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第16話 省治学三

     省治学三

               *

 暑さと寒さがちょうど均衡を保つ奇跡が起こり始める時期に、二年の後期が始まった。省治学の時間が始まり、小野寺が教壇に立った。

「は~い皆さんこんにちは~。今日も省治学、やっていくよ~。今日のテーマは人間で~す。人間について質問がある人は、手を挙げてくださ~い。じゃあxくん!」

「人間とは一体何者なんですか?」

 小野寺は嘘くさく「お~」という口をしてみせた。

「ついにラスボスみたいな質問が来ましたね~。そういえばラスボスって、たぶんラストボスの略なんだろうけど、ラストボスからラスボスに略された感じしないよね~。最初からラスボスって言葉があって、後からラストボスって正式名称が付けられたように感じるよね~。みんな退屈そうな顔しないで~。貴重な先生の雑談ですよ~。もうちょっとありがたがって聞いてくれるかな~。

 ……じゃあやっつけてしまいましょう。人間とは何者か。

 それは、可能性です。

 人間の[心]は[究極の真理の結晶]だと言いました。[究極の真理]とはこの世界を創り出しているものです。この世界が[究極の真理]に縛られることはあっても、[究極の真理]がこの世界に縛られることはありません。

 私たちはその[究極の真理の結晶]によってできているんです。だから何者も限界を決めることはできないし、行き詰まりは決して無い、つまりは可能性ということです。では次! yくん!」

「人間と他の動物との違いは何ですか?」

「そこ気になりますか! ホモ・サピエンスの皆さま! ここで、残念なお知らせです。ホモ・サピエンスが賢い人間という意味だから、ついつい他の動物と異なるものが知性だと思ってしまいがちですが、賢さで言ったら他の動物の方が賢いです。だって、人間ほど同じ種族同士で殺し合い、自分の置かれた環境を破壊する生き物って他にいますか? 未だに人間は知性を動物より動物らしく振る舞うために使っていますよね? はい、そういうことです。だからといって、他の動物との違いを愚かさとするのもちょっと嫌ですよね。さっきも言いましたけど人間とは可能性のことですから、より善くなることもできるんです。

 では、人間と他の動物との違いは何か。それは、感情です。感情といっても、単純な喜怒哀楽のことではないですよ。自分のために喜んで、怒って、悲しんで、楽しむなんて、他の動物にでもできます。だからそれは本能です。感情とは、他者のために、人間のために生まれる精神の働きのことです。誰かのために怒り、悲しみ、誰かの喜びを喜び、誰かの楽しむ姿を楽しむ。これこそが人間の人間らしい姿です。

[心]とは[究極の真理の結晶]だと言いました。何回目やねん、って顔しないでください! 次その顔したら、……先生が傷付きます……。[心]とは[究極の真理の結晶]です! [究極の真理]ということは、普遍的ということです。普遍的ということは、あまねくあまねくということです。広く広くということです。

 つまり、その力を発揮させるには、本能ではなく、感情を働かせなければならないということです。誰一人として見捨てることなく、人間のためを追求していく、それが人間という生き物なのです。それでは次行ってみよ~う。七海くん、どうぞ!」

 いつも酷い目に遭っているため、小野寺は教壇に隠れて少しだけ顔を出す体勢になった。冷血な暗殺者のつもりになっていた七海は、立ち上がって銃を構えるようなポーズを取って

「人間は何のために存在するのでしょうか」

と言ってから撃つジェスチャーをした。小野寺は軽く撃たれる演技をし、そこからのそっと立ち上がった。

「何のために、が知りたいと。わかりました。ではお教えしましょう。人間は、二つの目的のために生きています。それは、楽しむことと、幸福になることです。人間をざっくり分けると心と体に分けられますよね~。その、それぞれに目的があるということです。体は楽しむため、心は幸福になるため、というふうにね。この二つがほんのちょっと違うために、人類は長らく迷走してきました。現代は、心を捨て、体だけで生きる、つまり、幸福を捨て、今を楽しむことだけを優先している社会だと言えるでしょう。しかしご覧の通り、精神疾患患者を無数に生み出す結果となりました。心を捨て、幸福を捨てて生きることに、人間は耐えられないということです。ほんの最近までは、楽しみを捨てないと幸福になれませんでした。それは、自然の驚異に今以上に翻弄されていたからであり、文明が始まったばかりでわからないことだらけだったからです。自分が飢えているのに近くの人にパンをあげたり、正しいものを守らんがために処刑されたりと、そういう人たちのためにしか幸福はありませんでした。しかし、少しずつ学問と文明が発達したことで、ある程度自然の驚異からは逃れられ、正しいこともほんの少しは明るみに出始めています。

 なのでこれからは、どちらも諦めない時代がやってくるでしょう! 少なくとも我々は、その第一便に乗っています! 楽しみとは、目の前にあるものです。幸福とは、苦しみの先にあるものです。ということは、先に苦しみと向き合えば、楽しみながら幸福でいられます。なので皆さんは、まず自分の苦しみと向き合い、自分の幸福とは何なのかを知って、そこから存分に楽しんでもらいたい、って今日ちょっと喋り過ぎてしまいましたね~」

