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第18話 またしても文化祭二日目一

     またしても文化祭二日目一

               *

 文化祭二日目になった。昨日と同じ要領で、七海はカウンターの一つを一人で担当していた。そんな七海のカウンターに、孤独な老人がやってきた。老人はゆっくり椅子を引き、どこまでも沈み込んでいくような雰囲気を漂わせながら座った。

「いらっしゃいませ。お飲み物は何にしますか?」

「豆乳、ロックで頼む」

「かしこまりました」

 七海は小さめの紙コップで注文の品を出した。それを受け取ると孤独な老人は、きついお酒を飲むように豆乳を飲んだ。

「深みがある。年代物じゃな?」

 紙コップを拭きながら七海が答えた。

「いいえ。今朝近くのスーパーで買ってきたやつです」

「なら、おぬしの注ぎ方が上手かったんじゃろう」

「ありがたいお言葉です」

「いつからここで働いておる?」

「昨日からです」

「いつまで働くつもりじゃ?」

「あと二、三時間後までです」

「そうか。それがよかろう。今の時代、一つ所に身を置いていても、何も良いことはない」

「昔はそうではなかったのですか?」

「そうじゃ。昔はな、主人が居場所を守り、従者がその恩に尽くし、生涯その身を捧げるという関係が普通じゃった。それが今の時代は何じゃ。主人は従者を使い捨てにするわ、従者は主人を利用することしか考えておらん。利害に支配された、人間疎外の社会じゃ。それで多くの人間が精神を病んでしまった」

「どうしてそうなったのでしょうか」

「情報化が進んだことによって世界の時間の流れが加速したからじゃ。そして、昔の生活形態のまま経済分野だけ、その時間の流れに追いつこうとした。要するに、基礎体力を上げないまま走る速度だけを上げ続けた結果、息切れしてしまったというわけじゃな」

「なるほど。では、この世界はどうすれば再び息を吹き返すことができるのでしょうか」

「捨てたつもりになっている荷物を、もう一度取り戻すことじゃな」

 七海はまだ同じ紙コップを拭き続けていた。

「と、いいますと?」

「今の社会は、色々なものを見て見ぬ振りしてやり過ごしてきた。その中に、大事なものが沢山あったんじゃよ」

「大事なものですか?」

「人間には到底理解し得ないものじゃな。[心]や[魂]、[精神]、[真理]、[神]、[法]。様々な名で呼ばれておる、目に見えぬ存在」

 七海の持っている紙コップがへこみ始めた。

「目に見えない存在……」

「今の人間にはもっと敬虔さが必要だということじゃ。もう一杯もらえるか?」

「かしこまりました」

 七海は孤独な老人のコップに豆乳を注いだ。孤独な老人はゆっくりと半分ぐらい飲んでから覚悟を決めたように言った。

「今度はワシの悩みを聞いてくれるか?」

「私のお力になれることであれば」

「助かるよ。ワシはこの人生の大半を、目に見えるものだけに使ってきた。そこに自分が生きた不滅の痕跡を残せると思っていた。じゃが、目に見えるものの世界には変わらぬものなどなかった。ワシはもはや、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のような状態なんじゃ。ワシの知っているものは、記憶の中だけにしかいない。ワシのことを知っているものも」

 孤独な老人の独白を聞きながら七海は、へこんだ紙コップを復元し始めた。

「そうでしたか」

「ワシはこの一人だけの世界で、どうやって生きていけばいい」

 七海は紙コップを置いて両手で机に触れた。

「私は、私の知っているものも、私のことを知っているものも、この世界にあります。ですが、それでも孤独を感じずにはいられません。おそらくですが、この世界は、孤独なものだけでできているのでしょう。あなたはさっき、目に見えない存在について話されました。目に見えない存在は、その存在を変えることはない」

「ほほう。確かにそうじゃ」

「遥か昔から、目に見えない存在の正しさ、美しさを証明するために生きた人間たちが大勢いました。その多くは名を残していません。また、そのことを讃美した偉大な詩人たちでさえ、今の若者のほとんどがその名を知らない始末です。ですが、その目に見えない存在の正しさや美しさの証明のために生きようとするこの私は彼らのことを知っている。偉大な詩人たちの名を、この欲望の灰が降り積もった世界の中で掘り起こし、見つけた。名もなき英雄たちのことは、たとえその名を知らずとも、その[心]は、この胸の中に全て抱きかかえている。それは、目に見えない存在が変わることのない存在だからであり、それゆえ、そのための行為の動機となる[心]も、変わることがないからです。私のような人間は、現在にもまだいるでしょうし、これからたくさん生まれることでしょう。私はその彼らの[心]も抱きかかえている。そして、彼らも私の[心]を抱きかかえている。時間や変化なんて関係ありません。過去に生きたものたちも、私の、まだ見ぬ彼らの[心]を抱きかかえていた。だから、あなたはそのまま、[心]を大切にして生きればいいのではないでしょうか。[心]は場所も時間も超えて繋がっています。だから一人じゃありません」

