるような感じがしたんだけど、楓ちゃんはどうかしら?」
「そうだな。人間の心理を繊細に感じ取って描いているかと思えば、自然を通してこの世の真理を壮大に表現し始める。確かに巨人だ」
「この物語は、全ての出来事が、主人公を確実に不幸な結末へと導く必然性のようなものを強く感じるわ」
「ゲーテは[真理]とか[運命]とか、そういう次元で生きていた人だからな。意図的にそう書いたんだろう」
「そうでしょうね。楓ちゃんは、どうして今その本を読もうと思ったの?」
楓は作者の肖像画が描かれた本の表紙を見ながら答えた。
「ちょうどこの本の主人公と似た境遇の奴がいてな。何か力になれることはないかと思い、それを探すために呼んでいるわけだ」
「なるほど。それならゲーテほど[深淵]まで見通した人はそういないから、とてもいい教科書になると思うわ」
「そうだろう」
七海は体ごと楓の方を向いた。
「ところで、楓ちゃんは、戸崎くんのことどう思う?」
「『こいつは、戸崎の想いに気付いているな』
戸崎か。あいつは、閉ざされ気味だった心が、お前たちとの出会いで少しずつ開かれてきていると感じるな。」
「どうしてそう?」
「一年の頃は思ったことを心の声で話す癖があったが、最近は口に出すようになったからだな」
「そうだったのね。確かに、昔よりは話してくれるようになったな~、とは思っていたけれど。じゃあ、どうして元々そういう癖があったんだと思う?」
「『あいつの苦しみが知りたいんだろうか。助けるため? なら話していいか』
私が思うに、両親、特に母親なんじゃないかな」
「というと?」
「一年の授業参観の時に、心の声で戸崎への文句を言いながら歩く母親とすれ違ったんだが、その時聞いた心の声が特徴的だったんだ。端的に言えば、心の声が聞こえなくなった人の心の声だった」
「人によって心の声の出し方に違いがあるの?」
「ああ。お前も、耳が聞こえない人、途中から聞こえなくなった人は、聞こえる人の出す声と少し違うのはわかるだろ?」
「ええそうね」
「普通、他人の声が聞こえる人は、他人の声を参考にして自分の声を修正していく。それは心の声も同様だ。だが、耳が聞こえない人は、他人の声を参考にすることができないから、いわば、一度も実物を見たことがないまま絵を描くように、当てずっぽうで声を作らなければならない。途中で聴覚を失った人の場合は、他人の声のデータがあるから初めの頃はほとんど差はないが、それでも、聞こえなくなってから長い時間が経過していれば、少しずつ違いが生じてくる。それは心の声でも同じなんだ」
「そうなんだ。でも、心の声の場合は自分の声は聞こえるから、実際の声ほど違いはないんじゃないの?」
「多くの人は、自分の心の声を聞くことができない」
「え? そうなの?」
「そうだ。自分の心の声を聞くということは、自分の考え、心、内面を知ることと同じだ。この世の中、理不尽で支離滅裂な考えで生きている人ばかりだろ? それは、自分の心の声を聞いていないからだ。人間は理不尽で支離滅裂な状態に耐えられない。それが自分の内側にあったとしたら、人間の内面が混沌でできていると思っていたら、自分の心の声を聞くなんてとてもできたものじゃない」
「ということは、自分の心の声だけを聞けないようにすることができるってこと?」
「そういうことだ。その分、他人の心の声も若干聞き取りにくくなるがな」
「そうだったのね。全然知らなかったわ」
「そういうわけで、戸崎の母親は途中で心の声が聞こえなくなった人の声だと思ったんだ」
「それじゃあ、戸崎くんが心の声で思ったことを話す癖は、お母さんからの圧力の逃げ場だったからってこと?」
「憶測に過ぎないがな」
「そうだったんだ。
『もしそうだったとしたら……』」
二人が話しているところに小野寺がやってきた。小野寺は二人の前に立って元からいた人のように話した。
「うんうん。先生も、人狼は楓くんだと思う」
「うわっ! 本物の人狼?!」
小野寺は二人の前の席に座った。
「いきなり狼呼ばわりなんてひどいな~。満月の日じゃあるまいし~」
「その気にし方は狼男です」
「ていうか二人で人狼ゲームできませんよ」
「そうなんだ~。正真正銘の市民だから知らなかった~」
「知ってそうなものの言い方ですね。今日はどうしたんですか? 処刑されに来たんですか?」
「処刑されるために人狼ゲームをする人はいません! 別に用がなくても来たっていいじゃな~い」
