王子は恋を知らなかった。
「恋とはどんなものだろうね」
王太子リチャードは、唐突にそんな問いを発した。
つい先月に婚約者となったばかりの公爵令嬢アンナマリーへと向かって。
「さて、わたくしにはわかりかねますが……急にいかがなさいました?」
それに対してアンナマリーは、音もなく滑らかにティーカップをソーサーへと置き、小首を傾げる。
婚約者との茶会において発するような問いではない、と不快に思っても仕方のない問いに、しかし彼女は微塵も揺らいだ様子がない。
何故ならば、リチャードの瞳は見知らぬ誰かへの想いに揺れてなどはおらず、純粋な興味として発せられた問いだったから。
アンナマリーがそのことを察していると彼もまたわかっていて、だからまるで慌てることなく彼女へと視線を向ける。
「うん、こう言ってはなんだけれど、私達は純然たる政略結婚として婚約が結ばれたわけだよね?」
「はい、王家と我が公爵家の縁を結び、国内を安定させるため、でございますね」
リチャードの問いに、アンナマリーは特に表情を動かすことなくこくりと頷いて見せる。
どういった意義があるかは彼女も説明を受けて理解し、納得の上で婚姻に応じているのだから、今更といえば今更だ。
もちろんリチャードとてそれはわかっているのだが……向けられたアンナマリーの視線へと、彼は苦笑を返す。
「それが重要なことだとはわかっているし、王家の人間として、王太子としての義務を果たすつもりはある。
ただ、貴族の間でも恋愛結婚が増えてきている昨今に、親が決めた相手と政略ばかりで縁を結ぶのもどうかと思ってしまったんだ」
「まあ……なるほど、それは……わからなくもないですけれども」
リチャードもアンナマリーも15歳、お年頃と言えばお年頃。
思春期的なあれこれで、リチャードが恋愛というものに対して憧れを抱く気持ちもわからなくはない。
「もしかして、運命の出会いとやらに憧れが?」
「ないとは言えば嘘になる。ただ、あれが基本的にはフィクションだということもわかっているよ。
たまに、本当にそうとしか思えない出会いもあるみたいだけれど……」
「本当にたまに、ごく稀にという頻度でしかございませんものね」
二人の脳裏に浮かぶのは、例えば身分差を押し切って結ばれたとある侯爵夫妻だとか。
そうやって結ばれた夫婦がいることは事実だが、滅多にあることではない。
恋愛結婚が増えてはいるが、基本的には同じ家格同士での出会いがほとんどである。
「今まで交流なさった令嬢で、この人は、と思う方はいらっしゃいませんでしたの?」
「……失礼なことを言ってもいい?」
「割と今更かと思いますわよ? ですが、こうして腹を割って話をしておくのも大事かと思いますので、どうぞご遠慮なくおっしゃってくださいまし」
「……ありがとう。では……」
若干呆れを滲ませながらアンナマリーが言えば、リチャードは申し訳なさそうに頭を下げ。
深呼吸を一度して。
それから、口を開いた。
「正直に言うと、全員勘弁してくれと言いたかった」
「また随分とぶっちゃけますわね」
思わぬ返答に、アンナマリーは目を瞬かせる。
誰もお眼鏡に適わなかったのだろうとは思ったが、それにしても予想以上である。
「詳細に言うと愚痴になってしまうから割愛するけれど、アプローチがくどくてしつこくて……トラウマになりそうなレベルの子もいたし……」
「ああ……だから、わたくしなのですね。政略的に意味があり、かつ殿下とほとんど交流がなかったから」
「失礼を重ねるようで申し訳ないけれど、正直それもある。実際、同年代の令嬢と落ち着いて会話しているのは初めてだよ」
「確かに、殿下の周りには常に十重二十重とご令嬢方が群がっておりましたものねぇ……」
若干ではあるもののリチャードの口調に苦いものが混じったあたり、本当にトラウマになりかけたのだろう。
以前貴族令息令嬢が集まる茶会で見かけた光景を思い出し、アンナマリーは遠い目になった。
確かにあれでは、むしろ恐怖を覚えてもおかしくはない。
しかし、このまま恋に対する憧れを抱えたままでは、後々何か間違いが起こる可能性は十分ある。
そう考えたアンナマリーは思案した。