「ほう……。そうか……」

 七海の言葉に目が覚めた孤独な老人は、残りの豆乳を少しだけ大袈裟な素振りで飲み、言った。

「感謝するぞ、若人よ。おぬしの言う通りじゃ。ワシも、まだまだ諦めずに生きるとしよう」

 孤独な老人は立ち上がり、教室を出ようとした。七海はそんな孤独な老人の方を見て言った。

「またいらっしゃってください」

 孤独な老人はゆっくりと振り返り、微笑んだ。

「もうすぐ辞めるんじゃろ?」

 そう言って、孤独な老人は教室を出ていった。

 しばらくして、疲れた中年男性が七海のカウンターにやってきた。

「いらっしゃいませ。お飲み物は何になさいますか?」

「そうだな~、じゃあ、メロンソーダにしようかな~」

「かしこまりました」

 七海は疲れた中年男性の前にジュースを置いた。疲れた中年男性は礼を言ってからジュースを少し飲んだ。マスターはしわのある紙コップを拭きながら尋ねた。

「随分お疲れのようで」

「そうだね~。僕は疲れたんだね~」

「可能なら、お伺いしても?」

「いいよ~。具体的な内容は話せないけどね~」

「ぜひお願いします」

「端的に言えば、何かのフリをすることに疲れたんだと思うよ~。上司のことを尊敬している部下のフリ、同期と仲良いフリ、部下に慕われる上司のフリ、頼りになる父親のフリ、魅力的な旦那のフリ、健康的な息子のフリ、楽しいフリ、嬉しいフリ。結局全部中途半端だったんだけどね」

「それは、大変だったでしょう」

「そうだね~。自分に嘘をつくのはエネルギーのいることだからね〜。でもその場限りだけど気持ちが楽になるのも事実なんだ~。何かしないといけない、自分にとって大事なことを、先送りにしているだけなんだろうけどね~」

「つまり、楽になりながら楽をしている、と」

「そうそうそんな感じ~。マスターもない? そういうこと」

「私ですか。私の場合、楽をしても楽にならなかったです。この社会の一員として生きるには、何者かでいなければいけません。なので、何者でもないのに何かのフリだけはし続けなければいけませんでした」

「そうだったんだ~。でも、全部過去形で話してるってことは、今はそうじゃないってこと?」

「ええ。何者かのフリをし続けた結果、ある日心が壊れたんです。そうなってからはもう、同じことはほとんどできなくなりました」

「そうだったんだ~。マスターも大変だったね~」

「そうですね。ですが、何者かの振りができないということは、逆に言えば、[本心]に従っていられるということですから、自分に鞭を打って何かを演じる苦しさは弱くなりました」

「なるほど~。でも[本心]って怖くない? 僕の体感としては、いつもその場の雰囲気とは違うことを思っているような感じがするんだけど~。それかあれだね~、何もしなくなるかだね~」

「それは[本心]が、未来に存在する行くべき場所に向かって進んでいるからでしょう。[本心]というものが、叶えられれば幸福になるものである以上、常に、幸福になるための道を歩いている必要があります。ということは、その道を歩んでいなければ、何か違う感じ、その場の雰囲気にそぐわない感覚を与えることになります」

 疲れた中年男性は、疲れた体をゆっくり少しだけ仰け反らせてから答えた。

「なるほどね~。じゃあ[本心]ではいつも幸せになるためのことを考えていたってことか~」

「そうですね。そして、[本心]というものは、最終的には全宇宙のリズムと調和することになるわけですから、ラジオの周波数を聞きたい放送局の周波数に合わせるように、それまでも全宇宙のリズムに近づきながら動いています。大きなものは少しずつしか進みません。大陸のプレートは一年で数センチメートルしか進みません。地球は太陽の周りを周るのに、三百六十五日かかります。それを全宇宙の規模で考えたら、とてつもなくゆっくり進んでいることになります。とてつもなくゆっくり進んでいるものを想像してみてください。止まっているように感じませんか?」

「確かにそうだね~。動いているかわからないな~。あ、じゃあ[本心]に従ったとしても、何もしなくなるってわけじゃないってことか~」

「そうです。止まったように感じてしまいますが、ほんの少しずつ動いているんです。また、その速度で見れば、私たちの活動する速度と同じになっているので、別にとてつもなくゆっくり体を動かさなければならないというわけではありません。」