七海は照れるフリをして言った。
「べ、別に、来るなとか言ってないし~。なんで献上品がないのかなって思っただけだし~」
「ツンデレってわけじゃないんだね~。もうそろそろデレが来てもいい頃じゃないかな~?」
「じゃあ特に目的はないんですね?」
「それがあるんですよ~」
七海は可愛い素振りで言った。
「さっさと話してほしいな~」
「それはデレじゃない! 断じてデレではない! それより、心配で来たんですよ~、お二人が」
「私たちが?」
「ええ。あなたたちは去年、(絶望)という名前の劇をした。テーマは孤独と虚無。また特に七海くん、君はそこそこ前の私の授業で、人間は何のために存在するのかと質問した。どちらも、[苦しみ]に長く浸っていない人間にはとらない挙動だ! だから心配で来たんですよ~」
「先生~! ちょっと、遅くないですか?」
「いや~、ヒーローは遅れてやってくると言いますからね」
「先生は人狼じゃないんですか?」
「最初に人狼とか言うんじゃなかった……。そんなことより、お二人とも今の状態はどんな感じですか?」
「私はもう引き返せないところまで行ってしまっています」
「同じく」
七海も楓も、冗談の混じっていないトーンで言った。
「そうですか。それは、自分の中で苦しみを中心にあらゆる情報が体系化されている状態であるとも言えそうですか?」
「そうですね。なので、もはや人に話すことはできない状態であるとも言えると思います」
「体系化された悩みを人に話すとなると、学問のように順序立てて説明しないといけませんからね。誰も他人の悩みをそこまで知ろうとは思わないでしょう」
「悩みを人に話せる機会すらほとんどないに等しいのに、そのごく少ない時間の中で説明すること自体がまず不可能ですからね~。他人との確固とした相容れなさを感じますよね~」
「先生もそうなんですか?」
「先生はそうです。というか、普通という檻を突き破った人は皆が感じていることじゃないかな~」
「その檻を破るまでにもとてつもない苦しみがあったというのに、その先に待っているのがどうしようもない孤独って、悲しくないですか?」
七海は珍しく八つ当たりするように言った。
「だからといって、普通という檻の中では生きることができないんだからな。何のために存在するんだという疑問が生まれても無理はない」
「それでも、君たちは孤独と虚無を劇の最後に出会わせた」
それを聞いた七海は嬉しそうになった。
「見ていてくれたんですか!」
「当然ですよ。数少ないサークルメンバーが苦しみの中で見つけた一つの答えなんですから」
「その時は遅れなかったんですね! 偉い!」
「あの別に遅刻常習犯ってわけじゃないからね? それより、どうして二つの苦しみを出会わせたんですか?」
「あれはほとんど、そうあってほしいという願望です。孤独は虚無が傍らにいることで孤独でなくなり、」
「虚無は孤独が満たすことで虚無ではなくなる」
「[心]は[この世の真理]です。[心の底]からの願望は、来るべき未来だと思いませんか?」
「確かに、逆に[心の底]で見えるビジョンが未来と何の関係もない無意味な幻想だとしたら、[この世の真理]にこの世界を動かす力はないことになる」
「要は、信じて待てってことですか?」
「七海くんのくせに察しがいい!」
小野寺は、七海に狼のように威嚇され、怯えながら続けた。
「君たちは、現実待ちの状態ということです。だから、諦めずに待ってください。[心]と世界が調和するその日まで」
話したいことを話し終えたタイミングで下校の時間になった。
「先生、お忙しい中わざわざありがとうございました。そういえば、先生の方は大丈夫なんですか?」
「そうだな。先生も、限りなく私たちと同じ状態だと言っていい」
「暗闇の中にいる時も他人の心配ができるとは大したものですが、君たちはまず自分の心配をしてください。一番危機的状況にいるんですから。それで、その暗闇を抜けたら、綺麗で大きな家を買ってください。あと、車と、クルーザーと、自家用ジェットもいいな。家具家電はもちろん最新のもので、あと別荘も欲しいな。それでそこに、」
厚かましい妄想を続けていた小野寺は、ふと目を開けると、二人ともいなくなっていることに気付いた。
「あれ、いない……」
まだ夕方にもかかわらずすっかり暗くなった通学路を、クラブ帰りの生徒たちが大勢いる中、七海は一人で歩いていた。