「……でしたら、交流会を開いてみるのはいかがでしょう」
「交流会?」
唐突なアンナマリーの提案に、思わずリチャードはオウム返しに問い返してしまう。
それに対してこくりと頷いて見せたアンナマリーは、少しばかり背筋を伸ばした。
「殿下が今まで交流なさっておられたのは、伯爵家以上の令嬢令息ではございませんでしたか?」
「それは確かにそうだけど。……ああ、そういうことか。子爵家以下の者達とも交流を持ってみるのはどうかと言いたいのかな」
「ご賢察でございます。ちょうど一ヶ月後にわたくし達は王立学園へと入学いたします。
その入学式の後に身分を問わず参加出来る交流会を開くのはいかがでしょう」
それを聞いたリチャードは、しばし考えて。
それから、うん、と頷いた。
「なるほど、いいアイディアだと思う。
学園の理念にも沿っているし、生徒達が打ち解ける一助になるかも知れない。
不純な動機を抜きにしても開催する意義があるね」
リチャードが言えば……返ってきたのは、ジト目だった。
「不純だという自覚はおありだったのですね……」
「誤魔化すのも不誠実かと思ったんだけれど、不快にさせたなら申し訳無い」
「いえ、少し呆れただけです」
「き、君も中々言うね……」
素っ気ない言い方に、リチャードは小さく噴き出してしまう。
王太子である彼に対して、お追従ではない言葉を向けてくる令嬢が果たしてどれだけいるものか。
だからか、彼女の言葉はなんだか小気味よく思えた。
「では、不純な私は不純な企画を持ち込んでみることにするよ」
「本当に開催なさるのでしたら、言い出したのはわたくしですし、お手伝いいたしますよ」
「ああ、では頼む」
そう言いながらリチャードが差し出した手を、アンナマリーはそっと握り返したのだった。
それから一ヶ月と少し後。
「開催してみて、よっくわかったよ……」
交流会の慰労を兼ねてアンナマリーを茶会へと招待したリチャードは、挨拶が済んだところでいきなり溜息を吐きながらそう言った。
「おわかりになったとは、一体何をでしょう」
「わかってるくせに」
はて、と小首を傾げるアンナマリーへと、リチャードは苦笑して見せる。
「子爵以下の家の令嬢との恋愛は難しいし、平民とはなおのこと。
あそこまで文化、知識教養、なんなら常識まで違うと、会話を成立させるのすら大変なんだとよくわかった」
「左様でございますか」
「多分君は、そのことがわかっていたんだろう?」
問われて、アンナマリーはその唇に薄く笑みを乗せた。
「わかっていた、までは申しませんが、恐らくそうなのではないかと考えてはおりました。
王家と違って我が公爵家の使用人には平民の者もおりますから、市井の者の様子はまだ伝わってきますので」
「なるほど、ね。いや、私の不明を悟る良い機会でもあったよ。
例えば平民達は食事で使うフォークを一人一人に用意することは難しいから、肉なども手づかみで食べるのが当たり前だとか。
……いや、それ以前に、そもそも肉が相当なご馳走で、食べる機会が少ない、だとかもだね」
「学園に入学できるような家の子ですのに、肉に対する反応は激しかったですからね……あれにはわたくしも驚きました」
一部の特待生を除き、学園に入ってくる生徒は平民でも裕福な商人などの子になる。
そんな家の子供達でも、特に男子は肉料理へと群がっていたし、皿に山盛り載せていた。
それは、貴族家の令嬢令息から見れば、奇異に映ったのは間違いない。
交流会は、あちこちにテーブルと椅子を配して座席を指定しない、食事をセルフで取りに行くビュッフェ形式で行われた。
様々な人々と交流出来るように、との配慮のはずだったのだが……結果、それがお互いの違いを鮮明にしてしまったのは、皮肉というか何と言うか。
食事を取りに行く時の歩き方、椅子への座り方、なんなら皿への盛り付け方。
何よりも、食べる時の所作。
まずそれが平民と貴族とで大きく違ったし、同じ貴族でも高位と下位でまた違った。
平民や下位から見れば高位貴族と一緒に食べるのは肩が凝る。
高位貴族から見れば、不快感を催す者もいただろう。
結果、最終的には同じ程度の階層に属する者達で固まりがちになっていった。
「多分だけど、時期も狙っただろう?