「プレートの動きも、地球の動きも、僕たちの生活に大きな変化を与えるわけじゃないもんね~」

「ええ。まあ全員がとてつもなくゆっくり動く世界というのも、それはそれで面白いですが」

 疲れた中年男性は張り付いた笑顔から、本当の笑顔になった。

「全人類だるまさんがころんだだね~」

 疲れた中年男性はジュースを飲んで呟いた。

「なんだかちょっと心が軽くなったかも~」

「それは良かったです」

「ありがとうマスタ~。また頑張れる気がするよ~。それと、ちょっとずつ[本心]と向き合うようにしていこうかな~」

「微力ながら応援しております。くれぐれも、少しずつで」

 疲れた中年男性は、扉の方に向かってゆっくり歩きながら言った。

「ありがとう~。マスターも頑張ってね~」

 マスターは軽く会釈した。

『いつの日か、何かのフリをしなくてもいい日が来ますように』

 疲れた中年男性は教室を出ていった。

 次に、将来に絶望した小学生がカウンターにやってきた。七海は新しく犠牲となる紙コップを拭き始めた。

「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいますか」

「ほうじ茶でお願いします」

「かしこまりました」

 マスターは、将来に絶望した小学生にほうじ茶を出した。将来に絶望した小学生は、度数の高いお酒を飲んだような反応をしてから聞いた。

「マスター、僕の悩みを聞いてくれますか?」

「もちろんです。遠慮なく話してください」

「ありがとうございます。僕は小学生なんですが、それでももう未来に希望がありません」

「どうしてですか?」

「それは、社会全体としても、個人としても、明るい未来が見えないからです。経済は停滞するだけでなく後退しており、政治は明らかな人材不足で、でも高齢化社会だから若い人は少ない。各個人の単位で見ても、人間関係は少しでもマシな生活をするための道具に成り下がり、その辺の人と薄っぺらい繋がりで仮初の友情を築き、寂しくないフリをしなければならない。あらゆるシステムも、その場限りの享楽を生み出すためにしか活動していない。そしてそのささやかな快楽も、どんどん持続時間が薄くなってきている。こんな状態で、どうやって希望を持てというんですか!」

 将来に絶望した小学生は、机に向かって叫ぶような素振りで言った。

「まあまあお客さん、落ち着いてください」

「それに、大人たちはもう自分たちは関係ないと思っているのか知りませんけど、夢を捨てさせ、もはやなんの保証もない普通の人生とやらを押し付けてくる。周りのみんなは特に反抗するでもなくそれに従い、諦めムードを節々から漂わせながら楽しそうに生きている。それなのに、こんな異常な世界に対して異常を感じるものは精神異常者扱いだ。どうして私がおかしいというのですか!」

 酔いに駆られて激情的になってしまった将来に絶望した小学生に対し、マスターは水を渡した。

「お客さん、これでも飲んで一旦落ち着いてください」

「ありがとうございます……。マスター。あなたもまだ未成年ですよね? だったらまだまだ人生は長い。おかしいと思いませんか? こんな世界」

「おかしいと思います」

「そうでしょ? なのにどうして平常心を保っていられるんですか?」

「それは、一人立つ決心をしたからですよ」

「一人立つ決心? もう少し詳しく教えてください」

「わかりました。この世界は、いつも一人の人間の立ち上がる決心によって切り開かれてきたんです」

「一人って、一人の人間の力なんてほんの些細なものですよ。それに何ができる」

「確かに、一人の人間の力だけでは、世界は変えられません。たくさんの人間の力が集まらないと世界を動かすことはできません。ですが、そのたくさんの人間をどうやって動かすのか。それは、一人の人間の決心です。(人生意気に感ず)という言葉を知っていますか。人は、最終的には人の[志]によって動かされるということです。それに、この宇宙も生命です。大きな[心]と言っていい。だから実は、本当に[心の底]から決心すれば、一人の人間が世界を変えることもできるんですよ」

 将来に絶望した小学生は、言い返す言葉がすぐには見つからない様子になった。

「じゃ、じゃあ、どうすればそんな[心の底]から決心できるというんですか」

「それは、[心の底]まで行って、その願いを知ればいいんです。[心の底]は、時々[心の穴]と呼ばれるような深淵です。無限の虚ろが広がっている。だから人は、普段からその[穴]を塞ぐように何重にも蓋をしているんです。そのままでは[心の底]の声は聞こえない。だから、まずはその蓋を開け、次にその[穴]に入るように意識をそこに向けるんです。それを続けていけば、いつかは[心の底]にたどり着きます」

 それを聞いた将来に絶望した小学生は、まだちょっとやけくそさが残っている感じで聞いた。

「本当に、一人の人間に変えられるんですか?」

「私はそう信じています」

「信じるって。証拠がないと信じられませんよ。証拠とかないんですか?」

「証拠なんてものはただの気休めでしかありませんよ。ほとんどの理論にはそれが覆される余地がある。そして、覆る可能性がない完全な理論は、証明されることなく正しいものとして使われている。だから、証拠があっても自分がその反例とならないとは限りません」

 将来に絶望した小学生は突然、はっとしたように酔いが覚めた。

「僕にもできるでしょうか」

「ええ。そう信じられるように、まずは自分を変えてみてください」

「じゃあ、そうしてみます……」

「苦悩はいずれ、原動力となりますので、楽しみにしておいてください」

 マスターの言葉を聞いた将来に絶望した小学生は、そ~っと立ち上がり、扉に向かってとぼとぼ歩き始めながら時間を置いて返事をした。

「わかりました……」

「勝利の報告をお待ちしております」

 将来に絶望した小学生は教室を出ていった。

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