『信じて待つ……。簡単なようで難しいことだわ。待つことにも勇気が必要だと言うし』
車が来ていないのを確認して、下校中の生徒の列を追い抜いた。
『それより、寂しいわね。これだけの生徒がいるのに、彼らから見たら私は存在していない。誰の世界にも私はいない……。じゃあ、私の世界には誰かいるの? わからない。私は空っぽだから。それなら、時折誰かと手を握り合っているのが見えるのは、そういう願望? 約束された未来じゃなくて?』
誰とも離すことなく家に帰り、家族で夕飯を食べた後、自分の部屋で勉強をしていた。
『なかなか集中できないわ。暗闇の中をずっと落ち続けているみたい……』
しばらくして、扉をノックする音が聞こえた。七海が返事をすると、七海の父親が扉を開けて部屋に入ってきた。七海の父親は扉を閉めて壁にもたれかかった。
「最近えらい暗い顔してんな~。大丈夫か?」
「大丈夫、とは言えないわね……」
「ほんまかいな。なんかあったんか?」
「何か。そうね、今回は何かがあったからこうなってるのよね」
「そうか~。まあそれでなくても香織は常に苦しみを感じながら生きてるわけやから、その上で何かがあったらそらダメージ大きいわな。でも、今回は何かが起こってるわけやから、周りの人間が力になれるんちゃう? 一生を通した生そのものを苦しみだと思わせるものに関しては、そういうわけにもいかんけどな」
「確かにそうね。何かが起こっているから、助けてもらおうかしら」
「ええで。何でも言ってや。ドーナツだけはあげられへんけどな」
七海は一瞬、目を見開いて絶句した。
「お父さんは、運命の人について、どう考えているの?」
「運命の人か~。なんでそれが知りたいん?」
と言うと、七海が両目を閉じて拒絶の意思を示しているのを見て、七海の父親は諦めた。
「……かは聞かんとくわ。運命の人についての何が知りたいん? ていう質問やったらいい?」
七海は目を閉じたまま頷いた後、目を開けて言った。
「そうね。お母さんはお父さんにとって運命の人?」
「いやめっちゃ答えんの恥ずかしい質問投げかけてくるやん、自分拒絶しておきながら。まあええけど。そうやな。運命の人やと思うわ」
「じゃあお母さんと結ばれるまでは、想像を絶する苦しみだったんじゃない?」
「そらそうやな。なんせ、運命の人やからな。……」
「どうやってその苦しみに耐えたの? だって、運命の人が別の人と結ばれる可能性だってあるわけじゃない?」
「それはないで。だって、運命の人なんやもん。別の人と結ばれとったら運命の人ちゃうやん」
「言われてみれば確かにそうね。でも、今好きな人が運命の人だと思いたいじゃない? だけど、そう確信できるだけの証拠はない。そうなったら誰かに獲られる不安が出てこないかしら? そのために必死になって焦りながら、手に入れるための行動をしないといけない苦しみも」
七海の父親は「ついに言いよったな」の顔をした後、答えた。
「好きな人が運命の人かそうでないかによらず、なんか物を得るための努力、みたいなもんは何一つ意味を成さへんからな。そもそも、人間を物みたいに手に入れようというマインドは、俺は嫌いやねんけど、たとえ物みたいに手に入れようとしたとしても、相手が人間やねんから、何もできることはあらへんやん。だって、最終的な決定権は相手にあるんやから」
「それはそうだけど……。じゃあ、何をしたって無駄ってこと?」
「運命の相手やったら、何をしたって結ばれるってことになるな。やからまあ、自分の[心]と向き合って、今自分にできること、その時その時にすべきことをやるしかないんちゃう? そもそもそれ以外、人間にできることってないやろ? つまりは、運命の恋っていうのは、誰かとの戦いじゃなくて、自分との戦いってことやな。
「確かに、そうね……」
「とにかく耐えることや。何かこっちから行動を起こさなあかん時は、「心」が背中を押してくれる。あとほんまに好きなんやったら、その人を信じることやな。きっと正しい選択をしてくれるって」
「……。わかったわ。ありがとう、お父さん。お礼に、お父さんの分のドーナツを食べてあげるわ。健康のために」
七海の父親はもたれるのをやめ、今日一番必死にツッコんだ。
「なんでやねん! ちゃんと一日の摂取量の上限守ってるから大丈夫や!」
「ドーナツに対して摂取量の上限とか気にする時点で大丈夫じゃないのよ」