もっと庶民慣れした後であの様子を目にしてたら、あそこまでのギャップは感じなかったかも知れない。
ところが、入学式の直後というタイミングであれを目にしたら……ちょっとないなって思っちゃうよ」
リチャードが問えば、アンナマリーは口元に手を当てた。
その向こうで、くすりと笑った気配がする。
「そこもお気づきになられるとは、流石でございます。
……殿下は、茹でた蟹を召し上がられたことはございますか?」
「あるにはあるけど……そういえば、君の家の領地では名産だったね」
「あら……知っていただけていたとは、名誉なことでございます。
その蟹ですが、実はいきなりお湯に入れてしまうと、足がもげることがあるそうなのです」
「そうなのかい?」
いきなり始まった蟹の解説を、しかしリチャードは遮らない。
どうやら比喩を使って説明するらしいと考えたのだが、正解のようだ。
「何でも、蟹は敵に襲われた時や身の危険を感じた時に足を身代わりにするのだとか。
そのため、茹でようと沸騰したお湯に入れれば、熱湯の熱さに驚いて反射的に足を自ら切り離すそうです。
ですから漁師達は、真水につけて意識を失わせてから茹でるですとか、水からじわじわと温度を上げていって茹でるですとかの工夫をしておりまして」
「なるほど、話が読めた。一目惚れしてのぼせ上がるだとか、平民らしい所作に慣れた後に交流会を開いても違和感を感じない。
けれど、あのタイミングでいきなり見せられれば衝撃の方が勝る。ビュッフェ形式の食事にした狙いもそこなわけだ」
リチャードの言葉に、アンナマリーは笑顔を返すのみ。
貴族の会話では、沈黙は肯定と取られることがほとんど。つまり、そういうことだ。
「まあ、高位貴族の令息達が距離を取ろうとしてるのにもめげない子達もいたけれど。
特にあのピンクの髪の子はしつこかったなぁ……」
「あのバイタリティはある意味才能なのでしょうけれど……流石に、いきすぎでしたわね」
はふ、とアンナマリーが小さく溜息を吐く。
ちなみに、そのピンクの髪をした元平民の男爵令嬢は、警護の騎士がいつのまにかどこかへと連行していった。
そういったトラブルはあったものの、大きく致命的なものはなかった、と言っていい。
「私としては、メリットも大きかったけどね。
下位貴族や平民の優秀な子息達とも交流出来たし、彼らの視点もわかった。
……優秀であっても、自らの視座から離れて見ることは難しいのだと痛感したよ、もちろん私もだけれど」
平民はその日の暮らしや自分の家族、商家であれば従業員を守るために。
下位貴族であれば家の存続や領地の運営を。
それぞれに手の届く範囲があり、そこを守るのに手一杯で、天下国家を論じることが出来る者など皆無。
もちろん彼らが彼らの領域を守ることは重要なことであり、そういう意味ではそこに貴賤はない。
しかし、それだけではいずれ大きな脅威が訪れ、守ることが出来なくなる日がくる。
そんな脅威から彼らを守るために国家を運営すべきであり、それを担うのが高位貴族であり王族なのだと痛感した。
その意味において、この交流会は成功だったと言っていいだろう。
そして。
「それから、君の狙いにはもう一つあったんじゃないかな?
少なくとも同学年の中では、君こそが私の隣に最もふさわしいと示す、っていう」
「まあ、わたくしそんなに傲慢な人間に見えますかしら」
驚いて見せるアンナマリーへと、リチャードは苦笑を向ける。
多分彼女もわかっている。その上で演技をしているのだろうけれど、そこを突くのは野暮というものだろう。
「全く見えないのが更に怖いんだけどね?
でも……例えば私が令息達と地方の課題だとかについて論を交わしていた時に、他の令嬢達は近づきもしなかった。
おかげで楽だったけど。
その中で、君だけは私達に交じって議論に参加出来てたでしょ」
「……先日、王妃殿下からお言葉をいただきました。王妃は時に王の代理を務める必要があり、王と同じ言葉を語れるようにならねばならない、と」
「なるほど、母上らしい」
感心したようにリチャードは頷く。
彼の母である王妃は、女傑と言って良い程の人物。
その彼女からそんな言葉を贈られたアンナマリーもまた、女傑の素質を持っているのだろう。
だから。
「だから、恋をするなら君とがいいと思った」
「……はい?」
唐突にリチャードが口にした言葉を受けて、アンナマリーは聞き返すというマナー違反をしてしまった。
だが、もちろんリチャードはそれを咎めない。
それどころかむしろ、悪戯が成功した子供のような笑みを見せる。
「だからね、恋をするなら君とがいいと言ったんだ」
「聞こえて、おりますけれども? 何を唐突に、と思っただけでして」
「確かに、唐突だけれども。
あれだけの人達と話をして、一番落ち着くのも君なら、会話していて一番わくわくするのも君なんだ。
ということは、私は君とだったら恋が出来るんじゃないかなって思って」
完全に予想外だったのか、アンナマリーは言葉を返すこともなく瞬きをするばかり。
そんな彼女が可愛くて、リチャードは彼女の手を取った。
「だから……これから口説いていくので、覚悟して欲しいな」
そう宣言すると、彼はアンナマリーの手の甲に唇を落とした。
ぴくん、と一瞬だけその手が震えて。
「左様でございますか。どうぞ殿下のお心のままに」
返ってきたのは、素っ気ない言葉だったけれども。
アンナマリーの顔は真っ赤に染まり、触れている手は熱を帯びている。
「……なるほど、君にとっては、これくらいでも熱湯なんだ」
目を細めて笑いながら、リチャードは思う。
恋とはきっとこのことだ、と。
後に、リチャードは賢王として歴史に名を残すことになる。
優れた政策を次々と打ち出し、王国中興の祖とも称えられる彼だが、その隣には常に王妃アンナマリーが仲睦まじい様子で寄り添っていたという。
それは息子に王位を譲った後も変わることなく、晩年は二人で穏やかに暮らしたのだとか。
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