 小野寺は自分の頭を拳で柔らかく叩いた。そしてすぐさまその手を顔の前に持ってきて、花が咲いたように開いた。

「それでは対話の時間で~す。隣人とお話してくださ~い」

 誰もがバラバラのタイミングで話し始めた。

 七海と金城の席はどうだろうか。

「いい射撃だったね」

「そ。そうかしら」

「まあ香織ちゃんは、俺のハートも射抜いてるからね」

「そういうこと言ってると、物理的にヘッドショットを決めるわよ。

 そんなことより、金城くんはどう思った? 人間について」

「現実と違うなって思ったかな。動物らしいってとこ以外」

「現実と違うから信じられない、ってこと?」

「まあそうだね」

「金城くんから見える世界にはどんな人間がいるの?」

「どんな人間、か。自分のことしか考えてない、服着てるだけの動物、かな」

 七海は曇り空を眺めているような顔で聞いていた。

「そうなの。確かにそれなら夢物語に聞こえるわね」

「七海ちゃんからはどう見えてるの? 人間」

「私もあなたと同じように感じることがあるわ。でもそれだけじゃなくて、頑張って人間らしく生きようとしているようにも見えるの。人間として生きたいっていう想いにお尻を叩かれながらね」

「人間として生きたい……」

 珍しく金城が策略の混じっていない言葉を発したのだった。

 小野と野山の席を見てみよう。

「どうだった? 話を聞いて」

「う~ん。私は人間のために生きられてる自信、あんまりないな~」

「確かに俺もそれは感じたな。ただ、誰も初めから人間のために生きられるわけじゃなくて、苦しみの先に、なにか人間の光みたいなものを見つけて、そう生きられるようになったんじゃないかな、とも思った」

「人間の光か~。どんな光なんだろう~」

「どうなんだろうね。でもきっと、優しい光なんじゃないかな」

「私の中にもあるのかな~」

「それは間違いないよ、人間だからね。俺もあんまり偉そうなこと言える立場じゃないけど、小野さんもきっと見つけられるはずだよ」

「野山くんは強いね~。どうして負けないでいられるの?」

「強いかどうかはわからないけど、[苦しみ]の先に偉大な人間たちの背中が見えるんだ。それを目印にするから[苦しみ]の中でも立っていられるって感じかな」

「なんだかかっこいいね~。その偉大な人間って、身近にいたりするの?」

「えっと、まあいる、かな」

「七海ちゃんとか?」

 小野は今日一番の楽しそうな顔で聞いた。急所を突かれた野山は一瞬目を見開いた後、その目が泳いだ。

「え?! どうしてそう思うの?」

「だって~、野山くん、七海ちゃんを見る時、すごく目がキラキラしてるよ~」

「そうだったんだ……」

 同じ日の放課後。七海と楓は、楓のクラスの教室で省治学サークルを始めていた。

「ねえ楓ちゃん、金城くんのことどう思う?」

「どうした? そんな恋する乙女みたいな顔して恋する乙女が聞きそうなこと聞いてきて。自分が何者か忘れたのか?」

「ちょっと、なんで私が暗殺者みたいになってるの。恋してるかは置いておいて、私は乙女よ。悩む姿だって浮世絵になるんだから」

「そこは別に普通の絵でいいだろ。それよりなんで私にあいつのことを聞くんだ?」

「なんでだろう。私自身が恋してるか知りたいからかしら」

「そのターゲットが金城だと」

「ターゲットって言い方はやめてほしいけど、まあそういうことね」

「恋って言っても、体が恋してる状態と[心]が恋してる状態は別物だからな。あいつは体を恋させることにおいては天才的だが、[心]については切り捨てている感がある」

「体の恋と[心]の恋……。体の恋っていうのは、この人かっこいいなと思ったり、女の子扱いしてくれることを喜んだりしている状態のことかしら?」

「そうだな。あとは嫉妬したり、独り占めしたくなったりしてる状態でもあるな」

「損得の次元での恋ってことね。じゃあ[心]の恋は?」

「心の恋は、損得を度外視して何かこの人の役に立つ生き方がしたいと思うような状態だ。いわば[愛]となる恋だな」

「利他的で、小野寺先生の言う意味での感情の次元での恋……。それは、利己的で、本能の次元での恋と両立したりはする?」

「小野寺先生が言っていた[心]と体、どちらも諦めない時代になりつつあるように、そのどちらもが成立する状態、そういう相手は存在するんじゃないかな。というより、そうあってほしい」

「楓ちゃんも、恋するクリーチャーってことね」

「いや確かにそうなんだが、もうちょっと可愛い名詞にしてもらえるかな」

 七海はグーサインを出してから尋ねた。

「それで、金城くんは体にけしかけるのが上手だと」

「そうだ。というか、[心]の恋はほとんど運命的なものだから、人間がどうこうできるものではない。なんせ[愛]となるものだからな」

「それはなんとなくわかるかも。たとえ何一つ見返りがなかったとしても、この人のためなら、どんな苦しみでも受けられると思うって、尋常じゃないことよね。なんたって苦しみだもの」

「金城は人間に対してすごく冷めている感じがある。あいつにそうさせている苦しみとは一体何なんだろうな」

「……彼は愛されていないのかもしれないわね」

「その苦しみに寄り添うことに命をかけられるか?」

「う~ん。それは難しいような気がするわ。ありがたいことだけど、私は周りの人に愛されてきたから、そもそも彼の苦しみを正しく認識できるかどうかもわからないし」

「苦しみを正しく認識するというのは簡単なことじゃない。それこそ同じ苦しみを体験しない限り不可能だ。そういう意味でも運命的であると言っていい」

「私にできることがあれば可能な限り力になってあげたいとは思うけど、もしそのために命を捨てる選択をしないといけない時があったとして、そのことに後悔をしないとは思えないわ」

「あいつにはまた別のそういう人がいるということだな」

「そうね。ところで、それだけ色々考えてるってことは、楓ちゃんも恋で苦しんでいるってことじゃないかしら? あなたはどんな限りある命に恋してるの?」

「なんでさっきからそんな抽象的なんだ。別に人でいいだろ。それに、私が恋しているのは限りない[心]だ」

 サークル活動を終えると、七海は一人で帰路についた。下足室を出ながらいつもの癖が発揮されていた。

『金城くんへの恋心ではないとすれば、この[心の穴]は一体何を求めているのかしら。わかっているような気もするけれど、確証が持てないわ。人はきっと、恋をしているんじゃなくて、恋していると信じているのね。でもそれじゃあ一向に前に進まないわ』

 校門を出て、乾いたオレンジ色の空の下、一人でゆっくり帰り道を歩き始めた。通学路は男女が入り乱れて帰っていた。

『やっぱり何かが足りない。そしてその何かが足りないがために、何をしても虚しくなる。もしかして私は、生まれた時からずっと恋しているのかもしれないわ。相手を知る前から。でももう限界ね。虚無という苦しみに、自分が溶けて消えていってしまいそうだわ』

 同じように下校中の高校生カップルを追い抜かした。自分にないものを持つ人々を見た時に生じる、自分だけが世界に見捨てられたような恐怖感によって、七海はさらに思考が加速していった。

『幸せそうね。私もそうなりたいんでしょうが、誰でもいいわけじゃない。ある(誰か)じゃなければ、この虚ろがはっきりするだけだわ。そうなったら、たとえ幸せを感じていても、幸せじゃない。それは相手を裏切る行為になる。生きとし生けるもの皆苦しみながら生きている以上、人間を裏切ってはいけない』

 電車に揺られながら、車窓から流れていく景色を眺めた。木々であろうとビルであろうと、人間であろうと、窓の端から端へ、瞬時に消えていく。

『どれだけ世界が変わろうとも、虚無は虚無のまま変わらない。それなのにどうしていつまでも変化し続けるの。何のために変化しているの。

 より善くなるため。その通りよ。確かに世界も、人も、私自身も、前よりはより善くなっている。それでも苦しいままじゃない。この先もより善くなり続けるんでしょう。でも、苦しみは存在し続ける。苦しみの先に行った人間たちは、どうして陰ることなく輝き続けているの。どこからそんな光が生まれるの。

 わからないわ。この虚無が、この孤独が、どうして人間の力となるのか』

 家の前に到着した七海は、自宅の玄関を合鍵で忍び込むように入った。

「どうしたの〜? そんな静かに入ってきて~」

 何もかもお見通しであるかのように、七海の母が玄関の電気を点けて近づいてきた。負けを認めた七海はコソコソするのをやめた。

「その気配を察知する能力の方こそどうしたのかしら?」

魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)する世界では仕方のないことなのよ。それより、どうしたの香織、何かあった?」

 七海は靴を脱いで家にあがった。

「七味の量がガバっと出る世界では仕方のないことなのよ」

「ここはそんな世界じゃないよ。話したくないこと?」

 七海は自分の部屋に歩いていった。

「いつものあれですよおかみさん」

「おかあさんね。それより大丈夫? 何か変よ」

 七海は電気も点けずに中に入った。

「いやだなお母さん。私はいつも変じゃありませんか」

「確かにそうだけど……」

 七海は目を大きく開いて扉のところに立っている母を見てから、目を閉じて胸に手を当てて預言者のように語った。

「この[苦しみ]を言語化することは到底できません。なぜなら、言葉というものは常に平面的だからです。まるで烙印だ」

「相談しにくいことかもしれないけど、私たちは待ってるからね。今日の夕飯はうどんよ~」

 キッチンの方へ向かった母に、七海は早歩きでついていきながら言った。

「七味の量がガバっと出る世界なのにですか?!」

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